夜空の桜鬼

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夜空の桜鬼

 あの冷たかった風は、いつの頃のものだったろう。

 そんな事を過ぎらせてしまう程に、暖かな陽射しに包まれた今日この頃。

 セーラー服を着た少女が木陰に座っていた。

 一見して目移りしてしまうものがある。

 細い筆で描かれたような柔らかで繊細な面は、花弁が開ききっていない花のような落ち着きが。そしてどこか憂いを帯びた瞳には気品すら感じさせる。

 腰元まである漆黒の髪は、カラスの濡れ羽色のように艶やかでしっとりとしていた。思わず触れたくなるような、髪は緑の黒髪という表現をよぎらせる。

 例えるならば、雛人形のような気品を備えた少女であった。

 名前を桜木さくらぎ美月みづきと言った。

 彼女は町の公園に美術の授業で訪れていた。

 スケッチブックを広げて鉛筆を走らせる姿は真剣そのものだ。

 美月にとって今描いている風景画は特別だった。

 何故ならコンクールに出す作品だからだ。

 題材にしているのは桜。

 春になると、薄紅色の花びらが風に舞い、辺り一面に花吹雪となって降り注ぐ。

 満開になったらきっと見応えのある風景になるだろう。その美しさといったら……。言葉では言い表せないほどだ。

 開花時期としてはまだ七分咲きというところだろうか。

 それでも、あと数日もすればこの景色を見れるようになるはずだ。

 そう考えるだけで、自然と笑みがこぼれていた。

 ふと横から声をかけられた方へ美月が顔を向けると、そこには一人の少女がいた。

 日差しが強くなった気がする。

 そう感じてしまうものが、少女にはあった。

 見ているだけで明るく元気な気分になるような気がするのは、少女の持つ豪快な情緒からであった。

 ポニーテールの髪をオレンジのリボンで結い、頬にかかる左の後れ毛を長めに、右の後れ毛を少し短めにすることで、アンバランスに見せる髪型をしている。

 健康的な肌の色をした腕や脚は細く引き締まり、スレンダーでありながらメリハリがあった。身長は高くはないが、スタイルの良いモデル体型の少女だ。

 名前を葛原くずはら加代かよと言った。

 美月とは小学生からの付き合いであり、お互い仲が良い親友同士であった。

 彼女の手にもまたスケッチブックがあった。

 加代もまた、美術の授業の一環でこの町に来ていたのだ。

 二人は隣同士に座っているため、距離感としては近い。肩が触れるかどうかぐらいの距離。

 お互い姉妹に近い親友なので、距離について美月は気にした様子もない。

加代は美月に近寄りながら言った。

「お。美月、上手いじゃん」

 加代の褒め言葉に対して、美月は笑顔を見せてお礼を言う。

 それは照れたようでもあり嬉しさを隠しきれないといった表情でもあった。

 美月が描いていた絵を見て、加代は率直な感想を口にする。

 素朴かつ単純な感想ではあるが、美月には十分伝わるものがあった。

「加代はどう?」

 美月が訊くと、加代は苦笑いを浮かべる。

 加代の方はいまいち出来が良くなかったようだ。

 美月の絵を見て、自分の絵と比べてみるものの、上手く描けていないように思えたらしい。

 加代は美術の成績はあまり良くはない。特に絵画に関しては壊滅的と言ってもいいくらいだ。

 そのため、あまり自信がなかったようだった。

「あたしは全然ダメだね。美月には敵わないわ」

「そんなことないよ。私は、ただ好きなものを素直に描いてるだけだもの」

 美月の言葉を聞いて、加代は羨ましいと思ったのか、目を細めて笑う。

「それがいいのよ。好きこそ物の上手なれって言うしね」

「そっか……」

 加代の言葉を聞いて嬉しく思ったのか、微笑む美月。

 だがすぐに表情を引き締めると、真剣そのものの顔つきとなった。

 描く事に集中できる環境というのは、美月にとってはありがたいことだ。

 絵を描く事が好きだからこそ、こうして集中して取り組めるのだから。

 それからしばらく時間が経ち、太陽は傾き始めていた。

 やがて教師から生徒達に終了の合図が出ると、皆それぞれ片付けを始めた。

「もう時間か。早いねぇ」

 加代は名残惜しそうな顔をしていた。

 そんな彼女に対して、美月は笑顔で言う。

「私は、色塗りをして終わりかな。加代は……?」

 美月はスケッチブックを閉じると、道具を仕舞った。

 残念そうな口調で言う加代。絵は完成半ばと言った所だが、後は家に帰って仕上げればいいだけだ。

 その時、風が吹いた。

 暖かな風は桜の木を揺らし、桜の花びらを舞い散らす。

 まるで祝福しているかのように。

 美月は思わず手を伸ばした。

 掌の上に花びらが一枚落ちてくると、それを手に取って眺める。

(……綺麗)

