そこにある。

雨乃よるる

1

 体の中に、雲を詰め込んだようだった。

 綿菓子のようなふわふわの雲ではない。どんよりとした日の灰色の雲だ。

 喉の奥につっかえるような重い雲。あいにく今、窓の外は晴天なのだが。

 教室の中はテンションが異常に上がっていた。男子はあちこちで暴れ回り、女子はドアの前でたまっている。

 わたしの頭の中では、さっきの担任の言葉がこびりつくように反響していた。

「修学旅行実施しま……(生徒たちの歓声)」

 九月に中止になっていた修学旅行が、十一月に実施できることに決まったのだそうだ。

 それを聞いた瞬間、制服のブレザーがいやに暑苦しい気がした。

「コロナの中でも、やっぱり現地に実際に行って学ぶ体験は、大事なものだと思います」

 修学旅行は、なくていい。人と一緒にいても疲れるだけ。実際に現地に行ったからこそ学べることなんて、ない。

 一時間目は音楽だ。みんなは、高い声でおしゃべりを続けながら、ぞろぞろと音楽室のある二階に向かう。

 わたしは、何週間前からあるのか分からない、膝の微妙な痛みをかばいながら歩く。鈍い痛みが、ちょっとずつ体の動きを鈍くする。

 気づいたらそこにあって、気づいたら慣れてしまうような痛み。よくあることだ。我ながら中学生にしては不健康だと思う。

 お年寄りも、こうやって腰が曲がっていくんじゃないだろうか。気づいたら腰に鈍い痛みがあって。気づいたら杖をつかないと歩けないようになっていて。

 見慣れた埃のたまった廊下。同じ服を着た、同い年の人間が、密集して同じ方向に、歩く。少し引いた視点で見ると、なかなか面白い行列かもしれない。その行列に加わりたいとは思わないけれど。

「……さん?」

誰かが誰かを呼ぶ声が聴こえる。女子の声だ。

「佐山さん?」

それがわたしの名前だったことに驚いて振り向くと、そこにはショートカットで一重のまぶたがきれいな女の子がいた。名前は知らない。

「これ、落としたよ」

黒の地味な筆箱を拾い上げて、その子は言った。

 わたしのものだ。それを受け取ると、お礼を言う間もなくその子は別のところへ行ってしまった。もう、紺色のスカートは他の人にまぎれて見えなくなった。さっきの子が誰だったか思い出そうとしても、わからなかった。どうして彼女が私の名前を知っていたのかもわからない。



名前は知らなかった

それでよかったんだと

哀の中から君を拾い上げる

一緒に逃げよう?



 頭の中にあの人の曲が流れだす。何かの言葉から、連想ゲームみたいに、あの人の歌う曲の歌詞が出てくることがある。

 脳内で、Music Videoを再生する。

 夜、街灯の下、あの人がスマホを見ているイラスト。画面は全体的に暗い。歌詞が画面の下に小さく表示される。その画面を背景に、あの人の楽しそうに歌う声。

 ドラムがリズムを刻んで、エレキギターの音が感覚を麻痺させる。あの人の歌声の、吐息の量が多くなる。

 音楽室に入るまで、わたしは頭の中でその曲を流し続けた。


 音楽の授業はぼうっとしているうちに終わってしまった。教室に帰る途中、またあの子を見かけた。ショートカットの後ろ姿ですぐわかった。

 何人かの女子と明るそうに話している。

 わたしは、その横をなるべく目立たないように通り過ぎた。今度は筆箱を落とさないように。膝にまた、鈍い痛みがはしった。


 教室に戻ると、また修学旅行の話題で持ちきりだった。

 隣の男子たちが、誰それと同じ部屋になりたいだのと話していた。「楽しみだね」と笑いあう。何が楽しみなのかがわからなかった。

 遠くまで行くこと。体を使うこと。クラスメイトと同じ部屋に泊まること。

 クラスメイトなんて、たまたま同じクラスになっただけの赤の他人だ。彼らと人間関係を築こうとか、「一緒に生活してきた仲間」だとか、よくわからなかった。

 家で好きなことをしている方がいい。授業はリモートでいい。遠くのことが知りたいなら、ネットを使えばいい。景色を見たいなら、画像を検索すればいい。

 仲間が欲しいなら、SNSで同じ趣味の人を探せばいい。

 余計な気を遣って、お金と労力を割く意味が分からない。


 「最近寒いよね」

 教室のドアの前にたまっている女子のなかに、さっきのショートの子がいた。別の女子と二人で話している。

 ほら、寒いでしょ。修学旅行のときはもっと寒くなるよ。わざわざそんな時期に遠くまで行かなくていいでしょ。心の中で呟つぶやいてみる。

 あと、膝の痛みが修学旅行のときにまだ残っていたら、歩きたくないなと思う。

「ねー、マジ寒い」

もう一人の女子がだるそうに返す。

「香川くんとかもうコート着てたよ」

ショートの子。

「え、美佳って香川のこと知ってんの?」

もう一人の女子。ショートの子の名前は、ミカ、というらしい。

「知ってる。同じクラスになったことないけど」

「どこで知ったの?」

「体育のとき着てるジャージに香川って書いてあった」

「よく見てるねー」

「あとさ、香川くんて彼女できたの?」

そのあと、二人は香川が誰に告白されたとかの話を延々していた。

 わたしも、ショートの子に、ジャージにかいてある名前で覚えられたのかも知れない。わたしみたいな目立たない人でも、名前を覚えられていたのは意外だった。

 わたし自身は、人の名前など積極的に覚えようとしたことはない。クラスメイトでさえ、名前の分からない人は何人かいる。それでいい。

 名前を知っていても、その人の本当に考えていることなんてほとんどわからないのだから。



名前は知らなかった

それでよかったんだと

哀の中から君を拾い上げる

一緒に逃げよう?


明るい画面で踊る

いくつも顔が流れるけど

そこらの道端なんかじゃない

本当の気持ち


そこにいなくていい

そばにいなくていい

どこにいたっていい



また、あの曲を心の中で再生する。歌詞を一字一句思い出す。さっきよりも画面がぼやけていて、音も鮮明ではなかった。それでも、あの人がラスサビを歌い終わるまで、音楽を流し続けた。

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