澤田石油店のソフィー

鈴ノ木 鈴ノ子

雪の日のユキノ

雪の日のユキノ


  長野県と愛知県に跨る根木村にそのガソリンスタンドがある。

  もちろん、山間部であるからガソリンの輸送コストも高くてそれは値段に反映されて都市部ではとんでもない価格になてしまうのだけれど、地域住民、とりわけ高齢者の多くなったこの村ではとてもありがたい存在でもある。

 軽量機と呼ばれるガソリンを給油する機械は4台で灯油用の軽量機が1台、古風な洗車機と油槽タンクが2つほど、そして小型トラックを改造した配達用のローリー車が一台あるだけの小さな規模だ。


「健太、配達に行ってくれるか?」


 店主の澤田榮三郎はローリー車に灯油を積載し終えて蓋を閉めると、手洗い洗車を終えた車を拭き上げていた倅で長男の健太へと言った。


「いいよ、こっちももう少しで終わるから、冷えてきたから父さんは店の中に居てよ、足、まだダメでしょ?」


「すまん、伝票を用意しておく」


 数ヶ月前に脚立で足を滑らせて足を骨折してリハビリ中の榮三郎には、ミッションのトラックの運転はまだ難しかった。怪我をしたのは夏の真っ盛りであったので、息子や娘が帰ってきては妻の善子と営業を手伝ってくれていたが、それにも限界があった。スタンドを閉める時期が来たのかもしれない、と入院していた飯田市の病院へ見舞いに来た妻に漏らして数日後に、東京の大手自動車販売会社で整備士兼営業として勤めていた健太が、突如、会社を退職して戻ってきたと聞いた時は、心底驚いた。

 今年で35歳、昇進も早くて会社でも有望株であると、同じ会社の営業で回ってきていたセールスマンの噂にも上がるほどの息子だった。先細りのガソリンスタンドであることは目に見えているのに、何を考えているんだと憤ったが、健太のおかげで、榮三郎が行っていた工事現場などへの配達や車検整備などが元の通りに行えるようになり、村では助かっていると嬉しそうに話す気落ちしていた妻の笑顔を見てそんな考えも何処かへと消えてしまった。

 

 ガラス張りの元サービスルームで自室のように使っている暖房がきいている室内へと入るとメガネが曇った。石油ストーブの上には薬缶が置かれて湯気を立てている。インスタントコーヒーをカップに数杯入れてから、そのやかんのお湯を入れて、長年座り続けてきたソファーセットの定位置の席に深く腰を下ろすと一口啜った。

 夕闇が迫ってきていてキャノピーに取り付けられた白熱灯が黄色い光でスタンド全体を照らしていて、つけっぱなしのテレビからはもうすぐ雪が降るとお天気キャスターの解説が流れている。妻が卓上に置いておいてくれた予約表から配達分できれば昼間に配達をしたかったが、雪の降る前で近くのトンネル工事現場から急ぎで燃料油の配達を頼まれたので、顔馴染みのお客さんに電話をして夜の配達になることをお詫びがてら連絡すると、数件は明日でいいと言ってくれ、どうしても必要なお客さんにのみ配達をする、件数は5件ほどとなったが、一番遠くで20キロ以上遠方の配達先も見受けられた。

 室内には次男坊の孫の絵や娘の孫の絵など家族の思い出も詰まっている。『じーじ、がんばってね!』と描かれた自画像の絵を見るたびに元気も湧いてくる。


「ああ、冷たかった!」


 拭き上げなどを終えた健太が室内へと入ってきて、同じように珈琲を入れてストーブ前で屈んで暖を取り始めた。外は10度以下でもう暫くすれば氷点下になる。


「雪が来るみたいだぞ」


「そうみたいだね、さっきよし婆さんがそんなこと言ってたよ」


 よし婆は近く住むお客さんだ。なんでも年末に息子達が帰省してくるので普段はあまり運転しない車の整備と洗車をしてほしいと電話がかかってきて健太が引き受けていた。納車は明日だから今日はピットの中に入れたのだろう。


「ん?なんだ?」


 スタンドへ茶色の村営バスが入り込んできた。民間バスが村内循環バス事業から撤退して以降、村営バスが住民の足となり活躍している。普段なら車庫に戻っているはずなのだから、故障か何かあったのかもしれないと榮三郎は身構えた。健太は不思議そうにバスを見ていたが、運転手で榮三郎と同級生の松林のおっさんが乗降口の扉を開けて、榮三郎ではなく、健太の名前を呼んでいるのに気がついて慌てて外へと出ていく。


