@enoz0201

 壁は、見えなくしちゃうもの。

 壁は、大きくてこわいもの。

 壁は、寄りかかってねむれるもの。



 嫌なことがあった。

「はあ……」

 他の人から見れば、きっとあまりにも小さなこと。とんでもなくちっぽけで、わざわざため息をつくほどでもないような、そんなこと。でも、ぼくにとってはとんでもなく大きい、一大事。

 あの子が、他の男の子と話していた。

「はああ……」

 そのことを思い浮かべただけで、嫌な気持ちが大きくなる。こないだぼくを祝ってくれていた町の桜も、あたたかな陽気も、とたんに悲しくなってしまう。

 ぼくは、小さな背中(そんなに身長は低くないのだけれど、大人の人なんか見るとやっぱり小さい)を丸めて、とぼとぼと帰り道を歩いていた。いつもはあの子と帰るのだけど、今日ばかりはそうはいかない。あの子に話しかけられる前に急いで学校を出た。少し走ったから苦しくて、だから今は歩いてるけど、本当はすぐにでもお家に帰って眠りたかった。

「でも……寝れないかな。まだ夜じゃないし」

 なら、この気持ちはどうすればいいんだろう。モヤモヤして悲しくて、そしてちょっぴり怒ってる。眠って、夢の中に置いていけないなら、どこかに捨ててこようか。誰にも邪魔にならない場所……世界の端っこ。そうだ、そうしよう。確か絵本で、世界の端っこにはレンガの壁があって、「ここから先はありません」って張り紙がしてあるって、

「わ」

 こつん、と。考えながら歩いていたせいで、あたまを何かにぶつけてしまった。ぶつかったものはとてもかたくて、だから音も大きくて、頭も痛い。

「いたた……え?」

 でもそんな痛さも、それを見たらすぐに吹っ飛んだ。

 目の前に立っている、大きなレンガの壁を見たら、痛くなんて無くなっていた。

「わあ……」

 壁はぼくの何倍も高くて、横の端っこが見えないくらい長かった。赤いレンガは古いものみたいで、ところどころ少し欠けていた。

 すごい。こんなおっきな壁、初めて見た。でも、なんでこんなとこに立っているんだろう。なんだろう、これ。

「あっ、」

 うんうんと考えていると、ふと思い出した。そうだ。さっき考えてたこと。世界の端っこにはレンガの壁があって、「ここから先はありません」って張り紙がしてある。そう、絵本に書いてあった。

 だからここは、世界の端っこなんだ。端っこだから、レンガの壁が立っているんだ。だって、近くを見ても知らないところだし。建物も人もいなくて、背の高い草だけがぼうぼうと生えてるなんて、そんなところ近くにないし。

 それにしても、いつの間にそんなところについたんだろう。考え事しながら歩いてたから、気づかなかったのかな。多分、ずーっと遠くまで来てて。

「世界の、端っこ……」

 声に出してみても、なんだか不思議な感じがした。世界はきっと広いと思ってたけど、ぼくでも端っこまで歩いてこれるなんて、そんなには広くないのかもしれない。そんなことを、思った。

「……そうだ」

 思うついでに、また思い出した。世界の端っこに来たらやりたかったことを、思い出した。

 周りに壁と草しかないのを確かめてから、大きく、声を出す。

「あの子が、他の男の子と話してたんだー!! それが、なんか、すごいモヤモヤするんだーー!!!」

 気持ちを全部捨てられるように、できるだけ大きな声を出した。頑張って頑張って、レンガの壁の向こうがわに置いていけるようにした。

「何それ。小さい男ね、あなた」

 だから、突然壁の向こうから声が聞こえてきた時、ぼくはまだぜえぜえと息を吐いていた。そこに女の子の声が聞こえて、驚いて少しむせてしまった。

「驚いてむせるなんて、ますます小さい男ね」

「う、げほ、うるさいなあ! なんだよお!」

 むっとしながらきょろきょろと見回しても、やっぱり近くには誰もいない。ぽかぽかとあたたかいお日様と、それを元気いっぱいに浴びている草しか見えない。それって、つまり……。

