吸いさしの空
由上 光
吸いさしの空
心臓が早鐘を打っている。
肺胞が空気を求めて膨張しては収縮する様子が脳裏に浮かぶ。
ぼんやりとした視界に目的地が映る。
わずかに開いた扉から差し込む光が、埃っぽい踊り場に一筋の線を曳いていた。
冷たい取手に手をかけて、開く。
「今日は早いじゃないか」
「もう昼過ぎなんですがね」息を整えつつ僕は答える。
「もうここに来てくれる人は随分減ってしまってね。猫も杓子も禁煙というわけだ。私のような人間には喫煙中にしか話してくれる人がいない。君はその大切な一人なんだよ」ライターを取り出しつつ彼女はいう。
彼女は僕の通う大学の先輩らしい。
〈らしい〉というのは、それを確かめる術がないからだ。僕は彼女が授業に出ている様子を見たことがない。
ポケットからマルボロを取り出して、彼女から火をもらう。深く息を吸い、派手に煙を吐き出す。それを見て彼女はへらへらと笑った。
「その吸い方、なんだか見ていてくすぐったくなるね」
「今の時代、どんな吸い方だってむず痒くなるものですよ」
「そうかもしれないけどねえ、君の振る舞いはどこか演技がかっているというか、危なっかしいように見えるよ。そういえば君、ここに来た時、随分息苦しそうにしていたね。煙草は体に毒だ。いっそのことやめたまえよ」
「ついさっきまで禁煙した人を腐していた人の言葉とは思えませんね」
そもそも、こんな口調の人間がいえたことでもないだろう。とはいえ、こうして足繁く喫煙所に通っている僕も、やはり同類であり、似たもの同士といったところなのだろうが。
彼女と出会ったのはこの大学に入ってからだった。
特に勉学に興味を持てなかった僕は、かといってスポーツや仲間との触れ合いのなかに居場所を得られるわけでもなく、いつも図書館の隅に陣を立てて日々を凌いでいた。幸運なことに、学校にいる人間は本というものを神聖視していて、物静かにインクの染みを睨んでいる限りは何かしら生産的な行為に取り組んでいるものとして扱ってくれた。
僕は相当に不真面目な読書家で、本を読む以外のことが心底嫌いだったから、消去法的に日々を削り取った結果、大して好きでもない読書をしているという具合だった。
そういうわけで、学校の課程なんてまるで理解しないまま高校から追い出され、なんとなく大学に来てしまった僕は、当然のように新天地で馴染めるような場所もなく、あからさまに不便な場所に作られた喫煙所を居場所に定めたのだった。
「君は、煙草を吸いに来たのかな」
誰か人がいると思っていなかったから、僕は驚いた。
この学校は表面上禁煙とはいえ、一歩その敷地から出ればやれ受動喫煙などとうるさくいわれることはない。そのため、煙草を吸うという目的を持つ人間はわざわざこの――旧校舎の屋上に設けられた喫煙所にまで足を運んだりはしない。
「ええ、多分そういうことになるんでしょう」
「ふーむ、君は面白い話し方をするね、まるで君という人間を他者が説明しているみたいだ」そういって彼女は煙草を口にする。
「そうですかね、意識したことはありませんが」
「うん、自分自身のことというものは、案外埒外のものとして捉えるものさ、でも別にあげつらっているわけじゃないよ。ただ……」
そういうと、彼女は何かをいいかけて、――やめた。
「まあ、こんなことは大した問題じゃない。君はこの学校の新入生だろう? 袖すり合うも他生の縁だ。君とは仲良くやれるといいね」
こういった彼女だったが、彼女は自己紹介すらしなかった。
僕は他人に興味を持てるような性格ではなかったし、自分から語らないものごとをやたらと詮索する人間を蛇蝎のように嫌い、放っておかれる権利は誰もが当然持つものと考えていたから、名前を聞くことはなかった。
そもそも、この空間には二人しかいない。であれば、一人称と二人称だけで何の不足もないのだ。固有名詞なんて厄介な呪文はここには必要ない。僕たちはこの場所で、日常よりずっと抽象的な関係性を築いていた。
僕と彼女の関係は、他者の目を借りたなら多分に歪なものとして映ることだろう。
僕はこっそりと、この場所を〈避難所〉と呼んでいた。巷間にあふれかえる固有名詞や複雑な関係性、そして過剰な感情の応酬を慎重に排した避難所である。僕はここで息継ぎをし、息を止めて生活に没頭して、再びここに戻った。
