孵化
I have Butterflies in my stomach.
初めて彼女を見つけた日のことを、今でもよく覚えている。さらりとした内巻きのボブカットの隙間から見えるコーラルピンクの唇が、妙に艶めかしかった。子どもだった私は彼女の艶やかな蝶のような姿に、大人の女性への憧れを感じ酷く胸を高鳴らせていた。
彼女は少し前に東京からやって来た女性だった。もとはこの小さな田舎町で育って、東京で結婚していたそうだ。母や父は彼女のことを『デモドリ』と言っていたけれど、詳しいことはわからない。
ある日意を決した私は、初めて彼女を見た日から一カ月後に、つまらなさそうに店先の接客用のカウンターに腰かける彼女を見るためだけに通っていた洋品店に、やっと貯まったお小遣いをもって買い物に行った。初めこそ彼女は驚いて「お母さんか誰かのおつかいかしら」なんて言っていたけれど、財布を握る私の手を見て彼女は少し笑って。それから、「何かごよう?」なんて言って、少し冷たい指先でカウンター越しに私の頬を撫でた。
初めて買ったのは、子供のお小遣いでも手が届くキャラクターもののハンカチ。店先に並んでいるそこから適当に選んだそのハンカチをみて、彼女は少し息を抜いたように笑って「流行ってるのかしら」と言いながら『カサノ洋品店』と印字されたビニール袋に入れた。大きいもので一枚五円、小さいもので一枚三円。最近は近所のコンビニでも料金をとるのに、この洋品店はビニール袋の料金を取らない。はい、と手渡されたそれを持つと、私はお礼もそこそこに店を飛び出す。何故だか酷く胸がどきどきして、苦しかった。
「ねぇ? それもいいけど、こっちの方が似合うんじゃない?」
カウンター越しにそう声をかけられたのは、一カ月に一度の買い物が何度か経ってからだった。月に一度の買い物がしばらく続くとやがて彼女の中でも日常の一部になったようで、スカートやハンカチなど次第に私に似合うものを選んでくれるようになった。彼女が選ぶものは同年代の子供が持つものとしては少し洗練されていて、けれど過度に背伸びもしていないものばかりで。大人の女性に憧れる年代だった私は、それが堪らなく嬉しかった。彼女の選ぶものを身に付けていれば、ほんの少しだけ彼女に近付いたような気がしていた。
それから私は、あの日の自分の背丈を追い越してしまっても、周りの女の子たちが流行りの服を買うために都会へ行った話を横目に彼女のもとへ────"カサノ洋品店"へと向かっている。月に一度、お小遣い日に貰った1500円の入った財布を握りしめて向かうこの行為がいったいどんな感情から来るものなのか、私はまだわからない。
「ごめんください」
夏の匂いが充満して、酷く暑かった。今日の気温は三十度近くなると今朝のニュースで言っていたなと思いながら"カサノ洋品店"と入ったすりガラスの引き戸を開けると、その人は相変わらずつまらなさそうな表情でカウンターから「はぁい」と振り返る。初めて出会った時よりまた少し大人になった彼女の、変わらずに黒曜石のように光る瞳が私を捉えた瞬間、彼女はふわりと微笑んで「あら」とかたちの良い唇をきゅっと引き上げる。「いらっしゃい」と言う掠れた甘い声が少し脳を痺れさせた。
「一カ月ぶりかしら。もう夏休み?」「はい。この間通知表返ってきたの。お小遣い、マ……お母さんに貰ったんだ、……です」
そう言ってパンダのイラストが描かれた二つ折りの財布を彼女の目の前に出せば、彼女はくすりと微笑むと「そう、もうそんな時期なのね」と言って少し笑う。彼女の口元の
何がいいかしらねぇ、なんて言いながら店の中を歩く彼女の、こんな田舎には似つかわしくない洗練された後ろ姿を見つめながら、私は自分の胸がきゅうと締め付けられるのを感じた。
中学生になって少し経った頃から、彼女を見ると時々こんな風に苦しくなることが増えた。友達やクラスの男子には感じないのに、なぜか彼女にだけ感じてしまう不思議な感情。胸の裏側をくすぐられているような妙な心地良さと、わくわくした気持ちと、それとは正反対な痛みが混じって苦しい。それでもどうしてか、何となくその気持ちを彼女に伝えたらいけないような気がしていた。この不思議な関係が、私の一言で壊れてしまうような気がしていたから。