「ねえ、君は、壁のむこうにいるの?」

「そんなの、声のする方なんだからわかるでしょ!」

 わかりにくいけど、ぼくの言った通りみたいだった。

 そうか、世界の端っこの向こうから……じゃあ、壁のあっちにも、世界があるってことなのかな。あれでも、それだと世界の端っこじゃないような。

 ちょっとややこしくなってきた。でも、ぼくにはそんなことを考えてる暇はなかったんだ。

「いちいち確認するなんて、やっぱり小さい男ね!」

 正解を思いつくより早く、女の子がまたそんなことを言ったから、世界の端っことか、どうでもよくなってしまったんだ。

「さっきから小さい小さいって、うるさいよ! ぼく、背は低くないし!」

 ぼくは、むかついていた。なんでそんな嫌なこと言われなくちゃなんないんだって、そう思った。

「そういう意味じゃないわよバカ!」

「あ、今度はバカって言った!」

 小さいの次はバカって言われて、ますますイライラが大きくなる。もう、なんとかしてこう、壁を登って顔を見て怒ってやりたいって、そんな気持ちも芽生えてくる。それはできないから、声だけは大きくして返事をする。

「あの子って、つまりは女の子で、あなたが好きな子なんでしょ! その子が別の男と話したってだけで嫉妬するなんて、それが小さいって言ってんのよ!」

 それも、できなくなった。

「そ、それは……」

 バカって言う方がバカなんだって言い返そうとしたところでそう言われて、言葉が出てこなくなった。でもとかだってとか、小さい声は少し出たけど、壁は高くて向こう側には聞こえない。

 その間に、女の子はどんどんと続きを話す。

「男と話すだけでそんな怒るなんてね、多分あんたしか友達がいないとか、ずっと一人だからあんたが話しかけてあげてたとか、そういうことなんでしょうけど! それならむしろ喜んであげなさいよ! 話せるようになったんだから、それは嬉しいことでしょうよ!」

 まくしてたてる大声は、女の子と思えないくらい強くて、厳しくて、こわくて。僕は少し、泣きそうになっちゃったけど。

「あんたが友達になってあげたんだから、話せるようになったんでしょ! ならきっと、その子もあんたに感謝してるわよ! 感謝してるから、勇気を出して新しい友達を作りに行ったのよ!」

 でも、言ってることは正しくて、言い返すところなんてなくて。

「それを嫉妬するのが小さいって、そう言ってんのよ!」

「……」

 だから。

「……そっか」

 だから、その通りなんだって、ぼくのモヤモヤは良くないモヤモヤなんだって、そう納得しちゃったんだ。

「なんか言ったー!? 小さくて聞こえないんですけどー!」

「いや、なんでもない! 教えてくれてありがとう!」

 お礼はちゃんと言いなさいってお母さんにいつも言われてるから、しょうじきに言葉を返す。

「なっ……」

 壁の向こうにいる子は、ほんとうのことを言ってくれた。多分、ぼくの気になってるあの子と同じなんだ。あの子はいつも静かだから変な子って思われちゃう。壁の向こう側の子は、ちょっと厳しくて怒ってしまう。ぼくも、最初はなんだとーって、嫌な気持ちになってた。

 でも、それは違くて。その怒ってるのは、厳しいのと、それと優しいので怒ってて。本当は、ちゃんと話してみたら、きっととってもいい子なんだ。あの子と同じで。

「急に素直になって、何よ! 怖いじゃない!」

「うん、でも、ありがとうって思ったから!」

 あの子のことを考えたら、元気も勇気も湧いてきた。もうモヤモヤなんてしないで、あの子と話したいって、そう思ってきた。

「じゃあ、ぼく、行くよ! あの子と話してくる!」

 我慢しきれなくなって、走り出した。世界の端っこだから帰れないかもとか、そういうことは考えなかった。

「……どういたしまして。私も、少しすっきりしたわ」

 壁のあっちから何か聞こえたような気がしたけど、そのこともあんまり考えなかった。



 それからレンガの壁は、時々ぼくの生活の中に出てくるようになった。

 友達と喧嘩した時。あの子への「好き」が、他のとは違うって気づいた時。お父さんの仕事が大変そうで心配だった時。勉強がうまく行かなかった時。そんな悩みを持って外をうろうろしていると、きまって世界の端っこにたどり着いた。そして壁の向こうにはいつも同じ女の子がいて、ぼくの悩みを聞いてくれた。

 でも、ぼくだけが頼りっぱなしでもなかった。いつも強気な女の子も、勿論元気がない時があって、ぼくが悩んでないのに世界の端っこに来た時は、大体女の子が悩みを抱えていた。いつも最初は平気なフリしてるから話してもらうまで苦労したけど、女の子も誰かに聞いてもらいたかったみたいで、お家が色々大変なこととか、友達がなかなかできないこととか、ついに好きな子ができたとか、ずっとそこにいるとぽつりぽつりと話してくれた。