「健太!お前、なんかの外国語できよーが?」


「できるけど、どうしたの?」


「後ろの外人さん、どうしたらいいかわかんねーんだわ」


「外人さん?」


 バスのガラスに沿って視線を流していくと、後方の座席に1人、幼さを残す外国人と視線があった。銀色の髪の毛に金色の瞳をした少女だった。


「あの子、どうしたの?」


「役場の前のバス停でよ、ずっと居たんだと。多分、飯田までのバスで来たと思うんだけどがな、役場の連中も話しかけたらしいんだけど、通じなくてな、何言っても動かねぇし、仕方ねぇから、通訳のいるとこ連れていくから、って言ったら、乗ってきたのよ」


 松林のおっさんらしい、見て見ぬふりができない性格で人が良いから、気にもせずにそれができるのだろう。


「役場の理恵ちゃんなら、英語できるでしょ?」


「理恵が言うにはよ、英語じゃないんだとよ」


「英語じゃない?」


 というより、スマホでもなんでも良いから通訳アプリで話をしろよと思いながら、健太はガソリンスタンドの制服のままでバスへと乗り込んだ。


「スタンドスタッフ?」


 流暢な言葉が聞こえてきた。制服の帆立とイエローカラーを見れば全世界共通に等しいから分かるのかもしれない。でも、聞こえてきた言語は英語ではなく、健太にとって大学留学時に聴き慣れた懐かしい言語だった。


「こんばんは、お嬢さん」


 スウェーデン語でそう挨拶をして健太は微笑んだ。それを聞いた少女の瞳が潤み始めると汚れた制服に思いっきり抱きついてきた。


「ここは、根木村でいいですか?」


「そうだよ、根木村だよ、君はどうしてこの村にきたの?」


そう言ったところで話は通じなくなっていた。少女が辺りを憚らずに泣き始めた。今まで我慢していたのだろう、言葉が通じて安堵したこともあるのだろうか、泣き始めて縋りついてくる少女を優しく抱きしめながら、健太はよしよしと背中をさすった。それに安堵したのか声を押し殺した鳴き声がさらに続いていく。

 暫くそうしていると不意に後ろから声が響いてきた。


「健太、今日はうちに泊めてやれ、どうせ、お前しかその言葉はなせないだろう」


 乗降口から顔を覗かせて中を伺っていた榮三郎がそう言った。山間部の田舎ならではの普段は冷たいが、事が起こると情に厚くて優しさが滲み出るこの辺りの気質が現れていた。


「そうだね、私と一緒に来てくれる?」


「・・・はい」


 短い単語が涙声に乗って聞こえてきたので、冷たい手を握ると少女とゆっくりバスから降りた。長い髪が俯いた表情を隠してしまって伺い知ることはできなかったが、仕方なしについていくという歩き方でもないように健太は感じ取った。


「うちの義理息子には、スタンドで預かってくれてるからと言っておくよ、大事にすんじゃねぇともいっといたらぁ」


松林のおっさんの義理息子は警察官でこの村の駐在さんである。人柄が良く気さく、若いのに田舎の赴任を躊躇わずに来てくれた好青年で、離婚して帰ってきていた松林のおっさんの娘と、良い仲になり、昨年結婚していた。好青年と金髪ヤンキー女性の組み合わせは少々不思議だが、おしどり夫婦として有名になっている。


「お願いします」


「唐突にすまなかったな、助かったよ」


 空になった村営バスの室内灯を切った松林のおっさんは、深々と頭を下げると、運転席の制御卓を操作して乗降口を閉めてバスはスタンドを出ていった。それを見送っていると寒さの染みる風がスタンドに吹き抜けたので慌てて3人はストーブで温められている室内へと駆け込むようにして入ると、健太は少女をソファーへと座らせた。孫娘が美味しそうにココアを飲んでいたのを思い出した榮三郎は置かれている自販機からソレを買って少女へと差し出した。


「ありがとう」


 多分、お礼のような言葉なのだろうと思いながら受け取った少女の顔をまじまじと見て栄三郎は内心、人形のようだと驚いた。自宅の居間に飾られている健太が留学土産に買ってきた北欧の西洋人形にそっくりだった。


