第20話

 暗い。

 視界は真っ暗で、その中に立ち尽くす。

 自分の体だけは足先まで鮮明なのに、自分以外は全てが黒一色。


 ポチャン――


 水滴が、水面に落ちる音。


 ポチャン――、ポチャン――


 何滴も落ちる雫が、しんと静まり返った世界に、ただ一つの音だけがある。

 

 振り返る。

 黒い。


 ポチャン――


 水音は止まない。

 何気なく、首を上に向ける。


 グゥゥゥ――――


 割り込んできた、獣の唸り声。

 黒の中に、白が浮かび上がる。

 母の顔と、腕と、脚。

 腹を起点に体を逸らした体勢から、


 バリグゴリギュグブチュゴグリュ――――


 母の『上』と『下』がバラバラに落ちる。

 顔が向けられ、目が合う。

 口が、はきはきと動く。


「イタイヨ、アマネチャン」


 目を見開いた母が、血を吐きながら、その血を無視したはっきりとした活舌で。


「オカアサン、タベラレチャッタ」






 ゆっくりと、天音あまねは起き上がった。

 暗い室内。見慣れない部屋。

 記憶が混濁する。

 

 ポタリ――

「ひっ――」


 水音に、反射的に息を詰まらせる。

 キッチンのシンクに蛇口から滴る水滴の音だったが、鮮明な記憶と結びついて思わずビクリと反応してしまう。

 身動きが取りづらい。当然だ。寝袋に入っているのだから。

 壁掛けの時計を見る。

 午前一時一五分。

 悪夢にうなされて深夜に目覚めた。眠れるだろうかと不安に思っていたが案外問題なく――とはならなかったようだ。眠れても夢のせいで目覚めてしまうのだから、間違いなく精神的に参っている。母の無惨な死を目にして、自身も死の危機に瀕したのだから当然だ。

 それでも、少しでも眠れたのは、刀弥とうやとのやりとりがあったからかもしれない。本当にあの朴念仁は…、と思いながら、寝袋から這い出る。

(水……)

 あれだけ水音に怯えていたのに、喉の渇きを覚えて起き上がる。

 胃がムカムカする。

 一歩踏み出す度に、胃を内側から撫でられているような不快感を覚える。

 キッチンに辿り着いた頃に、とうとう不快感が一線を越え、胃がうねったような感覚と喉が焼けるようなそれが強くなり、

「うぅっ」

 口内にせり上がってきたものを堪えながら、慌ててトイレに駆け込んだ。

 吐瀉物は、ほとんど液状で、量も大したことがなかった。



 翌朝、天音はむくりと起き上がった。

 朝日が窓から差し込み、リビングの端の寝袋、その上に横になっていた天音を照らす。パチパチと音が鳴っている。今度は何の悪夢だろうか。そう思ったが、この音は現実だ。

「起きたな」

 刀弥は気配でも察したのか、寝起きの同級生に声をかけた。

 それと重なる冷蔵庫をバタンと閉める音。

 ゴポゴポと音がするのは電気ケトルだろうか。

 パチパチという音は、何かを焼いている?

 そこまで考えて、天音は自分が寝起きであると思い出し、慌てて顔を伏せて洗面台へ向かう。

 どうやって眠ったのか、よく覚えていない。気分はいいとは言えないが、昨夜あった胃の不快感は、そこまで強くない。

 鏡を見ると、げっそりとした自分の顔にうんざりする。背中の半ばまである寝癖のある髪のぼさぼさ具合が、余計に気落ちさせる。ブレザーこそ脱いでいるが、制服のまま眠ったため、白いワイシャツも膝丈のスカートも皺だらけだ。

 同級生の男子にこんな様を見られた羞恥と、自分の境遇の悲惨さがないまぜになって、思考を掻き乱す。


 取り急ぎヘアバンドで髪を纏めてリビングに戻ると、テーブル上には二人分の茶碗や皿が並んでいた。

 ご飯に味噌汁、焼き鮭、ほうれん草のおひたし。

「……え?」

 目の前の光景が理解できない。

 え、これ朝食?誰が作った?朝桐君?