 心の中で呟いた。

 風に舞う花弁は、とても幻想的な光景に見える。

 いつまでも見ていたい。

 そんな思いに囚われそうになった時、視界の隅に何かが映り込んだ。そちらの方へ視線を向ける。

 するとそこには、セーラー服を着た少女の姿があった。

 年の頃は美月と同じくらいだろうか。

 長い黒髪は腰まで届き、前髪は眉の高さで切り揃えられている。

 その少女を見た瞬間、美月は目を奪われた。

 美しい。

 その一言しか浮かばなかった。

 少女は桜の樹の下に佇んでいた。

 幹に背中を預けるように立っている。

 その姿は、どこか神秘的に見えた。

 少女は美月の方に身体を向けた。

 その顔には笑みが溢れている。

 だが、その笑みは、どこかやつれた印象を受けた。

「美月。どうしたの?」

 加代に声をかけられて、美月は我に返る。

 一瞬の間、意識が飛んでいたようだ。

 慌てて振り返る美月。

 だが、そこに加代はいなかった。

 辺りを見回しても、どこに行ったのか見当たらない。

 気がつくと、さっきの少女もいなくなっていた。

 幻でも見たのではないかと思う美月だったが、手の平の上を見ると、そこには先程と同じ花びらがあった。

 不思議に思う美月。

 だが、それ以上に不思議な出来事が起こった。

 加代は何かに驚いた様子で美月を見ていた。

「美月。どうしたのそれ……」

 加代は美月の右手を、信じられないという顔で驚いている。

 美月が自分の右手を見ると、手首あたりから赤い雫が落ちたのを見た。見れば制服の袖が赤く染まり、そこから滴っている。

「美月、大丈夫なの」

 加代はハンカチを取り出すが、当の美月は痛みを感じていない様子だった。

 美月は自身に起こったことに驚きつつも、冷静に袖を捲ってみるが、傷口らしきものは見あたらない。

 しかし、美月は血を流していたのだ。


 ◆


 翌日の学校で、加代は美月に話しかけた。 

「美月。昨日の事だけど、本当にケガとかしてなかったの?」

「うん。特にケガはしてないよ」

 美月は心配する加代に対し、自分の右袖を捲って見せた。怪我など無いというアピールをする美月。

 加代はその様子を確認すると、ホッとしたような表情を浮かべた。

 でも疑問が解消された訳ではない。

 美月の袖を赤く染めたものの正体は何だったのだ。

 当日は絵の具など持っていなかったので、付着するものは無いはずだ。

「じゃあ。あの赤い染みは何だったの?」

 加代は訊いてみた。

「お母さんに聞いてみたら、木の汁じゃないかって。実際、鮮血のように禍々しい色の樹液を流す木があって、そういう木をブラッドツリーって言うって」

 美月の言葉を聞いて、加代は得心がいったようだった。

 美月の言うように、そういう性質を持った樹木が存在する事を本で見せてくれたのだ。

 恐らく、美月が公園内を歩いている時に触れた木に樹液が出ており、美月の服にも付いたのだろう。

 そう考えれば辻妻が合う。

「そっか。なら良いけどね」

 加代は納得するが、美月は何かを秘した表情をしている事に気づく。

「美月。何かあったの?」

 加代は気になって尋ねた。

 血のような液体は、樹液と思われる。

 だが、日本の公園にそのようなものがあるかと言えば疑問に成る。

 美月は黙ったままだ。

 それより、もっと重要なことを、美月は思い出していた。

 それは、桜の樹の下に立つ少女の事である。

