お兄ちゃんの妹だからだよぉ!
忘れることはできない。
2月の刺すような寒さが続く日々の中、神様がきまぐれを起こしたみたいに日光が心地良い、心まで温まるような日だった。
児童養護施設は心に傷を負った子どもが山のように集まっている。
痛みを知る私たちはみな善人だ。莉子はそう信じていた。
その日、莉子と仲が良かった6歳の少女のぬいぐるみが盗まれた。犯人として捕まったのは、莉子と同い年の男の子だ。彼は親から虐待を受け続け、年明けに保護されたばかりの子どもである。
男の子が犯人と言われたのは、第三者の目撃証言があったからだ。
でも莉子は先生から男の子をかばった。見間違いではないのかと。彼を傷つけないでくださいと懇願した。そして悲しむ少女には、どこかに置き忘れたのかもしれないから一緒に探そうと提案した。
しかしその日の夜、男の子のバッグの中から、破れて汚れて、ボロボロになったぬいぐるみが出てきたのである。
騒ぎに集まった子どもたちの中に、莉子の姿もあった。男の子に詰め寄る先生に、彼は震えながら言った。
「あ、あいつにやれって言われた!」
人差し指の先に、莉子を示して。
子どもたちはよくも悪くも素直で、男の子の言葉を間に受けた。
号泣してぬいぐるみを抱きしめていた少女の憎悪が、そして周りの子の嫌悪が一気に莉子に向けられた。
心臓に釘を打ちつけられたようだった。
怖いもので満たされたプールに、頭のてっぺんまで沈められているような不快感に涙も出なかった。
言葉なく立ち尽くす彼女の足元が震えているのは、2月の寒さのせいだけではない。
翌日からの莉子が置かれた境遇は、天から地へ落とされたようなものだったが、もう彼女自身には思い出すことができなくなっている。
――コミュニティの中でいちばん力がある人を味方につけよう。
――嘘をついてでも世の中をうまく渡る方が楽だ。
合理的に生きる方が心身が安定するとは、彼女が見つけた処世術だった。
それから何年も他人と付かず離れずで、うまく共同生活を続けてきた。
有宮家での生活だって自信があった。
けれど、ここに来て初めて感じた胸が詰まるような気持ちは、どうしても折り合いがつかず困惑するばかりだった。
綾瀬つむぎのせいである。
最初の印象は、妹を
それが誤解だと気づいたあとも、腹のうちが読めないつむぎに心を乱され続けた。
彼女といると、終わりがわからない悪夢を見ているような不安と恐怖が、常に莉子にまとわりついてくるのだ。
「莉子!?」
家から李津が呼んでいるが止まれない。放っておいて欲しかった。
「はあっ、はあっ!」
家を飛び出した莉子は、町をでたらめに走った。
冷たい空気の中を泳ぐように。今は頭を冷やしたかった。
いつのまにか町の中心を流れる川まで来ていた。橋の中央で立ち止まって、息を整える。
ここまで来ればしばらく一人になれるだろう。莉子は道頓堀3倍ほどの大きさの濁った川を覗き込むように橋の縁に立った。
しかし彼女は焦りのあまり、読み違えていた。
「莉子ちゃんーっ!」
反射的に振り返ると、つむぎがすぐそこまで迫ってきていた。
あの子は空気が読めないのだ。
スーパーに行くために一台だけ購入した、自転車屋で最も安かったママチャリをかっとばしている。つむぎの愛車である。
「い、いや……」
息が切れ、すぐには走り出せない。混乱する莉子は、怯えて橋の柵を乗り越えた。
「来ないでくださいっ!」
「うええぇぇ!? あっあぶないよぉ! 降りようっ!」
ママチャリを乗り捨てて、つむぎが駆け寄る。
つかまりたくない。
絶対にまたあの子を傷つけるだろうから。
制御不能な自分が今は恐ろしい。
彼女から離れたくて、莉子は無意識に、じりじりと後退した。
それがいけなかった。
「あっ!?」
ぐらりと体が揺れた。
つむぎが悲鳴を上げるのと同時に、莉子の体は引力によって後ろへと引かれる。
(うそ。あたしの人生、これで終わりってこと!?)