「食欲は?」

 混乱する天音をよそに、刀弥は椅子に座る。

「あ、うん、いただきます……」

 つられて椅子に座り、天音は味噌汁に手を伸ばす。

「……あったかい……」

 喉を通る心地よい温度が胃に優しく染み込む気がして、空腹が蘇った。

 おひたしは出汁がほどよく、鮭は特有の生臭さがない。ご飯もふっくらだ。

「ごはん、作れたんだ」

 一通り手を付けて、天音は心情を正直に口にした。

「基本は自炊だ。良食は体作りの基礎だからな」

 淡々と、教科書を読むように刀弥は答える。言われてみれば、学校ではいつも弁当持参だったような気がする。

「お味噌汁、わかめと豆腐と油揚げって、なんか拘ってそう」

「植物性たんぱく質を適量摂るためだ。油揚げは出汁の意味合いもある。必要以上に味噌を入れ過ぎないためだ」

「おひたしも美味しい」

「泥の処理をしっかりすれば、あとは規定量の白だしと醤油を加えただけだ」

「魚の焼き方もうまいね」

「塩を振りかけて水分を出してからふき取り、焼き過ぎないようにするだけだ」

 刀弥はさも当然のように答えているが、天音には納得できないものがある。

 このむっつり感丸出しの同級生が料理することではない。

 なぜそんな彼が昨日バランス栄養食を夕食として投げて寄こしてきたかだ。

「じゃあ、なんで昨日の夜は『アレ』だったの?」

 ちょっと刺々しいとは思いながら、天音は疑問を口にする。

 刀弥は箸を止めず、最後の味噌汁を啜ってから答える。

「どうせ食べられないか、気分が悪くて吐瀉するのが目に見えていた。だからある程度の栄養価で吐かれても無駄にならないものを選んだ。それだけだ」

「……え?」

 呆然としてしまう。

 つまり、刀弥は「辛いだろうから負担にならないものにした」と言ったのだ。まさかこんな仏頂面で気遣いされるとは思わなかった。


「ちゃほーい!おじゃましー!」


 唐突に、底抜けに陽気なソプラノが割って入った。

 肩掛けにした大きなバッグとリュックサックを背負ったちびっ子――ではなく、同級生であり刀弥の相棒である相城観生そうじょうみうが、大荷物にふらふらしながら入ってきた。インターホンは鳴らされていない。鍵をかけていないとは思えないので、恐らく合鍵だろう。

 小さな陽気少女は食卓を見て動きを止め、

「あーちゃん、お腹すいたよ~」

 余計に幼児化した。

 刀弥はすっと立ち上がり、キッチンへ歩き出す。

 まさかこれから一食分を追加して作るのだろうかと思ったが、戸棚を開いて中から昨日と同じ栄養バランス食品を手にして戻ってきた。

「これでも食べていろ」

 どうやらそれなりにストックがあるらしい。

「うわーい、あとお茶よろ~」

 刀弥は慣れているのか、ぞんざいな感じで固形食を渡した後、コップを取り出して水道水を注いで差し出した。

「サンキュ~」

 茶を要求して水道水を出されても文句はないらしい。観生はもぞもぞとスティック型の食品を口に入れ、咀嚼しながら水を飲む。母が黙って父にお茶を淹れる光景を思い出し、天音は俯いた。

 それから一○分程度で朝食が終わると、観生はリュックサックの中身を取り出しながら話し始める。

「まずは、天音ちんに日用品の差し入れね~。歯ブラシと~、ドライヤーと~、なんかいい感じのボディソープとか~、まぁいろいろ」

 途中から面倒になったのか、リュックごと差し出してきた。

 続いて、肩掛けにしたバッグからノートPCを取り出した。モバイルではない、一七インチディスプレイ・テンキー付きの大きなものだ。ペンケースくらいの大きさのACアダプターを取り出してコンセントに挿し、電源ポートに接続した後に本体の電源を入れて立ち上げる。

