お兄ちゃんの妹だからだよぉ!


 御堂筋みどうすじ莉子りこが初めて友人に裏切られたのは11歳の時だった。


 忘れることはできない。


 2月の刺すような寒さが続く日々の中、神様がきまぐれを起こしたみたいに日光が心地良い、心まで温まるような日だった。


 児童養護施設は心に傷を負った子どもが山のように集まっている。


 痛みを知る私たちはみな善人だ。莉子はそう信じていた。



 その日、莉子と仲が良かった6歳の少女のぬいぐるみが盗まれた。犯人として捕まったのは、莉子と同い年の男の子だ。彼は親から虐待を受け続け、年明けに保護されたばかりの子どもである。


 男の子が犯人と言われたのは、第三者の目撃証言があったからだ。


 でも莉子は先生から男の子をかばった。見間違いではないのかと。彼を傷つけないでくださいと懇願した。そして悲しむ少女には、どこかに置き忘れたのかもしれないから一緒に探そうと提案した。


 しかしその日の夜、男の子のバッグの中から、破れて汚れて、ボロボロになったぬいぐるみが出てきたのである。


 騒ぎに集まった子どもたちの中に、莉子の姿もあった。男の子に詰め寄る先生に、彼は震えながら言った。


「あ、あいつにやれって言われた!」


 人差し指の先に、莉子を示して。


 子どもたちはよくも悪くも素直で、男の子の言葉を間に受けた。


 号泣してぬいぐるみを抱きしめていた少女の憎悪が、そして周りの子の嫌悪が一気に莉子に向けられた。


 心臓に釘を打ちつけられたようだった。


 怖いもので満たされたプールに、頭のてっぺんまで沈められているような不快感に涙も出なかった。


 言葉なく立ち尽くす彼女の足元が震えているのは、2月の寒さのせいだけではない。


 翌日からの莉子が置かれた境遇は、天から地へ落とされたようなものだったが、もう彼女自身には思い出すことができなくなっている。



 ――コミュニティの中でいちばん力がある人を味方につけよう。


 ――嘘をついてでも世の中をうまく渡る方が楽だ。



 合理的に生きる方が心身が安定するとは、彼女が見つけた処世術だった。


 それから何年も他人と付かず離れずで、うまく共同生活を続けてきた。



 有宮家での生活だって自信があった。


 けれど、ここに来て初めて感じた胸が詰まるような気持ちは、どうしても折り合いがつかず困惑するばかりだった。


 綾瀬つむぎのせいである。


 最初の印象は、妹をかたる変な子。


 それが誤解だと気づいたあとも、腹のうちが読めないつむぎに心を乱され続けた。


 彼女といると、終わりがわからない悪夢を見ているような不安と恐怖が、常に莉子にまとわりついてくるのだ。


「莉子!?」


 家から李津が呼んでいるが止まれない。放っておいて欲しかった。


「はあっ、はあっ!」


 家を飛び出した莉子は、町をでたらめに走った。


 冷たい空気の中を泳ぐように。今は頭を冷やしたかった。


 いつのまにか町の中心を流れる川まで来ていた。橋の中央で立ち止まって、息を整える。


 ここまで来ればしばらく一人になれるだろう。莉子は道頓堀3倍ほどの大きさの濁った川を覗き込むように橋の縁に立った。


 しかし彼女は焦りのあまり、読み違えていた。


「莉子ちゃんーっ!」


 反射的に振り返ると、つむぎがすぐそこまで迫ってきていた。


 あの子は空気が読めないのだ。


 スーパーに行くために一台だけ購入した、自転車屋で最も安かったママチャリをかっとばしている。つむぎの愛車である。


「い、いや……」


 息が切れ、すぐには走り出せない。混乱する莉子は、怯えて橋の柵を乗り越えた。


「来ないでくださいっ!」


「うええぇぇ!? あっあぶないよぉ! 降りようっ!」


 ママチャリを乗り捨てて、つむぎが駆け寄る。


 つかまりたくない。


 絶対にまたあの子を傷つけるだろうから。


 制御不能な自分が今は恐ろしい。


 彼女から離れたくて、莉子は無意識に、じりじりと後退した。


 それがいけなかった。


「あっ!?」


 ぐらりと体が揺れた。


 つむぎが悲鳴を上げるのと同時に、莉子の体は引力によって後ろへと引かれる。


(うそ。あたしの人生、これで終わりってこと!?)


