第56話 治癒師の本分―お祖母様の夢―
「医療が……理不尽?」
お祖母様の口にした言葉の意味を図りかねて、私は首を傾げました。
「そうよ。人はね、絶対に病にも死にも勝てないの。だから技をもって病を癒す医療とはもともと理屈に合わない行為なのよ」
病も死も人に必ず訪れる理不尽……だから、それと向き合う医術とはなべて理不尽なものなのだとお祖母様は仰いました。
ですが、まだ幼い私にはお祖母様の言葉の真意を理解できそうにありません。
「だから、治癒師の使命は患者を安んずる事なのよ。それは患者やその家族が病という理不尽によって不安と苦しみの中にあっても平安を与えてあげる……最初から勝てる筈のない相手と向き合わせる理不尽なものなの」
母娘の姿が視界から完全に消えると、お祖母様は私へ慈しむ瞳を向けたのです。
「それじゃあ私達の治療は意味がないの?」
私にはどうしても納得がいきませんでした。
「いいえ、無意味ではないわ」
先ほどまで子を亡くした母親を支えていたお祖母様の優しい手が、今度は私の頭を愛おしそうに撫でてくれる。
「確かにあの子の命は助けられなかったけれど、その苦痛は幾分かやわらげたでしょう?」
死に際の娘の荒く喘いだ呼吸が、痛みに歪む苦悶の表情が、お祖母様の薬と手当てで緩和され、彼女の死が安らかなものに変わったのを私も見た。
「その分だけ母親も苦しみから救われたのよ」
「それは……だけど、あの人は取り乱して喚き散らしていたわ。それに、散々お祖母様に酷い言葉をぶつけた!」
救われたと言うのなら、どうしてあの人はお祖母様を責めたの?
どうしても私にはお祖母様の言う事に納得がいきませんでした。
「彼女が本当に責めていたのは私ではないの――」
だけど、尚も不平を口にする私に対してお祖母様は怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ教え諭そうとするのです。
「――人はね感情を持つ生き物なの。愛する者が傷つき死に別れた時に己の無力を呪い、何かを責めずにはいられない」
私はじっとお祖母様を見上げ、その言葉を咀嚼しようとしました。
「だけど、それは向かうべき先のない感情……だから、患者もその家族も余計に苦しんでしまうの。私達はそれを治療という行為で慰めてあげられるのよ」
「でも、あの人は誰もが見捨てた子の治療をしたお祖母様を責めたわ」
ですが、やはり私はどうしても納得出来なかったのです。
「そうね……初めての患者だったから、私の言葉は届き難いものね」
そうよ。
私の髪や瞳の色を物差しにするような人達に言葉は届かない。
何をしても、そんな人達が私を理解してくれる筈もないのよ。
「でもねトーナ。相手に理解だけを求めてはいけないわ。真実と向き合うのはとても勇気がいるものなのよ」
どういう事?
責める相手を許さないといけないの?
「その為に治癒師がいるの。彼らに理不尽と向き合う手助けをするのが私達のするべき事なのよ」
「それじゃあお祖母様が責められるのも必要な
「そうね、信頼関係があれば違ったでしょうけれど……」
「信頼関係?」
「そうよ。患者と治癒師との間に信用と信頼があれば、彼女は最初から不安や絶望の中にはいなかった……もっときちんと娘の死と向き合えたのよ」
だから治癒師は治療を通して信用と信頼を積み重ねないといけないのだとお祖母様は仰るけれど……
「だけど信用や信頼はお互いの歩み寄りによるものではないの?」
信頼関係はお互いの心と心の結びつき。
片側だけが歩み寄っても成立しない。
「その通りよ。トーナは本当に賢いのね。でもね、相手が歩み寄ってこないからと言って諦めてしまったら、関係を築く機会さえ無くなってしまうものよ」
もしかして、お祖母様には最初からあの母親が取り乱し、非難してくるのだと分かっていたの?
「いつかトーナにも分かる日がくるわ」
続けて口にしたお祖母様の言葉は今でも鮮明に覚えています。
診るべきは病ではなく人なのだという本当の意味が…薬師のまっとうすべき本分が……
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