「居間の人形みたいに綺麗な子だなぁ」


 思わずそう漏らすと、ふと、健太の顔色が曇ったのが分かった。この息子は何か知っているのかもしれないと思わず聞きたくなったが、健太が少女の前に屈むのを見てそれを言うことを諦めた。後から聞いても良いことだ。まずは少女をどうにかしてもらい、そして配達にも行ってもらわなければならなかった。


「君のお母さんはリーシャと言わないかい?お父さんは雄介、黒川雄介教授じゃないかな」


「そうです・・・。貴方が健太さんですか?」


「うん、僕が澤田健太だよ」


 ココアの缶で両手を温めていた少女はその名前を聞いたのちに背負っていたリュックサックから1枚の手紙を差し出してきた。達筆な文字で書かれた宛名は「澤田健太様」と書かれている。手紙を受け取った健太はそれを開くと便箋と写真が現れた。写真は留学当時にストックホルム大学での懐かしい集合写真で、学生時代の楽しかった思い出が蘇ってくる、そして、手紙を開くと懐かしい教授の文字が流暢に記されていた。


 拝啓、澤田健太 様


 ずいぶん、ご無沙汰しているね、この前電話で話したのが懐かしく感じるよ。

 この手紙を読めたということはソフィーは無事に東京に着けたと言うことだろう。

 僕は今イスタンブールの病院に入院している。テロに遭ってしまったんだ・・・。愛すべき妻はテロによって・・・失ってしまった。私の命ももう長くはないだろうと言うのが医師の見立てだ。事実、半身がほとんど無きに等くてね。生きているのが不思議なくらいらしい。僕ら夫婦はお互いに孤児なんだ。だから、国に戻っても互いに親族がいない。その愛娘、ソフィーというんだが、2重国籍でね、スウェーデン大使館と日本大使館からはどちらにしても保護施設で暮らすことになると聞いている。でも、それは娘には耐えられないと僕は思っている。娘は少々、精霊に魅入られた節があってね、普通の子より感受性が豊かなんだ。君も確かスウェーデンでは精霊が見えると豪語していたし、地元でもそう言った類のもの達と遊んでいたと酒の席で言っていたよね。素面になってから私にそれを黙っていてくださいね、とも言っていたのを思い出したんだ。最初は冗談だと思っていたんだが、変なところで驚いたり、長く住んでいる私達より道や歴史に詳しかったのを思い出してね、きっと君にも見えているのだろうと確信していた。それに君には大学時代に大きな貸しもある、盾に取るつもりはないけれど、できたら、ソフィーを頼めないだろうか?、無茶苦茶なことを書いているのは百も承知だが、愛娘を苦しめたくもないんだ。すまない。狂った教授の最後の頼みだ。よろしく頼む。


「教授らしい、めちゃくちゃな事をいう」


 教授が亡くなったのは留学時代の同級生からのairmailとemailで4日ほど前に知り得ていたが、まさか、こんなことになっているなんてと驚いた。手紙を読んでいる私を見て表情を強張らせている少女、いや、ソフィーに微笑むと私は大丈夫というように頷いて手紙を閉じた。3枚目、4枚目には、ソフィーへの委託遺言のようなものが両国語で書かれていた。


「東京の住所は既に引き払ってしまっていたのに、どうやってここまできたの?」


 ソフィーにそう尋ねるとポケットからヒビの入ったスマホを取り出して写真を見せてきた。小さな木製のお堂に入ったお地蔵様が写っている。


「この精霊が教えてくれたの」


「ああ、お地蔵様ね」


 東京のマンションに住んでいた時にはマンションの横に小さなお堂があって健太は朝晩の行き帰りに欠かさずに拝んでいた。地元住民ともそれで仲良くなり売り上げに繋がったこともあった。そして実家へと戻る際にもお礼参りをした上で新しい住所をお伝えしていた。


「道案内は誰がしてくれたの?」


「この子が、ずっと付き添ってくれていたの」


 薄手のコートの内ポケットから小さな宝石を取り出してこちらへと差し出してきた。榮三郎は怪訝そうな顔をしてその鈍い光沢の石を見たが、健太には宝石の上で横たわり今にも消え入りそうなほどに衰弱した4枚羽の精霊の姿が見えていた。


