第33話

 一番古い記憶は、汚い部屋の中で座っているものだった。

 くすんだ壁に、どうしてもしっかりと閉まらない窓、歩くだけで軋む床。

 夏は汗だくで意識が朦朧とし、冬は隙間風のせいで凍えている。中途半端に綿わたが抜けてしまった掛け布団を被って過ごしていた。

 どんな季節だろうと、自分の姿勢は変わらない。六畳間の、ところどころささくれ立った畳の上で、膝を抱えて丸まっている。季節による違いは、掛け布団を被っているか否かくらいしかない。

 服はサイズが少し大きいので、そですそを数回折り返して着ている。

 ひとりで外に出てはいけないと言われているので、毎日天井の模様を見て、何に見えるのか考える遊びをしていた。動物は犬と猫とねずみくらいしか知らなかったので、四足の動物に見えたら「大きければ犬で少し小さければ猫。すごく小さければ鼠」なんていう馬鹿げた思考をしていた。

「ただいま、●●……」

 朝になると、女の人が――お母さんが帰ってくる。夜の間に帰ってくることもあるけど、朝が多かったと思う。

 赤いキラキラした服の印象が強かった。ガサッ、と何かが置かれる音がした後、お母さんは派手な服のまま、部屋の中で敷きっ放しのペラペラになった布団の上に倒れるように飛び込み、そのまま眠りにつく。

 本当は一緒に外に遊びに行きたいけど、口に出すと怒られてしまうので、何も言わない。

 玄関に近づく。膨らんだビニール袋が置いてある。さっきのガサッて音の正体だ。

 お弁当が四つ入っている。今日と明日の、だ。

 そのままひとつ取り出して、冷たくなったご飯を食べる。温められる家電はここにはない。はしもうまく使えないので、いびつに割れてしまった割り箸を逆手に握ってお弁当に手を付ける。

 お肉が入っているが、すぐに飲み込まない。ずっと噛み続ける。噛み続けていると、お腹が減りづらいと気付いたので、ずっと噛み続けて、七まで数えて、それを七回続けて、何回数えたかわからないくらいまた七まで数えて、よくわからなくなってからごくりと飲み込む。

 昼を過ぎると、お母さんはのろのろと起き出して、お風呂に入ってからお化粧して、お弁当を食べる。テレビなんてないから、部屋の中の音は微かな咀嚼音だけで、音を立てることがすごく悪いことに思えたのでお弁当のお新香しんこすら噛むことを躊躇ちゅうちょする。あまり好きではないけど、食べる物がこれしかないから食べるしかない。「好きじゃない」って言った時のお母さんの悲しそうな表情を、もう見たくないから。

 普段からそう。

 自分の発言が、自己主張が、お母さんの負担になるとわかっているから、何も言わない。美味おいしいと笑うことも、お腹空いたと悲しむことも。ありがとうと感謝することすら、お母さんが悲しそうな表情をするからやめた。「ごめんね、バカなお母さんで。●●、ごめんね」と、泣きながら抱きしめられた時には、幼心に自分が何か言ってはいけないことを口にしてしまったのではと、原因はわからないが後悔した。

 そんなある日、外に出かけることになった。

 日中に出かけるのは、記憶にある限り初めてかもしれない。

 四月半ばを過ぎて、桜はもう散ってしまった時期だった。

 お弁当も作ってくれた。

 具のないいびつなおにぎりと、切れ目が雑な、焼いたウィンナーだけのお弁当。

 今ならわかる。料理もろくにできない、二○代前半の不器用なお母さんが、一生懸命作ってくれたものだ。

 毎日水商売とスーパーのパートの掛け持ちで疲弊していたお母さん。

 一〇代半ばで身籠った赤子を、誰にも頼れずに産んで、見殺しにすることもできず、戸籍なんて概念が抜けていた学生。

 よくわからずに作った借金の返済に追われながら、常識のなかった自分の落ち度や罪、その象徴たる子供を視界に収める度、お母さんが抱いたのは責任感と憎悪、どちらだろうか。

 あのウィンナーは、日々貰ってくる廃棄弁当と同様、賞味期限が近い廃棄品だったはずだ。それを『タコさん』にしようとして、失敗して、不格好になった。

 お弁当は、近所の公園のベンチに座って食べた。

 お母さんは、濃い隈のある目で笑ってくれた。それに、自分も笑顔で返す。

 嬉しかった。笑ってもいいのだと、今日はお母さんに笑いかけて、笑ってくれて、話をしてもいいんだと、ただそれだけが嬉しかった。

 おにぎりは少し硬かったけど、なんとなくお母さんの手の温もりが伝わっている気がして、食べていてとても嬉しかった。ウィンナーも、焦げていたけど美味しかった。笑顔を向けてくれるお母さんの唇が細かく震えていたけど、あれはちょっと寒いだけなのだろうと、特に気にはしていなかった。

 ブランコに乗って、滑り台を何往復もして、本当に、年単位で、久々に笑顔を出せたと思う。

 どれだけ時間が経ったか、突然お母さんから手を引かれた。

 次はどんな遊びをしようか。

 そんな期待に満ちた目で見上げたところ、お母さんの表情は打って変わって悲しそうだった。唇を引き結んで、泣きそうになっている。家の中で見る、話しかけたときに見せる表情そっくりだ。