ある時、彼女がいった。
「人間が本当の意味で会話ができるのはどんな時だと思う?」
「禅問答でも始めるつもりですか」僕は問い返す。
「それもいいね。作麼生(そもさん)ってね。でも私は、問と答えを繰り返す自己忘却の中で悟り得るとも、あまつさえ真理にたどりつけるだろうとも思ってはいないんだ。私はただ、君がこの問に対してどう思うかを知りたいんだよ」
彼女は僕の混ぜっ返しを懇切丁寧に返す。それを聞いて僕は、面前の相手はなかなかに難儀な性格だと、ぼうと考えながら返答を編む。
「そうですね、やっぱりお互いが話をしたいと思っている時でしょうか」
「うん、それはきっと正しいね。でも、私はそれだけじゃ不足なんじゃないかと思うんだよ。私たちが話をできるのは、きっと人が向かい合って、二人きりのときだけだ。それも、そうだね、可能なら焚き火を囲んでするのが理想かな」
「なら、僕たちの会話において、焚き火はこの煙草の火で代用されている。そういうわけですか」僕はわずかに笑い声を漏らしつつ問いかける。
「そう、分かっているじゃないか。その点において、ここはこの錯乱した世界で最も会話にふさわしい場所の一つだよ」
「その場所を構成する一要素としては光栄な話ですね。でも、その発言にはいくらか大言壮語のきらいがありますよ」
そういった僕を彼女は一瞬恨めしそうに眺めて、続けていう。
「君のいい分を否定したりはしないよ。その感性は君のものだからね。でも、私はあえてこういわせてもらうよ。人間は大言壮語でなくしては何事も口にできない、とね。だから、私の言葉も、それから君の言葉だって、現実という不可触なものを乱暴に切り取ったものに過ぎないわけだ。なら、私たちは常に大仰にすぎる話しかできない。それを自覚している人間と、自覚していない人間がいるだけなんだよ」
「あなたにいわせると、何もかも一緒くたに絡め取られてしまいますね」そういって僕は笑った。
僕たちの話は、ともすると退屈なものなのかもしれない。
けれど、僕にとってはこんな、当たり前のものごとを何ともなしに見直して、非常識な定義に書き替える営みが何よりも尊いものに思えた。
僕にとって日常は、定義されていない言葉の激流に身を任せること、ただ目前に現れる問題を解決しようと奔走して、それが達成されるか否かを問わず、奔流に飲み込まれ見えなくなっていく問題の軌跡を辿るという、不本意な役柄を演じることでしかなかった。けれど僕が必要としていたものは、その奔流と距離をおいて流れゆく言葉を眺め、観察し、その特性を理解した上で定義を施すことだった。
この喫煙所はいわば日常の〈淀み〉として、僕のような激流を本当の住処にできない未成熟な人間を受け入れる場所として存在していた。
僕はこのことについて一度彼女に伝えたことがある。すると彼女は僅かに表情を綻ばせ、しかしそれを僕に悟られないよう俯きつつ煙草を取り出し、ポケットからライターを手にとった。
「ふーむ、なるほどね。私はどうも意図しない結果を生んでしまったみたいだね」ライターを取り落しそうになりながら、彼女はそう口にする。
「私は君の鬱屈した精神を浄化するために話をしていたわけではないのだけれど、まあ、いいだろう。それは君のなかで自発的に起こったことだろう。なら、私はこれまで通り話をするよ。君のなかでどんな変化が起ころうと、君の言葉を借りればここは〈淀み〉として、変化から免れたものであるべきだろうからね」一息でそういうと、彼女はゆっくりと煙草を吸い、さも満足そうに煙を吐き出した。
彼女と出会った当時から、僕は彼女の目的についていくらかの仮説を立てていた。宗教勧誘か、あるいは時代遅れのオルグか、最悪美人局だろう、そんなところだ。
しかしそれらはどれも現実味に欠けているように思えた。
彼女は僕に何の働きかけもしてこない。彼女がすることといえば、抽象的な質問や、考えたこともないようなこと、子供の頃なんとなく思った疑問について所感を求めてくる位のもので、どれもほとんど無害なものにしか思えなかった。
