第30話 灯火―常闇の魔女―
「お待たせしました」
「布はこれでよろしいでしょうか?」
ハル様は大きな
ソアラさんから手渡された篭の中には清潔な布がたくさん入っており、ハル様が下ろした大きな甕の中に並々と湯が張られているのを覗いて確認しました。
「お二方ともご足労おかけしました。この布なら十分に清潔で問題ありません。お湯も当面の量として不足はないでしょう」
「湯はこれから定期的に料理人達に沸かすように頼んできました」
ハル様はとても気が利きます。
さすが二十代半ばの若さで騎士団の副団長に抜擢される方です。
「ありがとうございます」
一つ礼を述べてからハル様が置いた大きな甕から
片方へ先ほど正確に量っておいた塩を、もう片方へは同様に塩に加えたものに砂糖を投入して攪拌する。
更に最大目盛りまでお湯を追加し、かき混ぜて溶質を均一に溶かせば完成です。
「それは何の薬なのです?」
たっぷりと湯を注いだ器に塩や砂糖を加えていると、後ろからソアラさんが問い掛けてきました。
それらを娘のメリルさんに服用させず、なみなみ湯を注いだ器に溶かし込んでいるのを不思議に思ったのでしょう。
「まあ、薬にもなりますが……こちらは食塩で、こっちが砂糖ですね」
「えっ、塩水と砂糖水!?」
正確には生理食塩水と、その生理食塩水と糖液の混合液です。
「娘を治療してくれるのではないのですか!?」
あまり時間に余裕がなく、急いでいた私が説明をついおざなりにしてしまったのが良くなかったのでしょう。
「
「あっ!」
怒り出したソアラさんがいきなり背後から肩を掴み思いっきり揺らしてきたので、私が手にしていた器から大量の生理食塩水が溢れ落ちてしまいました。
はぁ……
また作り直しです。
内心で嘆息しながら私は生理食塩水を作り直す作業に取り掛かったのですが、それを見咎めたソアラさんの怒声が止まりません。
「どうしてそんなものを作っているのです!?」
「これらは傷の洗浄と脱水の補正に必要なものなのです」
手を止めず相手の顔も見ずに説明する私の態度は褒められたものではありませんが、いちいちソアラさんの邪魔が
「塩水で傷口を洗うなんて!?」
「落ち着きなさい」
悲鳴にも似たヒステリックな金切り声を上げて掴み掛かってきたソアラさんとの間に、ハル様が割って入ってくださいました。
危うく新しく作った生理食塩水を溢さずに済みました。
ほっと安堵です。
「ソアラ殿、今は一刻の猶予もないのです。ここは黙ってトーナ殿の指示に従いましょう」
「で、ですが……」
「あなたはトーナ殿に治療を頼んだのだ。それなのに、信用せず邪魔ばかりするのでは彼女も治療に専念できない」
「そ、それは……しかし、この魔女がメリルに塩水を……」
――魔女
またもや耳にする言葉に気持ちが沈む。
その言葉を口にして、誰もが私を拒む。
私は魔法なんて使える筈ないのに……
私は誰も呪った事なんてないのに……
この黒い髪がそんなにいけないのですか?
この赤い瞳がそれほど悍ましいのですか?
私は魔女で、信用に値しない人物ですか?
それなら、どうして私に頼んだのですか?
魔女に由来する闇夜の如き暗い記憶が私の胸に波の様に去来して、感情の色がどす黒く染まっていく様に思われました。
沸騰したお湯から発生した蒸気が蓋を内から激しく押し上げているみたいに、奥底に隠していた私の闇が新たな闇を生じて心の蓋を破ろうとしているのです。
もう駄目……
これ以上は無理……
耐えられそうにありません……
血の気が引き、思考が上手く回らず、仄暗い思考に囚われて、私の心は恨みと憎しみに支配されていきました。
口がぱくぱくと動いて、私は音にならない心の叫び声を上げました――
そんなにあなたが私を魔女と
ならば治癒師ではない私にはあなたの娘を治療する
無意識に強く握った私の拳が小刻みに震えていました――
その拳に握られているのは怒りでしょうか、悔しさでしょうか?
それとも、変えられない現実に対するやるせなさでしょうか?
私の全てが闇へと堕ちていく中で、強く握った手が急に温もりに包まれて、ぽっと光が
――《用語解説》――
【輸液】
輸液とは人体に直接水分、電解質、薬剤などを入れる為の液剤を指します。
トーナが用意したものは生理食塩水(0.9%食塩水)の他に、生理食塩水と5%ブドウ糖液を半々に混ぜた1号液です。
本来は直接静脈に点滴するもので、経口で摂取するものではありません。これに状況に合わせてカリウムを混ぜようとトーナは考えているようです。
輸液には低張電解質輸液の1~4号液の他にもリンゲル液(乳酸、酢酸、重炭酸と種類があります)、生理食塩液、各種濃度のブドウ糖液、アミノ酸輸液など様々な種類があり、それらを駆使して治療を行っています。
救急の現場では、この輸液が治療にとても重要な役割を持って行ます。
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