identity blood
刻壁クロウ
プロローグ
……獣の牙が、赤黒い喉から放たれる咆哮を受け微かに震えている。
獣はきっと幾つもの命を食い破り、獣の糧へと変えて来た。その得物たる牙は今も尚鋭いまま、ぬらぬらとした涎の糸を引いている。
それを私は、静かに見つめていた。
***
遥か昔、この地は自然豊かで人間と獣の共存する理想郷だった。弱肉強食。自然界の掟に従い、人間は獣が食糧を得る為テリトリーに入った人間を殺すことを憎まない。それを自然の摂理だと受け入れる。そして逆もまた然り。群れを成す獣達も迷い込むことはあれど、集団で人間のテリトリーを侵さない。
そのような棲み分けが行われ、この世界は獣と人間互いから少しの犠牲が支払われながらも均衡を保っていた。……自然界で、死は忌むべきことではない。人間だろうが獣だろうがそれは当然訪れるもので、その亡骸は他の生物の食糧となるか土の肥料となって多数の生物の住処となる植物の成長を手助けする。そうやって個の死は多数の生を援助し、この世界の生き物は祖先の死に生かされて来た。
死に縁遠いことは平穏ではない。過剰な生は結果的に余剰の死を引き連れてやって来るもので、その余剰は種の絶滅やそれに伴う多数種族の貧困を招く。即ち自然界の平穏とは、一定数の生と死のサイクルが順調に回っていることを指す。決して、死なないことではない。
だがしかしその平穏は、ある一匹の龍によって粉々に打ち砕かれた。
龍はその地のありとあらゆる獣に自らの血を分け与え、獣は龍の強すぎる血の力を受けて異形化または本来持ち得ぬ魔術的力を得てしまった。それにより獣と人間の均衡は崩れ、一匹で村一つ分容易く淘汰できるようになった獣は人間の多い都市部へも降りてくるようになる。
その獣の過剰な脅威により人間は生存本能を一層厚くし、人間達はそれによって与えられる死を受け入れず、絶滅を逃れようと懸命に足掻いた。
だがどのような策を講じたとしても龍血を得た獣はそれを容易く打ち破り、死の具現となって人間に迫り行く。
絶滅を拒む為、人間達に残された手段は一つしかなかった。それは不確かで、自分達を追い詰め高みの見物をする彼の生き物に縋る恥ずべき愚行。人間という種の誇りを捨てる、許されざる行為であった。
だが人間達は生に貪欲。生を求む強欲な彼らに、種を守る高潔さなど最早欠片も存在しなかった。
人間は絶滅を逃れる為、歪んだ獣の血に縋ったのだ。
その盲拝は、龍の血の混ざった獣の血を飲み啜ることで獣達に起こった変化が自分達にも生じるのではないか……ひ弱な人間の皮を破り捨て、獣達に抗うことが可能になるのではないか。そんな一種の希望によって生じた。
だが龍はその時点でまだ未解明の生物。解析はおろか誰も触れたことすらない孤高の存在だった。その龍血が、人体にどのような影響を及ぼすかも分からない。下手を打てば強すぎる龍の血が人類を破滅させる毒となり得る可能性もあった。半ば人々は自棄になっていたと言っても良いだろう。
……だが、確かに人間に龍血が適合した成功事例は存在する。
最初に龍血を得たのは一人の医療者。そして彼は一睡もせず患者の治療を続けながらも獣達の変化した生態を追う、生物学者でもあった。
***
ペレシー・ルクテンバール。彼は医療者であり、優秀な生物学者だった。そして優秀過ぎるが故に、彼は悟ってしまった。
彼は獣に傷付けられ重傷を負った患者達を懸命に励ましながら、その傷の治療を続けてきた。そしてその患者の瞳が希望を宿す瞬間を、幾度も目にしている。だが皮肉にも、彼は解析を行う最中、現状の人間が絶滅を免れる方法はないと悟ってしまった。獣の猛威に、現代医学では救えぬ者達は着々と零れ落ち、また疲弊した医療者達も職を捨て、捨てずとも命を零し、力無い医療は悪足掻きの遅延でしかないと悟ってしまったのだ。もうどうにでもなれと彼は患者を救う医療者の責務を放り捨て、龍の棲むという山の最奥へと白衣のまま向かった。