「ね、こんなのどう?」「……っ、あ、はい」
髪留めを持ったまま振り返った彼女の声に慌てて顔を上げると、私は慌てて彼女の方へと駆け寄る。子どもっぽいキャラクターもののTシャツが、風を受けて微かに膨らんだ。
「どう、ですか?」「似合うわ。可愛い」
鏡の前で後ろからそっと髪留めを私の髪にあてる彼女にそう問いかければ、艶めいた唇から零れるのはいつもと変わらない返答で。それに無意識に熱くなってゆく頬を誤魔化すように「いつもそればっかり」と憎まれ口を叩いてしまえば、彼女は鏡越しに微笑みながら「本当のことでしょ」と言った。
「私は可愛くなんかない、……です」
小さく呟いた言葉は、予想以上の重さを持って私の心にのしかかってくる。可愛くなんかない、忌々しいくらい自分は不細工だと言う思いが心に染み込んでいく。ずっとそう思ってきたから、もう染みは擦ってもとれなくなってしまった。見えないように上から違う色で覆い隠してしまわない限り、私のこの思いはきっといつまでも残り続けていく。
鏡に映った自分の皮肉げな笑みが、やけに不細工で目をそらした。するとそらした先にはコーラルピンクの形のよい唇があって、その唇は私の思いとは対称的に優しげに弧を描いている。
「自分のことが嫌いなのね、あなた」
優しく吐き出された言葉は、ほんの少しだけ笑っているみたいだった。澄んだふたつの瞳が、まるで私を見透かすように見つめている。私は急にバツが悪くなって、彼女の足をみて、壁の古ぼけた体操着のサイズ表をみて、そうして最後に彼女の顔をみた。彼女はその間も酷く穏やかな笑みを崩さないまま、私を見つめている。少し拗ねたような、それでいてどこか気恥ずかしいような気持ちで吐き出した私の言葉を聞いて、彼女は少し驚いたような、あるいは少し楽しんでいるような不思議な表情をして「そう」と呟いた。どうしようもなく落ち着いた大人の女性の声。全てを見透かされているかのような彼女の目に安心とどこか居心地の悪さを感じていると、不意に近付いてきた彼女が、私の背中から腕をまわしてきゅっと柔らかく私を抱き締める。ほんの少し甘い花のような香りが柔らかく鼻腔をくすぐって、そんなことに酷く胸が高鳴った。
「……ね、怒ってる?」
少し低い甘い声で耳元で囁くように言われた言葉に、自分の体温が全て頬に集まってしまったのではないかと思うほどの熱を感じた。慌てて首を振ると、彼女は「よかった」と柔らかく囁いて小さく息を吐く。顔を赤らめたまま思わず固まってしまった私を見て、彼女はくすりと笑うと不意に真顔になって「ねぇ?」と鏡越しに私を見つめて「夏休みっていつまで?」と、その長く綺麗な指の腹でそっと私の髪留めを撫でた。
「え、っと、八月二十五日まで」「そう、エアコンが入ったから少し短くなったのよね」
彼女は私の返答を聞くと、くすりと笑って私の髪を耳にかける。剥き出しの耳に、少し冷たい指先が触れた。
「ね、じゃあこれ、夏休みの間は取っちゃやぁよ?」
柔らかく息がかかる耳が、少しずつ熱を持っていく。心臓が酷く苦しくて、私は熱を持つ頬を誤魔化すように顔をそらした。
「……あの、近い、です」「ふふ」
私の言葉を聞くと、彼女はくすりと笑って「それ、買ってく?」とレジに向かう。離れていく熱を惜しく思いながら、私は熱を持った頬を誤魔化すように「はい」とレジへと向かった。
「名前はなんて言うの?」
髪留めを直しながら言われた言葉が自分に向けられていることに気付かずに「え」と聞き返せば、彼女はセロハンテープで包装紙の切れ目を留めながら「お名前」と柔らかく笑う。
「いつも、月に一回買いに来てくれるでしょう? お得意様のお名前は知っていたいもの」
いつも買いに来てくれるのにいやぁよねとコーラルピンクの形の良い唇が、きゅっと三日月のように上がる。酷く騒がしくなる心臓に蓋をするようにたどたどしく自分の名前を口にすれば、彼女は「可愛い名前」と言うと「ふふ」と小さく笑う。じゃあと呼ばれた自分の名前が、酷く特別なものに思えてきて、私は熱くなる頬を誤魔化すように下を向いた。
「……お姉さんの、名前は?」
小さく呟いた私の声に彼女は一瞬だけ驚いたような表情で私を見ると、酷く艶やかな笑みを浮かべて私を見つめる。口元の黒子が少しだけ動いた。