彼女はこれまで僕自身についての質問を一度だってしたことがない。互いの属性に対するいかなる言及も退けること。それは、いつしか僕たち間の不文律となっていた。だから、僕は彼女に対してほとんど何も知らない。彼女の年齢も、職業も(本当に大学生なのか?)、性別だって、外見や声色から総合的に判断した上で女性として扱っているだけで、実際には男性なのかもしれない。
僕の知っていることは、彼女はいささか慎重に過ぎる思考回路の持ち主であり、ニコチン中毒者である、ということくらいだ。
それでも、僕にはそれで十分だった。
不満はない。むしろ、これこそが本当の関係性だと思った。相手がどんな人間であるかによって扱う言葉を変え、思考を変え、意見を変え、一人称を、二人称を使い分ける習慣が、僕に馴染んだことはこれまで一度たりともなかった。別にそれが上手くできなかったわけじゃない。むしろ同年代の中では上手くやってきた方だと思う。けれど、それが上手くこなせるようになればなるほど、僕は自分というものを水で薄めているような錯覚を覚えたものだった。
これまで僕は、言葉の示す内容そのものに注意を払ってきたつもりでいる。だから、僕にとっての会話は、最小限の情報の中で行われるものであって、それこそが理想だった。僕は彼女に対し、彼女であること以上の要素を必要としなかった。多分、彼女も僕に対して、僕それ自体を意味する一要素だけで十分だと思っていたはずだ。
しかし当然ながら、彼女の目的は依然として分からないままだった。
街全体に牡丹雪が降った日、残像を残して小刻みに揺れる煙草の火を眺めながら、僕は一つの問を彼女に投げかけた。僕たちの不文律に反しない質問を捻り出すのは骨が折れたが、僕にとってはそれだけの意味があった。
「あなたが話題にあげる物事には、通底する価値観はあるんですか?」
彼女は驚いたように僕の目を見た。僕から問題提起をしたのが初めてだったのだから、無理もないだろう。
「へえ、君が自分から疑問を出すようになるとは。雪でも降るんじゃないのかい? いや、もう降っていたね」そういって彼女はしばらく沈黙し、話を続けた。
「冗談はさておき、私も君の初めての質問がここまで核心にふれたものであるとは予想しなかったよ。この質問はもっとずっと後になるものと思っていた。――いいや、そう思っていたかった、といってもいいかもしれないね」
「それは、どういう意味です? この質問がまるで何らかの通過儀礼であるかのようないい草に聞こえますよ」
「うん、君は勘がいいのもあって、必要以上に言葉を重ねる必要もなさそうだね。もう少し鈍感だったら、君はもっと幸福だったと思うよ。もちろん、そうであれば君はここでの会話を楽しめなかっただろうし、私と時間を共有することもなかっただろうけれどね」彼女は哀愁を含んだ調子で話す。
「あなたは僕を買いかぶり過ぎているようですね。現に僕は今、あなたの言葉をほとんど理解出来ていない。いったい何がいいたいんですか」
「君が思っている通りのことだよ」そういって彼女は微笑んだ。
大抵の人間がそうであるように、僕も自分が手にしている日常は永久に続くものと無意識に思っていた。しかし、当然のように連続する今日は、同質の明日を保障してはくれない。
僕が明くる日、喫煙所の扉を開くと、そこに彼女はいなかった。
私には顔見知りの感情があった。
それは、幼少期にはずっと遠くから見つめているだけで、まるで視界に入ることもない、縁遠いものだったのだけれど、年齢を重ねるにつれて距離は縮まり、高校を卒業する頃にはもはや触れるか触れないかという場所にあった。
その感情は、〈倦怠〉だった。私はそれから逃れるようにして日々を過ごした。
もちろん、その感情が常に厄介な側面を持つわけではない。適度な倦怠は心身の回復を促すし、不必要なものごとを取り払うのに不可欠な感情でもある。
しかし、私においてはその限りではなかった。私のもつ〈倦怠〉は異常な重みを持っていた。そして、それは巨大な腕を持ち、私を掴んだなら最後、いつまでも離すことがないことを、何故か私は前もって確信していた。
私は留保なしで優秀と評価できるだけの人間だった。大抵の視覚情報はひと目見ただけで記憶できたから、退屈な授業の間は自分の好きな本を頭の中で開いて読むことができた。