白衣、という名称が似つかわしくない程泥だらけに汚れた惨めな姿で彼は龍に逢う。
龍の姿は全貌の掴めぬ夜闇の霧の中にあり、睥睨するその眼だけがぎらぎらと光っていた。そしてペレシーは、龍に救いを乞う。
『あなた自身の力で、人類を滅ぼしてください』
それは哀れな人間めの、龍に願える精一杯の贅沢だった。古来より唄い継がれる、神聖な生物に人間如きが捏ねられる精一杯の駄々だった。
龍血により変貌した獣により間接的で何より長く続く残酷な苦しみを龍に与えられるより、その手で、その鋭く柔軟な鱗で人間という生き物の終焉の幕引きをして欲しい。ペレシーはそう願った。苦しむ患者を、未来がないと知りながら励まし続けるのは酷く骨が折れることで……何より、惨すぎる。
獣達にはできないが、あなたならきっと、患者もそうでない者にも平等で一瞬の苦しみさえない、土の下よりも静かな死を与えられるだろう。そう、碌でなしに堕ちた医療者は手を組んで懸命に懇願した。それが一人の医療者の、全てを救い上げる為の最善の選択だった。
すると龍は、彼にこう答える。
『其方の願い、善く分かった。だが、その願いに応えることは私には出来ない』
その言葉に、ペレシーは大きく目を見開く。見開れた瞳がじわりと濡れ、頬を一筋の水滴が流れ落ちた。
その言葉の意味を、拒否されたという事実を彼は一瞬では理解し切らなかった。
無理解の広がる脳内。じわじわと、蛇毒のように龍の言葉は脳回路を巡って彼はゆっくりゆっくりと拒否の事実に蝕まれる。
ひゅうひゅうと、山奥の切り裂くような冷風が白衣の裾をはためかせた。吹き付ける風は皮膚をひび割れさせる程鋭い。周囲から聞こえていた唸るような低い風鳴りや木の葉の掠れる騒めきすら遠ざかり、絶望は彼を現実世界から乖離させ行く。
苦しみのない、安らかな終焉を人間に与えてくれる者は最早誰もないのだ。
だが、希望は潰えたのだとペレシーが崩れ落ちる直前龍は、こうも言った。
『……私の元へ辿り着いたのは其方一人』
そう厳粛な響きを持った声色でペレシーを見下ろし、龍は微かに微笑んだ。
『其方の心の臓を賭す覚悟より成るこの邂逅に敬意を払い、其方に与えよう』
天地を揺るがすような轟音が鳴り響いた。その音は絶望の淵よりペレシーを引き戻すアラームとしては申し分ない役割を果たし、彼ははっと顔を上げる。
しなやかでいて強固な鱗を纏う前脚が、深い夜闇を切り裂くようにして現れた。恐らく、腹を引きずるような形で這いずり、龍は男に少しだけ近付いた。龍にしてみれば、したことはそれだけだ。
……だが、その行動一つが齎した変化は絶大だった。
例えるならば鯨の鳴き声のような、巨大な氷河の真っ二つに割れるような……否、そのようなものでは比較にならない。そんな轟音を伴った移動。その風圧のみにて夜の霧は打ち払われ、その巨軀と周囲の光景は男の前に姿を晒した。
意思なき木々や草葉は全て白く霜を纏い、付近の植物は例外なく首を垂れるようにして中心の龍への敬服を示している。そして龍の移動の痕跡として抉れた地面は底深く残り、尾で何の気なしに叩かれた山の頭頂部がビシ、と音を立てて割れ底の見えぬ谷が形成された。
意思を持たぬ者すら絶対服従を示す、自然界の頂点。気紛れに世界を滅ぼすことすら容易いようなその力。透き通るような蒼白の鱗は外界からの一切の干渉を許さぬ絶対強者の美しさと硬度を誇り、不純物のない氷を思わせるのにその脆さとは無縁だ。
龍の足裏から足の甲はペレシー……つまり大人の身長よりも分厚く、その先には鈍く光る鋭い爪を伴っている。だが、ペレシーはその美しくも暴力的なその光景に畏怖を覚えることも忘れてただ見惚れていた。
…………世界中で、最も死に近い場所に私は居るのではないか。
そう錯覚する程、龍の姿は震える程美しかった。迫り行く死、それは駆られるように人々を責め立てる狂気のように捉えられがちだが、その実態は静かで安らかなものなのではないか。ペレシーはその本質を雄大でいて、自らを語らずとも己が頂点であると、それを伝える術を持つ龍の静かな在り方から感じ取った。
