4 名前

 どんどん近付いてくるスーツ姿の巨人を見ながら、私は呆然と呟く。


「……あれに、どう対抗するって?」

「一発いれりゃ伸びるだろ」


 簡単に言ってくれる。


「ありゃあ見かけ倒しだ。そこまで強くもねえ奴が、ほんの少し力を付けて喜び勇んでんだ」


 何故そこまで相手の力量を測れるのか分からないが、こっちはもっと分からないのでそれを信じるしかない。手のおかげで首から下を動かせない私は、ただ話を聞くのみだ。


「力を付けたって……誰か喰べた、とか、そういう……?」


 こちらが話している間に、スーツの人の口元が形を変え始める。口がこめかみまで裂けるように広がり、歯も鮫の歯のようにギザギザとしたものになってゆく。それでいて他の部分はそのままなので、異様さがより際立つ。

 口裂けスーツはもう数百メートルの所まで迫っていた。


「喰ってはいねえな、まだ。つーかそろそろ行くぞ」

「あっま、うあっ?!」


 前方に走り出した私の身体、というか手はそのままスピードを上げて口裂けスーツの足下に向かう。スーツは走りながら前屈みになって手を伸ばす。私達を掴もうとしてるようだ。それが届くかどうかの距離で、手が右上に跳躍した。


「っ!」


 急な視界転換に息を呑む。

 スーツも不意を突かれたようで、一瞬動きが止まった。手は跳んだ勢いのまま体勢を変え、右側の家の二階バルコニーの手摺りを足場にして、スーツに向かって跳ぶ。


「ふっ!」


 その勢いのまま、動きを追いきれていないスーツの顔面に右ストレートを叩き込んだ。


「いっだあ!」


 思わず叫ぶ。身体の感覚はそのままなので、拳から腕にかけての痛みと衝撃をもろに受け取った。


「ごぉっ」


 スーツも呻き声を上げながら体勢が傾いていく。そのまま反対側の家に突っ込んでしまうかと思ったら、スーツの身体が縮みだした。


「えっ?」

「だろうな」


 驚く私をよそに、手は訳知りのように呟きながら難なく地面に着地。スーツも人並みの大きさになりながらアスファルトに倒れ込んだ。

 一分もしないでついた決着だった。


「さて」


 手は倒れたまま動かないスーツの人のそばにしゃがむと、その髪を掴んで頭を持ち上げる。


「ちょっ、そんな掴み方して大丈夫なの?」

「問題ねえ。それより気になることがある」


 スーツの人は気絶しているようだ。口裂け状態から人面に戻っているその顔は、思ったより整っている。だが殴った頬は腫れ、中を切ったのか口角から血が少し滲んでいた。元が良いせいか、なんだか罪悪感を覚えてしまう。


「あのさ、何かするにしても、場所とか体制とか変えない?」

「あん?」


 ここは住宅地なのだ。さっきの騒ぎで、いつ近所の人間が出てくるか知れない。


「こんなの見られたら通報される……」

「ああ、周りを気にしてんのか。多分俺らの気に当てられて倒れてるから、大丈夫だと思うぞ」

「……はい?」


 今、さらっと重大な事を言わなかったか?


「それより」


 手はそう言うと、スーツの顔面を思いっきり掴んで引っ張った。


「え、ちょっと、顔面剥がす気?」

「そうだが?」

「えっうそ待った待ったストップ!」


 相手は化け物でも、その見た目は人だ。倫理観や道徳心やその他諸々が頭の中を駆け巡る。しかしこちらの制止は聞き入れられず、メリメリと顔は引っ張られていく。そして、ずるりと引き抜かれた。