当時の私にとって一番の課題は〈退屈をいかに紛らわすか〉だった。片端からものごとをほぼ完全に記憶できる私にとって、見るもの聞くことは即座に陳腐化の対象となる。私は私の時間を完全に持て余していた。
学校図書館に所蔵された本の大半を記憶した私は、公共図書館に出向いて数学の本を眺め、そこに記された問題を暇な時に解くことで退屈を紛らわした。すぐに図書館の本に記述された問題は底を尽き、私はどうにかして新たな〈暇つぶし〉を探す必要にかられた。
カウンターに佇む図書館司書にそれを伝えると、彼女はいたずらをされているのかと訝しみながらも、懇切丁寧に他の図書館から本を取り寄せる手続きの手順を教えてくれた。こうして膨大な書物にありつく方法を知った私は、中学卒業まではほとんど退屈を知らずに過ごした。
私は人前では大抵脳内の本を読み漁っていたから、いつもぼんやりとしている人間と評されていたけれど、あらゆるテストでほぼ満点を採った。周囲の人々は私を神童ともてはやして、何かありがたい存在かのように扱った。
幼少期には「どうして皆頭の中で本を開かないのだろうか、真面目にやっていないのかな」などと考えることもあったが、どうやら私の方が異常らしいことが分かると、ただ自分の境遇をどう扱えばいいか困惑した。とはいえ、何かの解決ができ得る問題ではないので、私は特に変わることなく本を読み、というよりスキャニングし、頭の中でそれを情報として処理して、知識を吸収することをただただ延々と続けた。
高校に入学した頃からだろうか。私はかつて感じていた退屈さに追いつかれつつあることを理解した。しかし、その退屈さは以前よりもずっと質量を持ち、強力な粘り気を含んでいた。
私にとって読書は以前よりも〈暇つぶし〉に適したものではなくなっていた。知識は知識と連結することで初めて価値を持つものだ。だから、本を読めば読むほど、私は内容の重複した記述に遭遇する。こうして、人が特定の知識を理解するのに要する時間は、幾何級数的に減少していく。おそらくほとんどの学習者にとって、それは福音なのだろう。けれど、私にはこれほど残酷なことはなかった。
当然ながら、私がこの〈倦怠〉から逃れるための手段に、読書だけを選んだわけではない。高校に入ってから知識吸収量が頭打ちになりつつあることを察した私は、運動や楽器演奏などといった実技的知識に目を向けた。事前に理論的な情報は網羅していたから、どちらも特に抵抗なく実践に入ることができた。しかし、運動も楽器演奏も、個人の身体的限界までの範囲において能力を引き出すことはできても、それ以上はどうにもならないことが、自然に理解できてしまった。肉体は脳に比べれば、その拡張可能性は比べ物にならないほど小さなものなのだろう。
そこで私は、自分のもつ〈倦怠〉の到来は、自身の拡張によってのみ延期可能なのだとようやく理解した。この〈倦怠〉は、原始的な発達の中心点から放射状に広がっていくものであるようだった。私はすでにその中心を「倦怠」に支配されつつあって、それから逃れるには中心からの距離を設けられるよう、いかに自身を拡張するかにかかっているのだ。そう、私には思われた。
それから、私は必死で知識を集め続けた。もはや四の五のいっている場合ではなかったから、学校を休んで図書館に通い詰め、自室には資料が溢れかえっていった。その頃から、日本語で書かれた媒体より、英語で書かれたものを読むことが増えた。コンピューターを利用してモニター越しにものを読むこともこの頃覚え、毎日膨大な資料を読み込むようになった。
両親は私の度を越した振る舞いに戸惑いを覚えていたが、こと学習についての積極的姿勢の現れであるとして外部から扱われ、学校からの許可も下りたために、特に干渉してくることはなかった。
いつしか夢の中でも情報の処理が行われるようになっていた。眠っている最中、読んだ文章が脳裏に浮かび上がり、それを的確に分析、処理していく。
悪夢だった。それが〈倦怠〉から逃れるという目的に意味あるものであることは間違いなくとも、人間には無意識のなか、ただ眠る時間が必要不可欠なのだと、ひたすらにそう思った。