そして龍は、長い首をもたげて男を眺望する。その灰色の瞳は、真っ直ぐに医療者を捕らえていた。
『此れより其方に与うるは私の血液。其方が得るは、龍の純血。嗚呼呉々も……。』
途端龍の鱗が騒めき、連鎖的な何かの砕けるような音と共に鱗の一部が龍の皮膚に対して垂直に立ち上がる。そしてその鋭利な鱗は龍の硬い皮膚を貫き、傷口からは紫がかった赤黒い液体が溢れ出た。その龍の長い首の中腹辺りから、男に向かって一滴の雫が落ちる。見上げたペレシーが左眼で最後に見た光景は、赤く染まっていて……。
『…………私の運命に、抗っておくれ哀れな人間。』
そして一面の赤の中に、雄大さを保ちながら少しだけ寂しそうな色を持つ、龍の灰色の瞳が酷く印象的だった。
***
シェリー・ルクテンバールは実に不幸な娘であった。
……否、不幸であった、というのはあまり正確ではない。「不幸になる宿命だった」というのが、言い方としてはより正しいと言えるだろう。
ある年の冬。彼女は東の大陸で六本の指に入り最初に名前の上がる名家、ルクテンバール家の長女として生を受けた。冬に生まれ始まった彼女の人生で、唯一幸運だったのは隙間風の吹かない安全な屋敷の中で生まれたこと。それのみに尽きるだろう。
寒波の激しい北東部、このルクテンバール領で冬に生まれた赤子は出生後の一ヶ月以内にその半数以上が命を落とすと言われている。冬に生まれた赤子で生き延びるのは常に貴族層……それ以下の貧困層で冬生まれの赤子は、余さず全員寒波に命を拐われてしまうのだ。
そんな冬に、彼女は生まれて生き延びた。それが彼女の神様に貰った唯一の幸福……に、なるだろう。……まぁそれも、生きることを幸福と捉えるならば、の話ではあるが。
ともかく、彼女は生まれた時から飢えることも凍えることも知らず、毎日違う服を着れるだけの裕福な生活を送ることを許されていた。それは飢え凍え、死に行く子供達にとっては喉から手が出る程欲しい人生だっただろう。彼らは満足な食事も取れず、服だって持っているのは身に纏う継ぎ接ぎの一張羅のみ、という有様だった。空腹に喘ぐことを知らぬ、彼女の人生がどれだけ羨ましかったことか。
だが、彼女にとっては違った。何でも持っている筈の、金銭と代替できるものなら何でも強請れば手に入れられた筈の彼女が欲しかったのは、その死に行く子供達の持っていたものだった。
親の愛、だ。
冬生まれの子供達は、死んでしまう可能性が高い。死なないのは一握りの神に恵まれた子供だけ。大半の子供は翌年の春、溶けた雪の下から遺体となって発見される。更に子供を育て守り抜いて行く金銭や肉体的負担は他の季節と比べて群を抜いている。市場まで子供の凍える身体を慰めながら走り、手にした数枚のコインを生温いミルクに変えて与えるのだ。自分の分のスープを買える余力はない。自身の上着で懸命に温めながらも、息の浅く泣く体力すらない赤子を励まし続ける親達。ルクテンバール領に産まれたのならその姿を何度も見たことがある筈だ。苦労すると、自身も死に瀕することになると分かっている筈なのだ。
だがそれでもと望み、未来に一抹の希望を抱いた親達、その間に産まれてきた子供は大人になれずとも幸福である。必死に親達は子供を守り抜き、長い長い冬を越えさせてやりたい、共に越えたいと苦心する。子供達は寒さに凍えながらも、常に温かい親の愛を注がれ続けるのだ。
分厚い窓の外に見えた、寒波に震えながら固まって歩き、時折笑い合う親子の姿を覚えている。
暖炉の炎が煌々と燃える一人きりの室内が、酷く寒かった。オレンジ色の揺れる炎がテラス室内は、猛吹雪の外の世界より余程寒かった。一週間程した頃、再び見たその親子……否、男女は子供を連れておらず、下睫毛や頬が凍っていた。それはきっと流した涙の、凍った姿だったのだろう。
羨ましかった。
死んでもよかった。凍え死んでも、誰かが泣いてくれるなら、死んでもいいと思った。愛されて死ねるのならば、それは愛されず生き続けるよりも余程幸福に思えた。親の温かい腕の中で逝けるのならば、それが幸福だと思えた。