「内緒」「……"カサノ"じゃないんですか」
少し拗ねたような自分の声に酷く子供っぽさを感じてしまえば、彼女は「あぁ」と小さく声をあげると「私、カサノじゃないのよ」と言って、小さく笑った。
「────知りたい?」「え?」
彼女はレシートを切って寄越すと、私を見透かすように見つめる。黒曜石のような瞳が、悪戯っ子のように瞬いた。
「私がどんな人間なのか────知りたい?」
彼女の瞳がこちらを試すようにすっと細められる。私はそんなことに酷く胸がどきどきして、口をはくはくと金魚のように動かしては黙り込んでしまう。壁にかかった古ぼけた時計がこちこちと音を立てて、蝉の声がやけに五月蠅かった。
どれくらい時間が経っただろうか。しばらくしてから、彼女はふっと笑ってありがとうございました、と会話を打ち切る。私はのろのろとお辞儀をすると、くるりと踵を返した。
────また来月ねと彼女が呟いた声が、やけに耳に残っていた。
「カサノさんとこ、娘さんが帰ってきてんだってね」「やっぱりご両親だけじゃ大変なんでしょう」
その日の夕食の時間、バラエティー番組をぼんやりと見ながらコロッケを口に運んでいた私の耳にそんな言葉が飛び込んできて。思わず母の方を見ながら「あの人ってどういう人なん?」と尋ねれば、母はコロッケを口に運びながら「さぁ」と首を傾げた。
「昔は東京で働いてて、あっこで結婚してたって聞いたことあるけど、詳しいことはわかんないな。ママもあんまり行かないし。でも綺麗な人でしょ? だからみんな勝手なこと言っちゃってねぇ」「……結婚?」
復唱すれば、ママは「うん」と短く答えて「一回だけ見たことあるけど、キレーな顔の旦那さんよ。あの、なんだっけ俳優の鈴本?とかいう人に似てる」と言ってテレビに視線を移す。強制的に終わってしまった会話に、私はなめこの味噌汁を啜る。味噌汁に彼女が選んだ髪留めが映り込んで、ゆらゆらと揺れていた。
それから彼女に会う月末まで、私の頭の中にはママの「結婚」という言葉が残っていて。私は布団の中で彼女のことばかり考えていた。
(……結婚、くらいしてるよね。あんな大人の人なら)
時々遠くを見つめる儚げな視線を思い浮かべながら、私は彼女が選んでくれた髪留めをそっと指の腹でなぞった。
八月三十一日。私は部活動から帰ってくると、あのヘアピンで前髪を止めて、お小遣いの入った財布を持って制服のままカサノ洋品店へと向かう。キコキコと鳴る自転車と焦げたアスファルトの上で、夏の情動が陽炎のように揺らいでいる。
考えていたのは、一ヶ月前の母との会話だった。彼女に聞きたくても、お小遣いがない状態で彼女に会いに行く勇気はなかった。真実を知るのが怖かったのか、それとも間が持たないから行けなかったからなのかはわからない。それでもいつもなら楽しみで仕方がないのに、あの話の後からお腹の中で蝶が舞うようなわくわくした気持ちは萎んでいて、その理由が私にはわからないままだった。
「……ごめんください」
『カサノ洋品店』のすりガラスを開けると、彼女は相変わらずつまらなさそうな表情でそこに座っていて。やがて私の姿を捉えると、あの黒曜石のような瞳を美しく瞬かせた。
「いらっしゃい。1ヶ月ぶりね」「……はい」
そう言いながら椅子から腰を浮かせた彼女にそう答えると、少しちくりと胸が痛んだ。
「今日は────」
彼女は私の方を見ると、不自然に言葉を区切る。戸惑ったような表情で私を凝視する彼女の視線を不思議に思って思わず壁際の鏡に視線を向けると、私の顔は酷く強張っていて。彼女が戸惑ったように私の名前を呼ぶことも、いつもなら酷く楽しみなはずなのに。それなのに、どうしてか今日はうまく笑えない。1ヶ月に1度しか会えなくて、少しでも彼女に近付きたくて、だから今日も彼女に私のものを選んでほしかったのに。
────昔は東京で働いてて、あっこで結婚してたって聞いたことあるけど
彼女は戸惑ったように、ゆっくりとカウンターから出てこちらへと近付いてくる。憂いを帯びた整った顔が、心配そうに私を見つめている。
彼女のことを、私は何も知らない。東京でどんな暮らしをしていたのか、どうしてこんな田舎に来たのか、────結婚をしていたのは、本当なのか。それを知っただけで、どうしてこんなにも息が苦しいのか。初めて息をしたときみたいに、酷く苦しくて堪らないのだ。