私はまるで情報処理を目的とした機械のようだなと、自嘲気味に思った。神様は自らの作った世界の情報を知ろうと画策し、私を作り給うたのだ。私の耐用年数は絶対者の無理な介入を受けて通常よりずっと短いものになってしまった。そんな馬鹿げたことを妄想して、涙で資料が見えなくなっていることに気がついた。私は涙を拭いて、資料を見て、やはりまだ視界が滲んでいることを知り、また涙を拭いた。
しばらくそうしているうちに、目を開けることが億劫になっている自分がいることに気がついた。
高校三年生の冬のことだった。私は大学進学において、ほとんどその労力を払わなかったが、私の病的な学習意欲をアピール材料にできると考えた私の担任が両親に掛け合い、大学の推薦枠を利用してある大学の入学を可能にしたそうだった。
正直にいって、もはや一年後の未来を楽観視する余裕のない私には、どうでもいい話でしかなかった。私はそれを二つ返事で了承し、私の大学進学は確定した。
気がつくと、モニターの前で丸くなって眠っていたことが分かった。あの時、目をつぶった私は、そのまま疲労のなかで意識を失っていたのだろう。
久々の無意識だった。
ふと、「生きることは病気である。眠りが十六時間ごとにその苦しみを軽減してくれる」という、フランスのモラリストの言葉が脳裏に浮かんだ。このあとに続くのは、「眠りは一時的な緩和剤であり、死は特効薬である」という一文だ。
そして、私は一つの結論にたどり着いた。いや、たどり着いてしまった。私はもはや十六時間ごとの〈緩和剤〉を得ることすら叶わない。生という誰もが侵される病のなか、私だけがその恩恵に浴することができないというのなら、私が〈特効薬〉に手を伸ばしたとして、一体誰がそれを咎めるられるのだろう。
私はこの考えに取り付かれたまま高校を卒業し、死に場所を求めるようにして日々を過ごした。行動の選択肢の幅を広げることになった私は、それでも多くの同胞と同じように、すぐに計画を実行に移すことはできなかった。
その頃、私は自らの思い切りのなさを責めた。そして、はなからこの状況に陥ることを予測していながら、のうのうと生きながらえてしまったことを悔いた。けれど、その精神的自傷行為が功を奏すことはなかった。
日常の終わりについて考え始めた私は、私のいない世界について思いを馳せた。私の不在は両親を悲しませるだろう。けれど、一人の友人もいない私は、ほとんどそれくらいの影響しかこの世界に残せないことに思い至った。
この段になって、私はいまさらながら、自分がどれほど僅かな接点でしか世界と触れ合っていなかったかを痛感する。私がここにいたという形跡をどこかに残したい、そう思った。
けれど、この目的を果たせるであろう手段は、私には何ひとつ思い浮かばなかった。それも当たり前のことだ。私は物心ついてからというもの、他人とはほとんど文字記号を通してしか触れ合ってこなかったのだから。
当初は何らかの文章を残すことで「私」という存在の爪痕を残そうとも考えた。
しかし、私は文章を読むばかりで、書くための訓練をしてこなかった。私は極限まで突き詰められた眼高手低で、自らの手で書かれた文章は、そのあらゆる要素に対して、内なる幾百もの名文家たちによる喧々囂々たる議論の対象となった。それゆえ、私は必然的に形式張った無個性な文章しか書けないでいた。これでは意味がない。
進学と同時に一人暮らしを初めた私は、自堕落を体現したような生活を送っていた。というより、自堕落であろうとしていた。〈倦怠〉は、私の思考能力と同等の速度を持っているようだった。私の体調が悪化し、思考が鈍っていれば、その分だけ私の時間的猶予は増える。これまでは両親に引け目を感じて控えていた手段だったが、それも今では最も有効なものであることに違いはない。
煙草を吸い始め、酒を浴びるように飲んだ。食事は一週間に三度程度しか取らなくなり、眠っている時間が増えた。
学校にはかろうじて通っていたが、授業には出ることはなかった。ただまるで人気のない喫煙所で、何も考えないようにして煙草を吸うことに一日を費やし、空を見て、雲を眺めた。
空は一度として同じではなかった。