…………シェリー・ルクテンバールは不幸になる宿命だった。
それは、生まれる前から決まっていたことだ。ルクテンバール家の長男であったシェリーの父は女嫌いで有名な男だった。その為彼は十二分に男前と言える容姿だったがずっと独り身を貫いていた……がしかし、名家の当主がいつまでも独身のままでは家の格が下がる。そう考えた彼は世間体の為に、装飾として隣に妻を置いた。容姿も経歴も十分で非の打ち所がない妻。しかし彼はその妻に一切の興味を示さず、一度も夫婦らしいことをしたことはなかった。
しかし妻は、彼を愛していた。彼に恋焦がれていたのだ。一目惚れだった。だがその愛する夫は飾りとしての妻の必要が無くなれば離婚する、と婚姻を結んだ時点で彼女に告げている。彼の中ではもう、離婚は決定事項だった。
ルクテンバールの後継ぎはまだ幼いが甥に任せると彼はもう既に弟に告げていて、子供も必要としていない。夫婦として在れる時間も、残り僅かだった。その事実に気付いた妻は、凶行に走る。
……彼女は他の男との不貞を働き、他の男の子を孕んだのだ。それだけならまだしも、彼女はこう言った。何人もの知り合いの元へ行くと、その度に幸せそうにこう言ったのだ。
「腹の中に夫との子が居る」と。
その噂はすぐに広まり、人々はルクテンバールの新しい命の芽生えを祝福した。当然それは紛れもない虚言であり、腹の中の子は全くルクテンバールの血を継いでいない。
それを証明する方法は至って簡単だ。ルクテンバール家は代々「純なる龍血」を継承している。遠い昔の祖先……「ペレシー・ルクテンバール」が龍と契約し、その血に宿した不滅の盟約。龍に与えられしルクテンバールを繁栄に導いた、その象徴だ。
龍が現れてから、人々は従来の人間であることを捨てて生存戦略へ動いた。魔獣と化した獣達の血液を摂取して自らの血液を変化させ、異能を得ることで獣の猛威への対抗策を手に入れたのだ。そんな人間達の中でもルクテンバール家の血統は群を抜いて優れている。獣の中で変質し、その獣の性質に依存した異能を得ている他の雑種とは違って純粋な龍血を手にしたルクテンバール家の異能は、ルクテンバールの血を引く人間にしか発言させることができない。シェリーはその継がれる筈の能力を全く有していないのだ……と、言いたい所だがそれは違う。
そもそも異能の発現は必ず血を継ぐ全員に起こることではない。それは龍血にも混ざった獣血にも起こり得る周知の事実であり、シェリーが能力を持っていないことはルクテンバール家の子でないことの証明の決定打としてはやや弱くなる。
もう一つ、一目見て分かるルクテンバールならではの致命的な特徴が存在するのだ。
……龍の血は、人間の遺伝情報などに押し負けることはない。その血は必ず子孫にも継がれる。変質した獣血もそうだ。血は異能と共に継がれ続ける。そしてその血の遺伝は容姿に色濃く現れるのだ。そう、長い代に渡って髪や顔、容姿が変化し続けてもこれだけは変わらない。ルクテンバールの龍の血を継ぐ人間は必ず「灰色の眼」をしているのだ。
灰色の眼の人間はルクテンバールをおいて他に存在しない。その目を見れば血を継いでいるかいないかなど、すぐに分かること。一目瞭然だ。人目に触れさせればその子供が紛い物であることはすぐに公になるだろう。愚かなことをしたものだ、と当時ルクテンバール家の人間全員が彼女にそう思った。
だが、お飾りの妻であっても婚姻を結んでいる以上、彼女はルクテンバール家の人間だ。彼女の悪行はルクテンバール家の悪行。彼女の浮気、夫を裏切ったその所業が市井に伝われば間違いなく、ルクテンバール家の威権に傷が付く。それどころか敵対する貴族家に知られれば、弱みを握られ、一気に勢力図が傾く。そしてそこからどんどん今まで揉み消して来た不正などが芋づる式に暴かれてしまいかねない。
