さよなら美鈴

ぜろ

思い出の人だった彼女。

 吉原美鈴よしわら・みすずの事はよく覚えている。


 吉原は高校の時に中途転入で入って来た、ちょっと大人っぽい感じに髪を巻き上げてうなじを晒していた。体育の時にも崩れないそれは不思議で、一度触らせてもらったことがあるが、その時は猫っ毛みたいなのをムースでがちがちに固めているイメージだった。こうでもしないと撥ねて仕方がない、笑っていた顔は幼かったが、三年に上がる頃は社会人でも通るような貫禄と身体つきになっていたように思う。部活はバレー部、センター。ボールを追い掛けるのが好きだから、と言われて猫かとからかった覚えがある。そうかもね。


 俺のラインにその吉原からのメッセージが入ったのは、大学の卒論も終わった頃だった。美鈴の保護者です、とメッセージは始まり、良ければ遊びに来てくれないだろうかと住所を張り付けられた。病気でもしてるのかと思って慌てて明日にでも行きますと答えたのは、オレも吉原を憎からず思っていた所為だったのだろう。面倒で市内の大学に進学していたから、大移動する必要もない。調べてみるとバスで二本も乗り継げば行ける所だったので、俺は地図アプリをセーブして急いで布団に入る。

 きっと男好きするグラマーな体形になっているだろうなあと卒業写真を思い出す。大学生にも見えないほど大人びていた彼女は一体どうしたんだろう。高校は卒業して、実家の手伝いをするって言ってたっけ。何の手伝いか聞いた時には曖昧にほほ笑むだけだったが、本当に何の仕事なんだろうな。目を閉じて眠りの体制に持っていくと、高校の頃の仲良しグループの夢を見た。

 もちろんそこにいるはずの吉原は、笑っていなかったけれど。そしてそれが酷く、不安だったけれど。


 かくして翌日、幸い講義の入っていなかった午後に俺は吉原家の門前にいた。ピンポン、とチャイムを鳴らすとちょっと痩せたイメージの小柄なお爺さんが出て来る。吉原の父親だったと聞いたことがある気がする彼は、どこか憔悴しながらも笑顔で俺を出迎えてくれた。その足には子猫がすりすりと額を寄せていて、逃げないってことはよっぽど臆病なのか家に懐いているんだなと思わせるほどだった。

 家に入ると更に猫は増える。見掛けただけで四匹はいただろう。真っ黒い黒猫が二匹に三毛が二匹。通されたリビングで飲み物を頂くと、俺の足元にも一匹懐いて来た。なーぉ、なーぉおと鳴く姿に、微笑ましくなってくる。と、その前に用事を済まさなければと俺は吉原父を見た。甘いココアはうまい。


「美鈴さん、どうかしたんですか? 何か病気でも?」

「いや、病気じゃあない。病気なら手も尽くせたんだがね」


 意味不明の言葉に、きょとんと俺は首を傾げる。


「もう十歳にもなるからね。寿命なんだ」


 訳が分からなかった。


 吉原父はファンタジーとして聞いてくれ、と前置きしながら語り出す。


「元々私は動物との意思疎通に関する研究をしていたのだが、そんな詮の無い研究は金にならなくてね。大学も雇ってくれないし雑誌も論文を載せてはくれない。必要最低限の糧を得るために在野の研究者として適当な論文を仕立て上げて暮らしていたんだが、ある日薬物が間違ってミレイの皿に入ってしまった」

「みれい?」

「美鈴の方が可愛いと本人は言うのだがね。本名はミレジーヌ、ミレイというんだ。外人みたいだと思うだろうが、事実あの子は日本人じゃない。かと言って外国人じゃない。薬が落ちたのはミレイの餌皿の中だった。ミレイはそれを食べて人間になった」

「人間って、」

「あの子はもともと猫なんだよ」


 目の前の人は頭がおかしいんだろうかと疑ってみる。だが本人は正気だし、事実吉原――ミレイは成長が早かったのを思い出すとつじつまが合ってしまう気がしていた。だから進学せずに家にとどまることを選んだのだと思えば、成績も悪くなかったのにと言う疑問は解決する。でも待ってくれ。この人は言ったよな? 寿命で、って。


「成長速度を人間に換算すれば通学させることも本来なら止めるべきだったんだがね。あの子がどうしても会って話してみたい人がいると言って、高校だけの約束で、あの子は学校へ行った。通学生活は楽しかったようで、いつも笑っていたよ。バレーは面白いと言って、数学は難しいと言って。そしてやっと本音を話してくれたのは高校三年の頃だった。あの子が会いたかったのは、君だったのだと」

「オレ?」

「十年前に黒猫を拾って交番に届けたことがあったろう?」


 まさか。


「その時からずっと忘れられないと言っていたんだ。攻撃力の無い子猫はカラスなんかにすぐ殺されてしまう。それから守ってくれたことを、今も忘れていない。うわごとで君の名前を呼ぶんだ。だからせめて最後に一度だけでも、顔を見せてやって欲しい。荒唐無稽な事だと思うなら、もちろん帰って貰って構わない。まるで冗談のような話なのだから」

「吉原に――ミレイに、」


 会わせて下さい。オレはそう言って、両手で握っていたココアのカップに力を込めた。


 ミレイは髪の色は真っ黒のままだったけれど、顔には皴が寄り、目元やほうれい線、頬のたるみからもう随分の人生を送ってきたように見えた。ミレイ、と呼び掛けると閉じていた瞼がゆっくりと開いて、あら、とかすれた声でベッドの上で笑って見せる。


「良い夢ね。あなたが出て来てくれるなんて。用もないのに連絡も出来ないから、ずっともう会えないと思ってた」

「ミレイ、」

「ハトやカラスに苛められていたの、もう覚えてないと思うけれど、助けてくれてありがとうね。すごく心強かった。博士が迎えに来てくれるまで安全な交番で保護してもらえたし、本当、感謝してる。何の事だか分からないと思うけれど」

「、」

「嬉しかった。高校は楽しかった。今あなたがここに居てくれるのだって、幻だとしても嬉しい」

「――吉原」

「うん、そっちの方が嬉しいな。あの頃みたいで。ありがとう。最後にまたあなたに会えて、本当に良かった」

「最後なんて……言うなよ」

「でも最後だから。ありがとうね。騙しててごめんなさい。皆には言えないからあなたにだけ。ごめんなさい。――初恋の人」


 ふうっと笑って、美鈴は、ミレイは、もう息を吸わなかったし笑顔も消えないままだった。


 遺体は火葬して吉原家の墓に入った。俺は時々そこに行き、ぼけっと過ごすことが多かった。就職は内定。恋人とは来年結婚予定。多分高校の頃の友人も招くから、吉原の事は亡くなったと伝えなければならないだろう。悲しい事だけど。猫だった吉原。多分黒猫だったミレイ。信じられなくても信じるしかなくて、はあっと白い溜息を吐く。友達としか見てなかったけれど、それで多分良かったんだろう。恋愛なんかしてたら目も当てられなかった。だけど。


 最後までオレ以外には良い思い出でいてくれて良かったのかもしれない。

 さよなら、吉原。

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