 少女の顔は、美月の記憶に深く刻み込まれていた。

「私ね。あの時、桜の下に少女の姿を見たの」

 美月は、言葉に詰まる。

 上手く説明できなかった。

 そんな美月の様子を見て、加代は首を傾げる。

 加代の目には、美月が嘘を言っているとは思えなかった。

 静かな時間が流れる。

 やがて、ぽつりとつぶやくように美月は言った。

「――あの桜の樹の下から声を聞いた」

 そして、その言葉を皮切りにして、美月は、あの時、桜の樹の下で何が起こったのかを語り始めたのだ。

 ………………

 それは不思議な光景だった。

 昼間だった筈の公園が、夜を迎えたように暗く日が落ちていた。

 夜の公園に佇む一人の少女。

 長い黒髪。

 整った顔立ち。

 透き通るような白い肌。

 しかし、彼女の全身には無数の傷跡があった。

 その女性は桜の幹にもたれかかるようにして座っていた。まるで力尽きたかのようにぐったりとしている。

 美月は彼女に声をかけようとしたけど、どうしてもできなかった。

 すると、彼女はゆっくりとした動作で美月に微笑む。

「……やっと会えたね」

 そう言って美月の方へ歩いてくる少女。

 だけど、よく見ると様子がおかしい。

 瞳孔が開ききり、口の端にはヨダレが流れた跡がある。

 そして、全身はぶるぶると震えていた。

「――ごめんなさい。もうあまり時間が残されていないみたい……。だから、お願い。私の話を最後まで聞いて欲しいの」

 少女がそう言うと同時に強い風が吹き荒れた。砂埃が立ち込めて思わず目をつむってしまう。

 再び目を開けると、そこには誰もいなかった。

 ただひとつ、桜の樹を除いては……。

 その話しを聞いた加代は、半信半疑な様子で美月を見つめた。

 美月の話した内容はとても信じられないものだったからだ。

 加代の反応も無理はない。

 しかし、美月は自分の見たものについて真剣な表情を浮かべ、語り続けた。

 加代は美月を信じることに決めた。

「美月。アタシ、その話を信じるわ」

 加代の言葉を聞いて、美月は嬉しそうな顔をする。

「ありがとう。加代」

 それから二人は、放課後に街の図書館に行って調べ物を始めた。

 加代は、地域にまつわる民間伝承の背表紙を眺めていく。

 目的の本は、意外と早く見つかった。

 美月の言っていた桜についての記述があるページを開き、二人して覗き込む。

「美月。ここの民話に、桜鬼って言う話があるんだけど、聞いたことある?」

 本の中身によると、どうやらこの辺り一帯では桜の樹の下に桜鬼という化け物が現れた。

 という言い伝えがあるらしい。

「桜鬼ってまさか……」

 地元の民話に、その名を聞いた事があった。

 桜の咲く季節になると現れては、人の血を吸い喰らうという恐ろしい化け物。

 日本人とって花と言えば《桜》だろう。

 桜は日本を象徴する花でもある。

 『万葉集』にこれを愛でる歌が見えることからも、すでに平安時代には貴族達によって花見が盛んに行われていた。

 だが、春に花を摘みながら飲食する習慣は、すでに古代からあった。民俗学者・折口信夫によれば春先に花を愛でて、その咲き具合から作物の豊凶を占ったという。

 一方で、桜には同時に「死のイメージ」がつきまとう。

 梶井喜次郎の短編『桜の樹の下には』の冒頭の一節「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と表現したのは、好例だ。