「…………え」


 引き抜かれたそれは、手の中で暴れている。スーツの人の顔はというと、皮は剥がれておらず、ただ殴った跡があるだけだ。


「おーおー弱えクセして一丁前に」

「……なに、それ」


 それはサッカーボールくらいの大きさで、白っぽく、ぐにゃぐにゃと形を変えてもがいているようだった。


「この男に憑いてたもんだ。そんで、俺の欠片を取り込んでもいる」

「憑いて……?」

「まだ喰っちゃいねえって言ったろ。この身体に憑いて、遊んで、それに飽きたら喰う所だったんだろうな」

「この人『人』なの?!」


 私は改めてスーツの人をまじまじと見る。


「まあそっちはそれなりにどうでも良い」


 手が唐突に、掴んでいたスーツの人の髪を離す。頭がアスファルトに直撃して、鈍い音を立てた。


「ちょっ、ゴッていった! もう少し丁寧に扱って!」

「うるせえなあ。死なねえよそんくらいで。今大事なのはこっちだ」


 未だもがいてる白っぽいものを、眼前に掲げられる。それは今、3つほどの口からうなり声を上げ、少なくとも4つはある目をこちらに向けていた。


「ヒッ」

「なんだ今更」

「だってさっきまでこんなのじゃなかった…」


 白っぽくはあったが、目や口なんて無かったじゃないか。


「こいつの必死の抵抗だろ、可愛いもんだ」


 手はそう言いながら、それを掴む力を強めていく。


「さて、それはまだ馴染んじゃいねえだろう? 大人しく吐き出せば潰さずにいてやるよ。お前も無駄死にしたくねえだろう?」


 手に話しかけられたそれは一瞬震えるようにして動きを止めた。


「うん、そうだ」


 手が、掴んでいた力を緩める。次の瞬間、それは猛烈に暴れ出した。


「うわっ?」

「チッ」


 目と口の数が増え、ウニのように棘を出し始めたそれを一刻も早く放り出したい。何故だか棘は痛くないが、そのうち噛まれそうでヒヤヒヤする。


「痛っ」


そう思っていたら噛まれた。


「そうか、死に急ぐか」


 手がため息をついた、ような気がした。そして暴れるそれを一気に握り潰した。


「っ……!」


 粘土を思いっきり握り込むような感覚だった。その感触に肩が跳ねそうになったが、生憎とまだ身体の自由が利かない。

 握り潰されたものはぼとぼとと落ち、すぐに地面に染み込むようにして消えていく。


「…………」


 握り込んだ拳と地面を見つめ、私は何とも言えずに口を噤んだ。


「そう落ち込むな、やったのは俺だ」


 言うと、手は拳を開いて見せる。


「そんで収穫もあった。さっきの奴はこれを腹に入れてたから、あんなやんちゃをしてやがったんだ」


 開いた手の中には、赤みがかった小さな何かがあった。


「俺の欠片だな」

「……ちっっっさ」


 欠片、要するに肉片という事だろう。言われれば肉のようにも見えるが、掌から伝わる感触は知っているものより大分硬めだ。


「……あっじゃあこれがあれば少しは何か思い出すとか出来るって事?」

「そうだなあ。何かしらはあるだろうが、記憶よりも力だな」


 喉からせり上がってくる感覚と共に、手が外に出てきた。やっぱり気分は良くないので、今度から別の出方を模索したい。


「よし、それこっちくれ」

「えっ?」

「なんだ?もう動けるだろう?」

「えっあっほんとだ」


 言われて気付く。足も手も、首から下は元通り自分の意志で動くようになっていた。


「うわああ戻ったああ良かったあああ」

「あーうんそうだな、そんで俺の欠片」

「あ、はい」


 掌を上にしていたので、そこに欠片を乗せる。手はそれを握り込む。途端、私の身体の中を何かが通り抜けたような感覚に陥った。


「?!」


 なんだ、今のは?