妻が既に「自分との子だ」と言い触らしてしまっているが故に、子供を堕すことは不可能だ。死産ということにする手も最初は考えていた。しかしルクテンバール家は医療関連の道にも通じている。大衆が待ち望んでいた赤子を死なせたとなれば、またルクテンバールの権威に傷が付き、更にルクテンバールと繋がりの深い医療者達に風評被害を与える可能性は十分にある。その為に築いて来た信頼関係が立ち消えになる可能性も考えられた。
故に腹の子を殺すことはできず、一目見ればすぐにルクテンバールの子でないことこでないことは看破されると分かっていても……ルクテンバール家はその子をこの世に産み落とすことを余儀なくされた。家の名を守る為、「仕方がなく」その子はこの世に生まれて来たのだ。
……それにより、子供を作ることで夫を引き留めるという母の目論みは無事成功したと言える。子供が生まれたことで、夫婦でなくなるだけの……ただの契約解消の離婚が母の行動により、「子供と女を野に放り出す悪行」へと姿を変えた。それによって父は、ルクテンバールの権威に傷を付ける可能性を持つ「離婚」という選択を永久に封じられることとなる。もし子供が「不慮の事故」で死亡した後に放り出せば傷心の妻を放り出す悪行、資金援助をしたとして妻との関係さえまともに築けない不器用者。彼は永遠に、自分を愛する狂人が暴走してしまわぬよう、屋敷の中で飼い慣らしていなければならなくなってしまった。
そこには少しだけ同情の余地があると言える。……元はと言えば、先に離婚すると告げているとはいえ夢見がちな人と婚姻を結ぶという思わせぶりなことをしてしまった彼が悪いのであって、自業自得ではないか、とも言えるが。
母はもう、狂い切ってしまっている。いつから狂い始めたのだろう。婚姻を結んだ時点では狂っていなかったのか、それとも秘めやかにそれは宿されていたのか。それはもう定かでないし、父に問うたところで一切の関心を妻に向けていなかった彼がそれを把握しているはずもない。…………そもそもシェリーとの対話の場に立ってくれるかどうかも怪しいが。
……彼女がもう正常な人間でないことだけは確かだ。正常な人間が、自らも妊娠の陣痛を味わうとは言っても苦心するとは言っても、利用する為だけに命を産み落としたりなどしない。彼女に、子供への愛はない。彼女にとって子供とは、愛する夫を引き留める枷でしかないのだ。母親は……女は、たった一人の男のことしか見てはいなかった。
そして父親は、血の繋がらない自分の子供を「一族を失墜させかねない悪であり渾沌の火種」として認識していた。愛など望むべくもない、明らかな嫌悪。子供の純真な瞳が灰色を宿していないのにも関わらず、彼女の姓が「ルクテンバール」であることを彼は心から憎んでいた。
そして少女が十になる頃、父親は初めて娘と眼を合わせる。少女は初めてその冷えた灰色に、自分の姿が映るのを見た。父親は、部屋の暖炉の火を消した。そして「座りなさい」と初めて少女に言葉を掛ける。だが、その意図は読み切れなかった。
叱責しようとしているのか、それとも楽しい話をしてくれようとでもしているのか、これからその薄い唇がどんな言葉を紡ぐのか見当も付かず、少女は父親の顔色を伺う。
次の言葉は、無かった。
父親は、少女の眼を抉り抜いた。麻酔も無しにだ。彼女は泣き叫んだ。人の心無きその非道に、血涙を流しながら叫び散らした。しかし彼はそんなことは気にも留めない。少女の感じる痛苦など、彼には関係がなかった。暴れる少女に煩わしげに眉を顰めると、無理矢理床に押さえ付けて止血処置を施す。そして彼は空洞になった目の中に、精巧に作り上げられたそれを押し込んだ。
灰色の瞳の、義眼だ。
彼は少女をルクテンバールの人間に擬態させ、お飾りの妻の不貞を揉み消そうとしていた。見るからに苛立っていたのは、本来ならば必要なかった筈の徒労を強いられたからだろう。妻の狂気など、彼の予定帳には刻まれてはいなかったのだから。