私は初めて、自分の類まれな記憶力を褒めてやりたいと思った。その日その日で表情を変える空を、私はぼんやりとした頭で儚むように数え、自分の内に蓄えた。それは、私のこれまで行ってきた行為とは違った、何か〈自分のやるべきだったこと〉に属するものに思えた。
その日も私はいつものよう空を一瞥し、煙草に火を付けた。
すると、戸が開く音がした。
生気のない男が一人、所在なさげに歩いてくる。
私の朦朧とした頭は何をとち狂ったのか〈何か声を掛けなくては〉ととっさに考え、それでも気の利いた科白など何ひとつ出てくることはなく、結局、どこかで見たヘンテコな話し方と声色が出力された。
彼はびっくりしたような顔をして(それも当然だろう)、けれど私を無下にせず、返答を返してきた。私はそれに対してやはり同じような調子で言葉を返し、煙草を吸って、息を吐いた。
私はそこで、どうしようもなく残酷なことを思いつく。〈彼に私のいた痕跡になってもらえばいいんじゃないか〉、その考えは私の中の空白にピタリと当てはまった。
見たところ、彼はまともに居場所を作ることのできない人間だ。喫煙するだけなら学校を出てすぐの通りででもすればいいはずだ。いくらでもそんな生徒は目につく。けれど、彼はあえてこの場所を選んだ。彼の離人症的口振りは、この裏付けにもなる。
そんな曖昧な根拠だけで、今の私のぼんやりとした頭には十分な推理に思えた。多分、私は彼に自分自身を投影していたのだろう。
それから、私と彼、二人による浮世離れした会話が私の日課となった。
私が答えのないことを不意にぶつけて、彼が答えるでもなく答える。彼は私の質問に随分誠実に答えてくれた。彼の返答は奇をてらったようなものではないけれど、どれも私の問おうとしていることをよく飲み込んだ上でなされていて、私がいいたいことに的確な補助線を引いてくれた。
私の言葉からは、可能な限り具体的事象が排除されていた。私の持っている情報は、そのどれもが私のものではないことを、私は一つひとつの根拠をもって知っている。私が提示するものそのものには、どうやっても私という個が宿ることはない。
私の個性が宿るものがあるとすれば、それは個別の知識から離れた所感や、知識の配列そのものでしかない。私は自分の語る物事から、辞書的知識を可能な限り取り除くことで、その痕跡に私を見出してもらおうと考えた。
私は彼にこれまで漠然と感じていて、それを書き残して置きたかったけれど、そうし得なかったことを思いつく限り話した。
屋上でのひとときは、私と彼がこの世界で二人ぼっちであるかのような錯覚を生んだ。その錯覚は、彼に残されるであろう私の痕跡が、そのまま世界の人間すべてに影響を与えるものであるかのように、私に印象付けるものだった。それは私にとって快いもので、ときどき、私は『ブラックバード』のメロディーを口ずさみつつ空を見上げた。彼はそんな私をどこか胡散臭そうに見ていたけれど。
彼が私との会話をどう思っていたかは分からない。それでも、どちらかといえば好意的に受け取られていたのではないかと思う。お互いに寒さに震えながら話を続けていることも、よくあったのだから。
そうしてどれだけの話をしただろうか。私は彼と話ができるだけの栄養を摂り、彼と笑いあえるだけの精神的余裕をもって、日々を過ごした。
間違いなくそれは幸福な日々であり、素晴らしき日々だった。
けれど、私に残された時間がもはや僅かであることは、否応なく私を現実に引き戻した。自分が失われることが、極々原始的な意味で恐ろしいと感じた。そうして、私はこの文章を書き始めた。不思議なことに、かつてよりずっと、私は言葉を自分のものとして扱うことができた。彼と話をしていたことがいい影響を与えたのかもしれない。
本当なら、私は君にこの文章を残すべきではないのだろう。
君に傷跡を付けるような真似をすべきではなかったのだろう。
私の振る舞いが褒められたものではないことも、君にとって好ましくないものであろうことも、私は知っている。
けれど、そうする他なかった。君は私についてほとんど何の情報も持っていないはずだね。だから、君には君がこれを読んでいる今、私がどこにいて、どういう状態にあるのかも知ることはできない。でも、君とはそういった、現実の肉体から離れた関係性を持っていたいし、これからも持ち続けてもらいたいよ。