 戦国、江戸時代に、桜には不吉なもの、縁起の悪いイメージがあったと聞く。

 桜は昔から、一種<不吉>な樹ともされてきた。

 あんなにも綺麗な花だが、庭木としては今でも忌む風習が一部地域にはある。

 それは、花の下に霊や、霊を集めに鬼が棲むというものだ。

 桜は、特に古木巨木は、死者の鎮魂や慰霊のために植えられた所が多々あり、そのような謂われがあることに人々が霊的なものや、怖れを感じているのではないかと思われる。

 その伝承によれば、桜鬼は美しい女性の姿で現れるとされている。桜鬼は、食らう人間の袖を、桜鬼の血で染めて目印をつける。

 そして、その血の匂いを使い人を、手繰たぐり寄せる。桜の樹の下に訪れる人間を、生きたまま貪り食う。

 と。

「袖が血に染められるって事は。美月は……」

 加代は、愕然としていた。

 もし本当にそうだとしたら、美月はとんでもないモノに遭遇してしまった事になる。

「……加代。私、桜鬼に会ってみようと思う」

 美月の言葉を聞いて、加代はぎょっとする。

 いくらなんでも無謀すぎると思ったのだ。

「何考えているのよ。桜鬼は危険な存在だって書かれているのよ。会いに行くなんて自殺行為よ」

 加代の言う通りだ。

 それでも、美月の意志は固かった。

 加代の説得を受けてもなお、美月の桜鬼に会いたいという気持ちは変わらなかった。


 ◆


 公園に向かった時には、夜になっていた。

 美月は身震いした。

 自分で決意したことながら、やはり恐ろしかった。

 それでもなお会いたいと思ったのは、あの時の少女の言葉が気になったからだ。

 加代は今一度、美月を説得するが、彼女の決意は揺るがなかった。

 しかし、加代自身も不安を隠しきれない様子だった。

 美月は加代の手を握って、加代は美月の手を握って、お互いに勇気づけようとする。

 そして、二人で一緒に桜の樹の下へ向かった。

 美月達が桜の樹に近づくと、すでに先客がいた。

 長い黒髪。

 透き通るような白い肌。

 整った顔立ち。

 小袖に黒い打掛を羽織っている姿は、まるで平安時代の女性を思わせる出で立ち。

 服装こそ違えど、それは、あの時、美月が見た少女だ。

 美月は、見惚れてしまう。その佇まいは、まるで絵から抜け出てきたかのようだ。

 少女は、美月に気づくと驚いたような顔を見せた。

「加代。ここから先は、私一人で行くわ」

 美月は少女の元へと寄った。

「呼び寄せるつもりだったけど、あなたの方から来てくれるなんて嬉しいわ」

 少女は、美月に対して笑顔を向ける。

 だが、その顔はどこか寂しげだった。

 美月は訊く。

「……桜鬼。なんですか?」

 問いかけに、少女は答える。

「そうよ」

 だが、美月は驚かない。

「――やっぱり驚かないのね。……ねぇ、私が怖くないの?」

 彼女は自嘲気味に笑う。

 どうしてそんなことを聞くのかと尋ねてみると、意外な言葉が返ってきた。

「――だって私、ずっと前にあなたを食べちゃったもの」

 美月は驚きの声を上げる。

 その反応を見て、桜鬼はクスッと笑みを浮かべた。

「私を食べたってどういう意味ですか。そもそも、私は今こうして生きているじゃないですか!」

 美月は声を荒げた。

 桜鬼は静かに語り始める。

「あれはまだ私が幼くて、人の姿になれなかった頃のことだったわ」

 ―――昔々、ある所に美しい娘が居た。

 娘の両親は、彼女をとても可愛がっていた。

 けれど、その娘は病気で死んでしまった。

 嘆き悲しんだ両親は、それでも生きて欲しいと桜の樹の下に娘を埋めた。すると、不思議なことに桜の花びらが雪のように舞い散り始めた。

 まるで、死んだはずの娘が桜吹雪となって蘇っているかのように……。

「それって。私の前世……」