 公園に、黒くて大きな車が横付けされた。

 お母さんはその車に向かって歩き始め、自分も手を引かれる。

 そのまま、後部スライドドアから車に乗せられた。どうやらお出かけはまだまだ続くようだ。次はどこに行くのだろうと、内心わくわくする。

 車にはスーツを着た男二人が乗っているが、二人とも知らない顔だ。というより、自分にはお母さん以外の人間に知り合いなどいない。

 助手席に座る男がお母さんに封筒を渡している。ペラペラの封筒だ。お母さんは封筒を受け取り、胸に抱く。封筒がクシャッと歪んだ。

 当然、自分の後からお母さんが乗るのだと思っていたが、まだお母さんが乗っていないのに、ドアが閉じられて車が発車してしまう。

 突然のことに反応できない。

 後ろを振り返るが、お母さんは唇を引き結び、封筒を握り締めたまま俯くだけだ。

 訳が分からず、しばらく呆然となる。

 そして、お母さんがすごく遠くに行ってしまう気がして、車の中で騒ぐが、男二人は意に介さない。

 しばらくして車がビルの中に入っていくと、そこからの記憶は曖昧になった。

 毎日、同じようなことの繰り返しで、痛くて、騒いで、発狂して。

 そんな地獄のような日々が、その日から始まることになった。

 

 親に捨てられた。

 そんな訳ない。


 そう思うこともほんの数週間で終わる。

 新たな居場所は、まともに思考していられるほど、生半なまなかな環境ではなかった。

 正気を保つには、感情を持つということが余りに無謀で、無意味で、無価値であると、自分――朝桐刀弥A一〇八は気づいた。


『ごめんね、●●』


 不意に、名前を呼ばれる。

 そういえば、自分はなんと呼ばれていただろうか。

 

『●●、――』


 もう、そう呼ばれるよりも、A一〇八と、朝桐刀弥あさぎりとうやと呼ばれることの方がしっくり来る。それくらい、本名に馴染みがない。


『あ――り―――ん』


 耳元で、声がする。


『――ち――』


 これは、なんだ?誰だ?誰を――



『朝桐君っ!』

『あーちゃんっ』



「—―っ」

 刀弥の意識が瞬時に回復する。

 インカム越しに聞こえる少女二人の声に、朦朧としていた意識が覚醒する。

 調理場が崩壊し、瓦礫に埋もれた状態の自分の現状を認識する。

 先ほどまでの夢幻の中とは打って変わり、瞬時に切り替えられた思考が、自分の位置と体の状況を把握しようとフル回転する。 

 二メートルの瓦礫の山、その中央に、刀弥の体が埋まっている。鳩尾みぞおちまで瓦礫に埋まっている。右腕は動く。左腕はどこかに引っかかっている。がちがちに体が嵌まっているわけではなく、もがけばどうにか這い出ることができそうだ。

 何が起こったかを冷静に思い出す。


 一〇〇〇キロ近い重量の変異体による落下によって崩壊する調理場。

 大きく開いた窓枠のようなスペースから外に跳び出せばギリギリ間に合う。

 だが、刀弥はそれをせずに、シンク下に丸まっている少年の腕を掴み、細い胴を抱え、外に投げ飛ばした。

 低い軌道でゴロゴロと転がる少年。全身擦り傷だらけになるだろうが、圧し潰されるよりはマシのはずだ。

 だが、その代償として、刀弥は逃げ遅れる。

 少年を投げ飛ばしたルートは、すでに塞がれている。

 唯一の脱出口と見たのは、破壊の頂点。天井だ。

 端から崩れていく支柱とはり、屋根部材の落下の様、その隙間を縫うように、調理台の上に上がり、床にもたれた梁を足場に跳躍し、針に糸を通すように崩落の隙を駆け上がる。選択を一つ間違えば即圧死という状況の中、結果的には崩落による死からは逃れることができた。変異体が屋根に着地した後にすぐ跳び去ったことも大きい。


 だが、状況回避しただけで、危機的状況はまだ脱していない。


「グルルル――――」


 三メートルを超える巨大変異体が、その頭部が、ほんの一メートル先にあった。

 口臭なのか体臭なのか、刺激臭が鼻を突く。


 目が合う。

 充血した目が、月夜の中で刀弥を捉える。

 変異体からすれば、今の刀弥はまな板の上の鯉。

 あと一歩踏み出し、その口を開けて、キリンのように長い首を下ろすだけで、刀弥の首から上を口内に納められる。そんな位置で、刀弥は瞬時に動くことができない。

 サバイバルナイフは先の跳躍で取り落とした。

 拳銃は胸のホルスターの中で、すぐには取り出せない。

 瓦礫の中から抜け出すのに、最低でも一○秒は必要だ。


 変異体のキリンのような長い首、その先にある口が、大きく開かれる。

 涎を垂らしながら、血肉に汚れた乱杭歯を剥き出しにする。

『朝桐君っ!』

 インカム越しに聞こえる天音あまねの焦燥の声。

 あまりにも無力で、ただ見ていることしかできないと、落ち着きない同級生の声に、しかし刀弥は何も応えることができない。

 状況を脱する情報がない為に黙っている観生みうからは、何もない。

「詰んだな」

 冷静に、他人事ひとごとのように、刀弥は呟いた。


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