これでシェリー・ルクテンバールは、紛れもないルクテンバール家の人間となった。もうルクテンバールの名からは、逃れられない。嵌め込まれた灰色の瞳が、ルクテンバールの名を証明する鍵となる。母と偽りの父の間に生まれた子だと世間は疑いもしない。何故ならそこに、灰色の瞳という揺らがぬ証拠が存在するからだ。
しかし世間に対しての証拠があっても、ルクテンバール家の中ではそうではない。シェリーは他所者に過ぎず、ルクテンバールの血を継いでいないことは知られている。少女は不貞を働いた狂った女と、顔も名も知らぬ男の娘でしかない。
母さえも自分を見てくれず、憎まれはせど愛されることはない。裕福であっても、幾らそれが有ったとしても、冷たいコインは手のひらを温めない。欲しいのは、手のひらに重ねて欲しいのは、温かい誰かの手なのに。
誰であってもいいから、凍える灰色の空の下でもいいから、一度だけでもいいから、手を繋いで欲しいのに。
そう願っても誰もが彼女の手に触れるどころか、ルクテンバール家の親族は穢らわしい物のように扱って視界に入れることさえ嫌がった。そして事情を知らぬ人々も、誰一人シェリーという少女を見てはいなかった。誰もが「ルクテンバールの娘」という肩書きを目当てにやって来るのだ。そしてシェリーに気に入られることでルクテンバール家と懇意になり、その庇護を受けようと下心を抱えて、彼女の繊細な心に土足で踏み入ろうとする。
その猫撫で声が心底気持ちが悪くて、悔しくて仕方がなかった。周りの人々は、誰も彼もが残酷だった。彼女は幼くして、その猫撫で声越しに「お前は誰にも必要とされていないのだ」と罵られ続けたのだ。
その事実を拒もうと、勿論努力はした。習い事だって勉学だって常に一番を取って、寂しくても泣かずに良い子にしていた。欲しいものがあっても言わずに我慢した。とにかく愛されるように愛されるようにと、幼いながらも思いつく限り懸命に努力をしたのだ。
だがそれでも、一人も彼女に見向きもしなかった。どれだけ努力をして、一番を取っても「流石はルクテンバールの娘さんだ」と必ずルクテンバールの名を出して、全てがルクテンバールへの賞賛の材料にされた。寂しくても泣かず、我儘を言わずに居ることは、誰にも気付いてもらえなかった。誰も彼女を見ていないから、震える肩に手を添える者も居なかった。
彼女は、孤独だったのだ。
故に彼女は孤独を脱却しようと死を望み、これまで幾度も自殺行為を繰り返して来た。だがその行動の全ては先回りするように、専属のメイドと執事に防がれる。彼らがシェリーの全ての行動を見張っているが為に、彼女に死という自由は与えられない。シェリーが不自然な死に方をすれば、その監督責任はルクテンバール家に生じ、「娘一人守ることのできなかった領主」としてのレッテルを貼られる可能性がある。それは結果として、領民の不信感を煽ることになりかねない。それを恐れるが故に、シェリーの死は拒まれるのだ。彼女に与えられる自由はない。永遠と繋がってもいない血統に、蝕まれ続ける。シェリー・ルクテンバールの人生は、生まれた時からそう決められていた。
だからこそ、シェリーは誓った。
この血に抗うと。この血を絶やし、共に息絶え、ルクテンバールという悪習を滅ぼすと。父親の全ての望みを破結させ、無に還す。その途方もない挑戦の為に必要なものは、ただ一つ。喪った瞳を、取り戻すこと。
……遥か昔、祖先ペレシー・ルクテンバールは龍と盟約を結んだ。そしてその際、龍はこう言った。龍の血を得た一族が必ず迎える、「破滅の運命」それが訪れる時、もしそれを拒むのなら……。
山奥の龍に再び出逢い、「孤独なる青い瞳の子」の瞳を捧げよと。
破滅を運ぶのは、彼女である。彼女が十七になる頃、破滅は訪れる。その時に抉った彼女の瞳を差し出せば、きっと……。
ルクテンバールは、恒久の栄華を手にするであろう。
identity blood 刻壁クロウ @asobu-rulu
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