今日、おそらく、君にとっては昨日、君は私に質問をしてくれた。正直にいおう。私は嬉しかったよ。ついさっきまでは抽象的な関係性を称賛しておきながら、こんなことをいうのも可笑しいと思われるかもしれないけれどね。
この関係を始めてから私は、やはり、その関係を終わらせる頃合いについて考えた。そこで最も有力だったのは、君から問題提起をした時、だった。
君との毎日が楽しかったことには間違いはないよ、けれど、私はこの日々が不完全な形で終わるのが怖かった。私はひどく利己的な人間だから、君には私の可能な限り好ましい姿しか見てほしくなかったというわけだね。――いいや、これも私の欺瞞かな。本当にそうであったなら、私はこんな手紙を書き残さなかっただろうから。
多分、本来ならここで、「私を忘れてほしい」などというべきなのだろうね。けれど、私はそこまで健気にはなれないみたいだ。
もちろん、私の言葉には強制力なんてないさ。気に食わなければこの手紙ごと焼いてくれたまえ。君のライターで火葬されるなら、それもいいだろう。
僕がその手紙を見つけたのは、喫煙所の灰皿の中だった。
一度目を通してから、再び読み始め、三度目の熟読を終えた時には、僕の身体は冷え切って、歯が音を立てていた。
彼女の残した文章の一つ一つが、僕の中で反響し、谺して、莫大な音の波となって頭蓋に響き続けている。彼女のいわんとすることを理解しようとして、僕はそれに誤り続けていた。僕は彼女の目的を把握し、僕は彼女にとってのキャンバスであったことを知ったわけだけれど、それに対し怒りの感情を覚えることもなかった。
僕が感じていた感情は、そう、いってみれば、幼いころ好きだったおもちゃをふと思い出した時に感じる寂寥感と、それに今まで思い至りすらしなかった自分自身への懐疑心、自らに疑いを抱かずにはいられないことへの喪失感を主としたものだった。
僕は彼女に対し、彼女である以上の要素を求めなかった。それこそが僕にとっての彼女で、それ以外は存在しない、そう考えてきた。僕はポケットの煙草を摘み、ライターに手を掛け、そのまま動きを止める。一瞬、僕の内面を悔恨が鮮明に照らし出した気がした。
粒の大きな雪が一面、屋上を覆い尽くし、白く染め上げている。寒気の伴った清浄な空気が僕の鼻先を流れた。
……いいや――僕は思う。彼女は僕が後悔することを望まないだろう。彼女は彼女の最善を尽くしたのだ。僕にできることがあるとすれば、これまで通りであることだけだ。聡明な彼女が僕を生きた忘れ形見にしようというのなら、僕のし得る最も好意的な返答は、それ以外ありえない。僕は何の留保もなく、そう思った。
僕と彼女の関係は、他者の目を借りたなら多分に歪なものとして映ることだろう。
きっと、僕は彼女を忘れるべきなんだと思う。この喫煙所に入り浸ることは、僕の将来に暗い影を落とすことになるかもしれない。
それでも、と僕は思う。僕たちの関係性はこういった形でしか現れることはなかったし、そうであったからこそ、あんなにも美しいものだったのだ、と。そして、僕はそれにずっと焦がれていて、きっとこれからも焦がれ続けることになるのだろう、とも。
欄干にもたれて、煙草を取り出す。旧校舎内で、誰かがハーモニカで『ダニーボーイ』を吹いているのが耳に届いた。凍える手で煙草に火を付け、咥えながら空を見上げる。空には一面、星々が散りばめられていた。
僕は彼女が一瞬一瞬の空を記憶していたことを知っている。彼女がそれを〈自分のやるべきだったこと〉と感じたことを知っている。かつての彼女が、僕と同じ空を見ていたことを知っている……。
――夜空は明確に僕を引き込もうという意思を持っているかのようだった。
煙草の灰が唇を焼く痛みで、僕は我に返る。灰皿は空のままで、夜風は骨身に染みた。僕はとめどなく息を吸い込み、そうしてゆっくりと、時を惜しむようにして、息を吐いた。
吸いさしの空 由上 光 @kou46016
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