「そうだったんだね」


 宝石の上に寝転がる彼女の上に健太は手のひらを広げると、ゆっくりと足元を2回ほど鳴らした。薄く消えかかりそうだった精霊の姿が徐々にしっかりとした輪郭を得てくると、苦しんでいた精霊の顔が安らかな寝顔に戻っていくのがソフィーと健太には見てとれる。やがて健太が手のひらを離すと、ソフィーは両手で大切そうにそれを包み込んで胸元に当てて優しく抱き止めた。


「親父、少し相談なんだけど、この子、ソフィーっていうんだけど、しばらくウチで預かってもいいかな?少し前に話したテロで亡くなった教授の娘さん。身寄りがなくて、ちょっと色々ある子らしくて、僕を頼ってきてくれたみたいなんだ」

 

「いいんじゃないか?それにお前と一緒で憑き物持ちなんだろ」


「どうして分かるの?」


「だってよ、石っころに手をかざしたろ、お前がそんな事をする時は決まってなんだか訳のわかんねぇもんがいる時だったのを久しぶりに思い出したよ」


 健太も幼い頃からそう言ったものに魅入られやすく子育てには手を焼いたものであった。今は亡くなってしまったが、檀家の青松寺の和尚が手助けをしてくれて、本人がそれに対しての対処を徐々にできるようになってくると、それほど手を煩わせることも無くなったのだった。


「まぁ、今後の書類だなんだかんだの手続きは任せとけ、こっちで上手いようにやっといてやるよ。まずは配達にも行ってもらわなきゃならん。その子は喋れないから一緒に連れてけ。風呂と布団は母さんと用意しておくから」


「うん。そうするよ」


  健太とソフィーが互いに言葉を交わすとソフィーは大きなリュックサックを店に置き、2人で手を握って外のローリー車へと乗り込んで店を出ていった。榮三郎がガラス越しに外を見つめると雪がちらほらと舞い始めていた。


「お父さん、子供の声のようなものが聞こえたけど、どうかしたの?」


 妻の善子が居間と店を繋ぐ廊下の暖簾ごしに顔を出してきた。

 色白の痩せ型の美人で村でも取り合いになったほどの女性だった。最終的に必死の努力と男気で射止め選んでもらえたのが榮三郎だった。


「母さん、美奈の中学ぐらいの服はあったかな?」


「なんですか急に・・・。美奈のそれくらいの服ならあったと思いますけど」


 怪訝そうな顔をした妻に榮三郎は久しぶりに笑顔を見せたので善子は戸惑った。長年連れ添ってきて夫が笑顔を見せる時は大抵良いことが起こる時が多かった。


「そうか、それ出しておいてくれるか?娘が1人増えそうだぞ」


「娘ですか?」


「ああ、健太の大学時代の先生が亡くなったのは食卓で聞いてたな、その忘れ形見を健太が託されたらしい、居間の人形みたいに別嬪さんだ」


 善子があの人形をとても大切にしているのを思い出して付け加えるようにそういうと、善子の顔がますます戸惑ったような表情になった。


「いないじゃないですか?おとうさん、その・・・」


 気でも触れたかと心配されたようなのでため息をつくと、卓上に置かれたリュックサックを指差して見せた。


「いま、健太と配達に行ってる。日本語ができなくてな、健太のえっと、スウェーデンだったかの言葉で話せるらしい。しばらく、大変になるぞ」


 大きなリュックサックが確かにあって話は本当のようだと善子もようやく納得した。


「名前は何ていうんですか?」


「ソフィーとか言ってたが・・・言いにくいし、村の連中には呼びにくい者もでるだろうしなぁ、雪の日に来たから、ユキノでいいだろう」


「そうやって勝手にあだ名をつけて・・・怒られても知りませんよ。多分、2階のあたりに美奈のお古があったと思いますから探して出しておきますね」


「おう、こっちはもうすぐしまいだから、閉めたら手伝うぞ」


  善子が家へと小走りに走っていく足音を聞きながら、ソファーへと腰を下ろした榮三郎は、雪の強くなってきた外を眺めた。変わり映えのしなかった生活に、息子が帰ってきて、再び落ち着いたと思ったら、新しい少女がやってきた。子供達が騒がしかった頃の賑やかな生活となるのかもしれない。


 そんなことを考えながら卓上の緩くなった珈琲を飲み干すと、ゼンマイ式の掛け時計が閉店の時刻を告げた。

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