 桜鬼は続ける。

「遠い遠い昔のことよ。あなたの死肉を肥料に、私の樹は大きく育ったの。だから、私の身体には、あなたの血肉が宿っているの。ある意味、私達は姉妹とも言えるわ」

 美月は黙って桜鬼の話に耳を傾けていた。

「でもなぜ、桜鬼は人を喰うのですか?」

 美月は質問を投げかけた。

 桜鬼は少しの間、考え込んだ後、答えを口にした。

 桜鬼は、遠い目をして語る。

樹木子じゅぼっこって知ってる。死者の血を大量に吸って妖怪と化した木で、人の血を吸うの。私は、血肉を吸ってしまったことでそれに近いモノになってしまった。

 でも、私はできそこない。木が血を吸うのではなく、化身である私が人の血を吸い喰らう。桜の咲いている時にだけね……」

 それから、桜鬼は桜の樹を見上げた。

「私の本当の樹は、ここじゃないの。もっと山間の忘れられた村にある。でも、もう寿命で枯れようとしているのよ。

 結局、私に残された時間はあと僅か……」

 桜鬼の表情に影が差した。

 桜鬼は力なく笑いながら言う。

 それは、諦めの感情がこもった微笑だった。

「それで、以前会った時に言っていた話しって、何なんですか?」

 美月は桜鬼に訊く。

 桜鬼は話し始める。

「……あなたに、お願いがあるの」

「お願い?」

 美月は首を傾げる。

 桜鬼は続けて言った。

「血を吸わせて」

 桜鬼は願いを語る。

 その目には強い意志の光がともっていた。

 桜鬼は、自らの思いを打ち明ける。

 その目に強い決意の光があった。

「血って。それは生きる為ですか?」

 美月は問い返す。

 桜鬼はその言葉を待っていたと言わんばかりに、嬉々としながら口を開いた。

「私には、人間の心が理解できない。私にできることと言ったら、ただ、花を咲かせることくらい……。それも限られた期間にしか咲かない」

 そう口にした後、桜鬼は悲しげな笑みを浮かべ続ける。

「そんな中でも人は、私の仲間を美しいと褒め称える。私は、そんな仲間が羨ましく思ったの。けれど、それは叶わない。なぜなら、私の姿を見た人間は恐れて逃げてしまう。人を喰ってきたんだから当然よね」

 桜鬼は自嘲気味に笑う。

 美月は思う。

 この少女は人間ではない。けれど、人と変わらない気持ちを持っているのではないかと。

「でも、同時に自然を壊す人間が嫌い」

 桜鬼の言葉を受けて、美月は沈黙する。

「そうですね。私、ずっと前から思っていたんです。世界は美しいけど、人は残酷だなって。この世界で人間がしている事といったら……。罵り傷つけあうことばかり……。今だって戦争を」

 美月は桜鬼に対して同意を示した。

 桜鬼は、真剣な眼差しをしていた。

「でも。美月のような人も居る。あなたのような優しい人がいるなら、まだ救いはあるわね。だから、私は考えたの私の姿を晒そうと。どうしたら、みんなに私の姿を見せることができるか。……そして、思いついたの」

 桜鬼は言葉を続ける。

 美月は、桜鬼の言葉に耳を傾ける。

 桜鬼は両手を大きく広げ、空を仰ぐ。

 その姿はまるで、天に向かって祈りを捧げているようであった。

 桜鬼は叫ぶ。

 それは、魂からの叫びだった。

 桜鬼の口から言葉が紡がれる。

 その声は美しく、聴く者の心を震わせるものだった。

 桜鬼は歌うように、自分の思いを告げた。

「だから私は世界を私の色で染めたいの」

 桜鬼は、身を翻しながら目的を口にした。

「……染めるって。どうやって世界を染めるって言うんですか」

 美月は桜鬼の背に向けて問う。

 桜鬼は答える。

「空に向かって桜の花を咲かせる。私の中にある全ての力を使って。でも、今少し力が足らないの。美月、あなたの血を吸わせて。他の人じゃダメ。私は私と同じ血を持つ、美月じゃないとダメなの」