「……ああ、やっぱり俺だ」


 自分に言い聞かせるように、手は呟く。少なくとも何かしらの変化はあったようだ。


「えーと、何か、分かった?」


 先程の感覚にまだ戸惑いながら、問い掛ける。


「ああ、力も記憶も少しだが戻ったみてえだ」

「まじで?!」

「まず、俺の名前だが」

「おお!」

「てつ、なんとかだった気がする」

「お?」

「なんとかてつ、だったか?」

「……」

「そんで、何か罠みてえなのに嵌まって、こんなんなったんだ。思い出した」

「罠……後は?」

「そんだけだ」

「そんだけかあ」


 名前の一部分と、当時の状況が少し分かった。あまり進展してないような気もするが、まあ取り戻したのはほんの一欠けだ。そう一気に進む話でもないだろう。……謎が増えただけかも知れないなどとは考えない。


「まあ、そうね。『てつ』ね。呼び方を固定出来るのはありがたいかな」

「そういやあ、お前はなんて名だ?」

「あ、言って無かったか。私は『榊原杏さかきばらあんず』」

「さかきばらあんず?なげえ名だな、偉いのか?」

「え? 別に。一般人だけど」


 何度か思ったが、こいつは時折妙な所に引っかかる。手、改め、てつは少し困ったような声で言った。


「呼びづれえな……」

「榊原、とか苗字で良いんじゃない」

「榊原? なんだ榊原と杏で分かれんのか?」

「えっうん……榊原が苗字で杏が名前だけど」


 何故そこで疑問を持たれるか分からない。姓名の概念を持ってないんだろうか。……こいつの生い立ちの謎も深まりそうで危ない。


「杏が名か。それなら呼びやすいな」


 どうやら名前の方で呼ばれるようだ。


「よし、杏、これからよろしく頼む」

「……はっ?」

「なんでくっついちまったかはさっぱりだしな。こうやってバラけちまった俺を戻していくのが今んとこ出来る唯一の事だ」


 そうだった。私の目的はこいつと分離して、こんな状況から脱する事だった。となると、今後もこういう嫌な方向のファンタジー展開が続くのだろうか。


「……短期決戦でお願いしたい……」

「んなもん、やってみなけりゃ分かんねえだろう」


 少しの呆れを含んだ声で、てつが言う。いや、その通りだが、ちょっと現実逃避したくなったのだ。


「……って待った! 大学! スマホ! というかこの人結局大丈夫なの?!」

「あん?」


 逃避したら別の現実を思い出し、私は一人で慌てだす。


「ああ、こいつは気ぃ失ってるだけだ。そのうち目を覚ますだろうよ」

「信じるよ?!」


 落ちていたスマホを拾い上げる。あの時、てつが勢い良く放ったせいで、保護ガラスのひびが画面三分の一ほどまで広がっていた。これは流石に変えた方が良いか、まだセーフだろうか。幸い、スマホ自体は壊れてはいないようだ。表示された時計を見て、まだギリギリ午後の授業に間に合うと確認する。

 スーツの男性はなんとか道路脇に引きずり、塀にもたれ掛けさせた。起こしてもこの状況をどう説明すればいいか分からなかったので、申し訳ないがこのままにする。念の為、ちょっと離れてから救急車を呼ぼう。


「よし、戻って」 


 私は立ち上がり、男性からてつへと顔を向ける。


「おう?」

「お腹の中。これから大学行くからっだぁあ?!」


 急に身体中が痛み出した。思わずしゃがもうとして、またその動きで痛みが走る。


「?!!」

「なんなんだ次から次に」

「なっ急に身体が、いたっ」

「ああ、さっきの反動じゃねえか?」

「さっき?」

「俺がお前の身体を借りてた時の。俺の気やら動きに、身体がついて来れなかったんだろう」


 そんな副作用聞いてない。だが、このままでは埒があかないので、無理にでも姿勢を戻す。


「いっだだだ」


 次いで疲労感も押し寄せて来たが、もう無視する。


「大丈夫か?」

「大丈夫……大学行くから、お腹に戻って」


 そんなに危なく見えるだろうか。狼狽えたように言うてつに、再度促す。こちらを気にしながらも、てつは言われたように戻っていく。因みに、戻る際も当たり前だが私の口から入っていく。口に指がかかる感触はまあ気色悪いが、そこから先はするっと一瞬でお腹まで行ってしまう。謎システムだが、飲み込む動作をしないでいいのは精神的にありがたい。

 てつがお腹に収まったのを確認して、私はよろよろと歩き始めた。


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