背中からスローモーションで落ちていく。
(でも、仕方ない……か)
莉子は素直に諦めた。
つむぎにひどいことをした罰が当たったのだろう。
(短くてあっけない人生だったな。でももう、どうでもいい――)
家族への執着と期待を手放したとたんに、心が軽くなった。
(ああ、なんだ、もっと早くこうすればよかった)
優しくまぶたを閉じれば、目の端に溜まっていた涙が空中へと散った。
「うっんんっっっ!!」
だが次の瞬間、近くでつむぎが聞いたことのない低い声でうなった。
「!?」
体にずしんと重い衝撃が走り、莉子は思わずまぶたを開ける。
「莉子ちゃん〜〜〜〜っ!」
「は……?」
莉子は一瞬、自分が置かれた状況がわからなかった。足元がふわりと宙に浮いていることに気づいて、初めて肝が冷えた。
恐る恐る頭を上げてみる。橋の柵から身を半分乗り出したつむぎが、歯を食いしばって川に落ちかけた莉子の腕をつかんで支えていた。毎秒ごとに腹に柵が食い込み、顔が大きく歪んだ。手も辛いのだろう、ぷるぷると震えている。
「な、にしてんですか! 離し……おまえも落ちますよ!?」
「いや〜っ!」
つむぎの手にますます力が込められた。
だから、莉子は逆上した。
「バカですか!? 二人とも落ちるなんて、合理的じゃないです!」
「ゴーリ的とかわかんないぃ! でも絶対、離さないのでぇ〜」
「だからっ! おまえのそういうところが嫌いなんですよ! ……っ!」
こんな状況なのに。つむぎが莉子の命をつなぎとめているのに。文句が止まらない自分にうんざりした。
自分の心の醜さが嫌だった。いっそこのまま落ちて消えてしまいたい。
「き、嫌いでもぉ、いいよぉ! だからっ、もう少しだけ、がんばってっ」
「なんでよ……。あたしなんて、いないほうがいいじゃないですか……」
「よくないよぉぉっ!!」
つむぎが叫んだ瞬間、ずるり、と莉子の身体が一気にずり下がった。
小さな悲鳴を上げて、莉子は思わず目をつむる。身体はなんとか停止した。
だが、つむぎの手は汗ばみ、掴んだ腕は少しずつ確実にずり落ちていく。
まるで地獄に呼ばれているような恐怖に、ぞくりと莉子は身震いした。
「うわああああああああああっ!!」
最後の力を振り絞り、つむぎが叫ぶ。
「莉子ちゃんも! わ、わたしにつかまって! もう片方の手を伸ばして!」
「あっ……ううっ!」
支えられているだけだった莉子の手が、しっかりとつむぎの腕を掴んだ。垂らしていたもうひとつの腕も上げて、両手で強くしがみつく。
「おち……落ちたくないっ」
莉子はつぶやく。
「死にたくないよぉっ!!」
今度は腹の底から叫んだ。
一度は諦めかけたけど、本当に死にたいわけじゃない。もっとおしゃれしたいし、友だちを作りたい。彼氏だって欲しい。
それにまだ、なにも家族との思い出がない!
「絶対に助けるからぁ! がんばって!」
「どうしてっ!」
「わたしも莉子ちゃんも、お兄ちゃんの妹だからだよぉーーーっ!!」
「よくやった、つむぎ! 莉子つかまれ!!」
自転車に遅れて走って来た李津が、柵から身を乗り出して手を伸ばした。
「っ、兄ぃっ!」
李津が莉子の腕をしっかりとつかむ。
「いくぞつむぎ、せーのおおっ!!」
莉子の体は男の力が入ったことで少しずつ持ち上がっていく。
地獄の底が遠ざかっていくのを、莉子は息を飲んで見下ろすのだった。
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