 美月は一瞬戸惑ったが、覚悟を決めた顔で桜鬼を見る。

「分かったわ」

 美月の返事を聞いて加代は二人に駆け寄る。

「待ちなさいよ! 美月の血を吸うって、そんな簡単に決めちゃダメよ!」

 加代は美月の腕を掴み制止しようとする。

「安心して私が噛んだからって、美月が吸血鬼になったりしないわ。でも、相応の苦痛を伴い、貧血で動けなくなるかもしれない。それでもいい?」

 桜鬼の言葉に、美月は力強く頷く。

 それを見て、加代も渋々引き下がることにした。

 桜鬼は美月に近づき、その首筋を露出させる。

 そこに桜鬼は噛みつく。

 その瞬間、美月の身体に異変が起こる。

 全身の血液が沸騰するような感覚に襲われ、視界が暗転しそうになる。急速に体温が抜けていく事で、寒気を覚える。

 意識が飛びそうになったところで、美月は自分の身に何が起きたのかを理解する。

 吸血による妖力の供給が始まったのだ。

 だが、それは美月の想像を絶するものでもあった。

 それは、今まで感じたことのない苦痛だった。

 体内の血液が一気に逆流していくような不快感。心臓の鼓動に合わせて、血の流れが早くなっていくのを感じる。血管を流れる血液の音まで聞こえてくる。

 それと同時に、桜鬼の力が流れ込んでくる。

 その力は凄まじく、桜鬼に吸い込まれると同時に、美月の体内に満ちていった。

 それはまるで、桜の樹液によって満たされたかのような錯覚を覚えた。

 桜鬼は美月の首元から口を離す。

 その口元は紅を引いたかのように赤く染まっていた。

 桜鬼は美月から離れると、崩れるように倒れ込む。加代が慌てて抱きかかえる。その瞬間に分かる。美月の身体が冷たくなっていることに。

 美月の顔色は青白くなっていた。

「美月!」

 加代は美月が死んでしまったのではないかと思ったが、美月は加代の手を優しく握る。かろうじて意識を保っていると、微笑む。

 桜鬼は告げる。

「ありがとう」

 それは、短い一言だったが、そこには深い感謝の気持ちが込められていた。

 桜鬼は、自分の身体の変化を感じ取っていた。

 彼女は自分の身体を見つめた。

 満足げに微笑む。

 その身体は、桜吹雪に包まれていくと夢のように消えていった。

 それを見送ると美月は意識を失った。

「美月!」

 加代は、美月を揺さぶるが反応がない。

 不安になりながらも、加代は携帯電話で救急車を呼ぶことにした。

 ……しばらくして、救急隊員が駆けつけてきた。

 事情を説明すると、すぐに病院に運ばれた。

 ――それから数時間後。

 美月は意識を取り戻した。

「無茶なことをして。本当に心配したんだから」

 加代は美月の無事を確認し、安堵の息をつく。

 美月は申し訳なさそうにしている。

「ねえ。加代、空を見て」

 美月の言葉に加代は窓から夜空を眺める。

 星が流れていた。

 流れ星のように見えたが、違うようだ。

 桜色の光の粒が川のように流れ、空を桜色に染め上げる。

 まるで、空に桜吹雪が舞っているようだった。

 加代の頬に涙が伝う。

 それは、幻想的な光景に感動してのものだったのか、それとも、美月が無事だったことへの喜びによるものなのか、本人にも分からなかった。

 加代は、しばらくの間、夜空に輝く桜の輝きに見入っていた。

 その日、多くの人々が同じ夜空を見上げることになった。

 乳飲み子を抱いた母親が見上げた。

 仕事帰りのサラリーマンが見上げた。

 恋人同士が見上げた。

 友人が見上げた。

 犬の散歩をしていた老人が見上げた。

 道端で座り込んだ不良が見上げた。

 路上で寝ていたホームレスが見上げた。

 公園にいた親子連れが見上げていた。

 誰もがその美しさに魅了された。

 後に、天体観測者の間で、桜座流星群と呼ばれることになった現象である。

 桜吹雪のように美しい輝きがあったことから名付けられたものだそうだ。

 人々は、この奇跡の一夜を忘れることはなかったという。

 奇跡の桜を咲かせたのが、桜鬼という人々から恐れられた化け物。

 しかも、その正体が、美しい少女の姿をとった桜の化身であったことは、誰も知らない。

 美月と加代を除いて。

 桜鬼は、人々の願いに応えて桜の花びらを降らせたのだろうか。

 それは、桜鬼にしか分からない。

 桜鬼の最期は幸せであったのかもしれない。

 彼女が消えた後も、桜座流星群のことは記憶に残り、ふとしたきっかけで自身の体験を口にした。

 桜鬼が咲かせた桜の花は、人々を魅了する力を持っていたのだ。

 桜鬼は、自らの命と引き換えに、人々の心を染め上げてしまった。

 そして、彼女の残した桜の花は、人の心に癒しを与えてくれた。

 何かを美しいと想う心があるのなら、人は変わることができるだろう。

 そう信じたい。

 美月は思う。

 私もいつか誰かのために、桜の花を咲かせることができるのかな。

 それがどんな形になるかは、まだ分からないけれど……。

 それでも、私はこの世界が好きになったよ。

 だって、桜鬼のおかげで、こんなにも素敵な景色を見ることができたんだから。

 桜鬼、ありがとう。

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