「あ、そうそう。今朝、小鹿野おがのセンセーから、しばらく休校だって連絡あったよー」

 立ち上げてPINコードを打っている間に一言、状況が伝えられた。

 天音には連絡が来ていないが、恐らく自宅の電話には連絡がされたはずだ。留守電に入っているのかもしれないし、保護者のグループチャットにメッセージが入っているのかもしれないが、どちらにせよ今の天音に確認することはできない。

 昇降口から廊下に階段、窓ガラスやドア多数、家庭科室など校舎は部分的であれぼろぼろだ。安全面からの緊急措置であろうことは想像に難くない。

「で、警察の方はどうにかしてるので、問題なし」

「え?」

 どういうことか、と聞こうとしたところ、観生はパソコンの画面を天音に見せた。


『巨大熊市街地へ。家屋を破壊し逃走』


 ネットニュースだった。

「これ、まさか、昨日のこと?」

「そだね」

 馬鹿な。天音は心底困惑した。あれだけの巨大な犬を、奇怪な姿の怪物を、熊と?たくさんの人があの光景を見たはずだし、あれで母も死んだのだ。それが全く報じられていないとはどういうことか。

「目撃者がいたはずでしょ?」

「人間の記憶なんて曖昧だよー。こうだった、って言われれば、次第にそうかもって信じちゃうよ。ほとんどが一瞬すれ違ったくらいで、はっきりと見た人は多くないしねー」

 天音の問いに、観生は飄々と答える。

「写真や動画に撮ってた人だっているはず――」

「ネットに繋がってる端末からデータを消したよ。不特定多数だったから、昨日の一定時間帯に保存がかかった特定拡張子のファイルをすべて削除するウィルス流した。周辺の防犯カメラも同じくね」

「わたし、昨日お父さんにお母さんのことでメッセージを送ったんだけど」

「それも消した。『熊が家をめちゃくちゃにしちゃったから友達の家に泊まる』って送っておいたから」

 とんでもないことを言っているが、果たしてそんなことが可能なのか。

 いや、可能なのだろう。現に、自分のスマホで昨日の事のニュースを探すが、どこにも死者の記載がない。情報が錯綜している?いや、あんな惨状、そうそう隠せるわけが――

「お母さんの遺体、どうしたの?」

 そこに思い至り、天音は口調厳しく問い詰める。

「MMMCで回収した。変異体の犠牲者だ。人への感染リスクを考慮すると、警察に渡るのは得策ではない。検査の上処理されるだろう」

 刀弥の口から、淡々と語られる回答に、先ほどまでの朝食のことなど忘れ、天音は睨む。

「処理って……!」

「世間には行方不明で処理される」

「そんな……!」

 それはあんんまりだ。人の尊厳を何だと思っているのか。そう言おうと思ったが、その前に刀弥が遮った。

「作戦会議だ。睡眠も、栄養補給も済ませた。これからは仕事の時間だ」

「休校になったし、都合いいしねー」

 観生もノリノリでキーボードを叩く。

「そんな、はぐらかなさいでよ!」

「少なくとも――」

 声を荒げる天音に対し、刀弥は静かに告げる。

「ここで騒ぐより、どうやって変異体ヤツを見つけて仕留めるか。それを考えた方が効率的だ。蓮山も、アレを野放しにはしたくないだろう」

 そう言われ、天音は気持ちを押し殺した。報道されていないだけで、自分のせいで犠牲になった人がいるかもしれない。そんな罪悪感が蘇る。

 見知らぬ誰かが喰われる光景を想像し、開きかけた口を閉じる。

 それを見て取った観生は、ノートPCと同サイズの薄型ディスプレイを取り出し、テーブルの中央に据えた。

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