 背中からスローモーションで落ちていく。


(でも、仕方ない……か)


 莉子は素直に諦めた。


 つむぎにひどいことをした罰が当たったのだろう。


(短くてあっけない人生だったな。でももう、どうでもいい――)


 家族への執着と期待を手放したとたんに、心が軽くなった。


(ああ、なんだ、もっと早くこうすればよかった)


 優しくまぶたを閉じれば、目の端に溜まっていた涙が空中へと散った。


「うっんんっっっ!!」


 だが次の瞬間、近くでつむぎが聞いたことのない低い声でうなった。


「!?」


 体にずしんと重い衝撃が走り、莉子は思わずまぶたを開ける。


「莉子ちゃん〜〜〜〜っ!」


「は……?」


 莉子は一瞬、自分が置かれた状況がわからなかった。足元がふわりと宙に浮いていることに気づいて、初めて肝が冷えた。


 恐る恐る頭を上げてみる。橋の柵から身を半分乗り出したつむぎが、歯を食いしばって川に落ちかけた莉子の腕をつかんで支えていた。毎秒ごとに腹に柵が食い込み、顔が大きく歪んだ。手も辛いのだろう、ぷるぷると震えている。


「な、にしてんですか! 離し……おまえも落ちますよ!?」


「いや〜っ!」


 つむぎの手にますます力が込められた。


 だから、莉子は逆上した。


「バカですか!? 二人とも落ちるなんて、合理的じゃないです!」


「ゴーリ的とかわかんないぃ! でも絶対、離さないのでぇ〜」


「だからっ! おまえのそういうところが嫌いなんですよ! ……っ!」


 こんな状況なのに。つむぎが莉子の命をつなぎとめているのに。文句が止まらない自分にうんざりした。


 自分の心の醜さが嫌だった。いっそこのまま落ちて消えてしまいたい。


「き、嫌いでもぉ、いいよぉ! だからっ、もう少しだけ、がんばってっ」


「なんでよ……。あたしなんて、いないほうがいいじゃないですか……」


「よくないよぉぉっ!!」


 つむぎが叫んだ瞬間、ずるり、と莉子の身体が一気にずり下がった。


 小さな悲鳴を上げて、莉子は思わず目をつむる。身体はなんとか停止した。


 だが、つむぎの手は汗ばみ、掴んだ腕は少しずつ確実にずり落ちていく。


 まるで地獄に呼ばれているような恐怖に、ぞくりと莉子は身震いした。


「うわああああああああああっ!!」


 最後の力を振り絞り、つむぎが叫ぶ。


「莉子ちゃんも! わ、わたしにつかまって! もう片方の手を伸ばして!」


「あっ……ううっ!」


 支えられているだけだった莉子の手が、しっかりとつむぎの腕を掴んだ。垂らしていたもうひとつの腕も上げて、両手で強くしがみつく。


「おち……落ちたくないっ」


 莉子はつぶやく。


「死にたくないよぉっ!!」


 今度は腹の底から叫んだ。


 一度は諦めかけたけど、本当に死にたいわけじゃない。もっとおしゃれしたいし、友だちを作りたい。彼氏だって欲しい。


 それにまだ、なにも家族との思い出がない!


「絶対に助けるからぁ! がんばって!」


「どうしてっ!」


「わたしも莉子ちゃんも、お兄ちゃんの妹だからだよぉーーーっ!!」



「よくやった、つむぎ! 莉子つかまれ!!」


 自転車に遅れて走って来た李津が、柵から身を乗り出して手を伸ばした。


「っ、兄ぃっ!」


 李津が莉子の腕をしっかりとつかむ。


「いくぞつむぎ、せーのおおっ!!」


 莉子の体は男の力が入ったことで少しずつ持ち上がっていく。


 地獄の底が遠ざかっていくのを、莉子は息を飲んで見下ろすのだった。




 

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