 女の子がぼくを叱って、勇気づけて。ぼくが女の子の話を聞いて、元気づけて。壁を間にした、ちょっぴり変な、ぼく達の関係。

 それが始まってから、数年が経った。



「……あ」

 中学の卒業式が終わった、帰り道だった。友達と話して、あの子と話して、先生と話して。もう会わなくなる人もずっと一緒にいる人もいたけど、そんなことは関係なく、お互いに感謝を伝えあって。記憶にだけじゃなく、卒業文集のページに、物理的に感謝の言葉の記録を記して。そんな時間を、別れと終わりまでの空白を、少しだけ楽しんで、惜しんで。

 そして、友達と一緒に桜が咲き誇る歩道を歩いていたら、いつの間にか一人はぐれていた。

 目の前には、巨大なレンガの壁が立っていた。

「……」

 どうやら、僕には別に、終わりが待っていたらしい。中学校での日々と、それともうひとつ、長く続いた思い出が終わる。それは、例えば新たな高校生活に繋がる卒業式とは異なる、永遠の眠りのような終わり。

 それを暗示するかのように、いつも太陽が照っている世界の端っこは、日光と同時に白い雪を降らせていた。

 もう生涯、ここには来ない。これがきっと最後の会話になると、そう理解していた。

 最初の時と同じように、僕の方から声を上げる。

「今日、中学の卒業式だったんだ! みんなと色々話して、お別れとか、してきた!」

 しばらく間が空く。空いてから、言葉が返ってくる。

「奇遇ね! あたしも、今日中学を卒業した! 嫌なやつばかりの学校だったから、これでもう会わなくて済むって、せいせいしたわ!」

 彼女と僕は同学年だったのかという驚きと、僕とは正反対な感慨を抱いていることへの安心感が、同時に胸に去来する。

「あなた、結局受験は成功したの?」

「うん、あの子と同じ高校に受かったよ!」

 言葉を交わしながら、ふと思った。

 さっきの驚きと安心は、僕達の関係を象徴してるんじゃないかと、ふと思った。

「よかったじゃない!」

「というか、君も中学三年ってことは受験だったんだよね! そっちは大丈夫だったの!」

 数年間も会って話しておきながら、彼女に受験のことを相談しておきながら、僕は彼女も同じ受験生だって、そんなことも知らなかった。相談に関係しないことは一切話さないし、ある程度解決したら最初のようにすぐ帰るしで、個人的な情報はまるで知らなかった。

 でも、言葉を交わしてはいたから、彼女が卒業式に抱いた気持ちはとても「らしい」と、妙な居心地の良さを覚えてしまっている。相手の顔も素性も知らないのに、お互いの悩みと性格だけは理解している。少なくとも僕に関しては、ここ数年の苦悩は全部彼女との会話で解決した自信がある。

 本来は同居しないような、二つの距離感。踏み込むところと踏み込まないところがてんでバラバラな、歪な関係。実際の絵面も、壁に向かって大声で話しかけてるみたいで、どこか変だ。

「勿論! あなたと違って、私はできる女だから!」

 でも、だからこそ。そんな普通じゃない、気まぐれで切実で一時的で依存的で淡白で深い、表現に縛られない自由な関係だったからこそ、僕達は本音を打ち明けることができた気がする。お互いの現実に繋がっていないからこそ、家族にも恋人にも言えないようなことを話せたような、そんな気がする。

 だから、今回も。無意識で邂逅の終わりを予感していても、やることは変わらない。言いたいことを言って、聞いて。全部交わしあったら、会話はそこですぐ終わる。

「あのさ、」

 どういう流れでそこに至ったかも、覚えていない。ただ言いたくなって、それで、雪空に向けて大きく叫んだ。

「「今まで、ありがとう!」」

 その声が、偶然重なる。瞬間に僕達は、笑顔を讃えて背を向ける。

 さようならすらも、いらない。

 世界の端っこなんて子どもじみた幻想ユメが、終わる。これから、僕は僕の現実を生きていく。



 壁とは、距離を隔てるもの。

 壁とは、高く立ち塞がるもの。

 壁とは、身体を預けて、一時の安らぎをくれるもの。

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