彼女の冷たくて綺麗な手が私の頬を撫でる。それは恋なのか、それとも親愛なのか、はたまたこの行為に意味なんて最初からなかったのか、子供の私にはわからない。ただひとつ言えることは私はこの行為が堪らなく好きで、そして今堪らなく苦しいと言うことだけ。
戸惑ったように私の名前を再度呼ぶ彼女の手を取ると、私はその手を両手で握る。離されないようにきゅっと握ると、私はまるで祈りでも捧げるような気持ちで口を開いた。
「────教えて」
ゆっくりと吐き出した言葉を聞いて、彼女が戸惑ったように目を揺らす。お腹の底から沸き上がってくるような酷く形容しがたい感情が、少しずつ私を蝕んでいく。
「あなたのことを教えてください────"カサノさん、あなたは誰?"」
私の言葉を聞いて、彼女は少しだけ驚いたように目を見開いて。それから、黒曜石のような瞳を三日月形にしてふっと笑った。
「……あのこと、気にしてたの?」「はい」
彼女の指す"あのこと"とは、恐らく自分がどんな人間なのかを知りたいかと言う問いのことだろうと見当をつけて頷けば、彼女は少し考えるように口元に手を当てる。それから、ふっと私を見透かすように目をすがめて、「ふふ」と笑った。
「こわぁい顔。かわいくて、食べちゃいたいくらい」
そう言いながら私の手からするりと逃げようとする彼女の手を、私はぎゅっと握る。離されないように、彼女が望むのなら頭から食べてもらえるように。
蛹から出たばかりの蝶のように、彼女のことを知りたくて堪らない。彼女が望むのなら、頭から食べてもらいたい。彼女の胃の中で、飛び回っていたい。この苦しさと相反する胸のくすぐったさにどんな名前がつくのかはわからないままなのだけれど、少なくとも以前よりは私は彼女に対する自分の思いが少しだけ変わっていることに、私は気付き始めていた。
彼女は相変わらず、何を考えているのか読めない表情で私を見て。それから、口元をふっと綻ばせる。どこか喜びを感じているような、それでいてどこか残念そうな不思議な表情だった。
「……今日は、何か買っていく?」
彼女の言葉にぴくりと肩を動かせば、彼女は笑みを崩さないまままっすぐに私を見る。私は少し考えてからゆっくりと首を縦に振ると、彼女は髪留めの棚に向かっていく。私は彼女の背中を慌てて追いかけると、彼女は棚からいくつかの髪留めを持ってきて私につけると「これが一番よく似合うわね」と言って、ふっと笑う。私の髪についている、以前彼女が選んだ髪留めをそっと指の腹でなぞると「それ、買っていく?」とこの間のように私に尋ねる。私はパンダの財布を握りしめたまま頷けば、彼女はカウンターに向かって歩いていく。その後ろ姿は相変わらず綺麗で、私は慌てて彼女を追いかけた。
包装紙に髪留めを包む間、彼女も私も無言のままで。頬を汗が伝っていくのを感じながら壁にかかった体操服のサイズ表をみていれば、不意に二人きりしかいない店内に「私の何が知りたいの?」と柔らかい声が響く。遠くで不要品回収業者の自動音声が流れたトラックの音が聞こえていた。
「……いくつまで、教えてくれますか」「やぁだ、そんなにたくさんあるの?」
彼女は思わずと言った様子でくすりと笑うと、テープで包装紙の切れ目を留めながら「そうね」と言い、小さく笑った。
「ひとつお買い上げごとに、特典として私の情報ひとつ────ならどう?」
そう言ってこちらを見た彼女に少し頷きながら、私はずっと考えていた思いを口にした。
「私が毎月毎月あなたに会いに来るのは、あなたに会うと胸がくすぐったくて苦しくなるのは、恋ですか?……それとも、単なる憧れですか?」
私の問いに彼女は少し驚いたように目を見開くと、ふっと笑って。私に袋に入った髪留めを手渡しながら、笑った。
「────そうね、それは孵化じゃないかしら」
彼女はそう言うと、「お買い上げありがとうございます」と言い、会話を打ち切る。後に残った私は、胸のくすぐったさだけを静かに見つめていた。
孵化 @karapp0_
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