第19話
あの犬を、母を喰い破った巨大なバケモノを殺せるのならば、いいかもしれないと思った。一〇日前には「忘れろ」と、蔑ろにされていたわけだが、今は違う。今でもあのバケモノの前に立てと言われれば恐ろしいが、それが死と恐怖を拡散させてしまった
「……わかりました」
躊躇いはある。でも、ここで、ここまで言われて怖気づいては、自分の命惜しさに危険をばら撒いた身勝手な人間になってしまう。
怖い。でもやらなければならない。
そう、思い込んだ。
「決まりだな」
ドクター・カルーアは薄く笑い、少女を送り出す。
蜘蛛の巣にかかった蝶であることを、天音はまだ、自覚することはできない。
「ドクター、いじわる~」
「おや、なんのことやら」
対してカルーアは砂糖が沈殿するほど入ったコーヒーを口にしながらしらばっくれる。観生もコーヒーを飲んでいるが、こちらは色が茶どころか白になるほどミルクを入れている。
部屋から出ていった天音と入れ替わりに、観生は備え付けの丸椅子に座って、膝の上に置いた愛用のノートパソコンのキーを器用に右手だけで打っていた。カップを左手に持ったまま、右手のタイピングを止めずに話す。
「死人、いないみたいだよ~。警察も救急も全部当たってるけど、搬送時点でみんな軽傷だよ?それを犠牲者多数、みたいに煽っちゃって~。性格わる~」
文字面だけならば非難しているが、観生の調子はこれが平常運転だ。他人との距離が極端に近い故の、忖度ないセリフであり、それをわかっているからカルーアも半分聞き流している。
「別に犠牲者多数なんて、こちとら一言も言ってないぞ?」
事実、カルーアは犠牲者を匂わせる内容は言ったが、断言はしていない。天音が語った母親の死に様と必死に学校まで逃げた状況、観生経由で送られた監視カメラ越しの断片的な映像から、『死人が出てもおかしくない』と思っていたし、出ると思っていた。むしろ、表情に出してはいないが観生の『軽傷のみ』という声に驚いたくらいだ。
人は情報が不足しているときに勝手な想像をするものだ。特にそれを語る者が自信満々で、事情を知っているような人物ならば尚更に。
だから、カルーアからすれば、天音は勝手に責任を感じているだけに過ぎない。
(そこまで特定のものに執着するとはな)
すでに、カルーアの頭の中は話題が切り替わっている。
あの変異体の特異性という、興味深い対象へと。
「あ~、ドクターまたお話を無視してる~」
「はいはい、聞いてるよ~」
「むむ~~」
傍から聞いていると
実際は相互に違う認識をしているのだが、会話からそれを伺い知ることはできない。
ただ、似たところはあるようで、
「砂糖が足りんな」
「にが~」
沈殿するほど加えられた砂糖や、白くなったほぼミルクという構成のコーヒーを口にしても、その苦さが気になるようだった。
常人なら「逆にそれだけ入れたらマズイだろう」と言いたくなるが、二人はこの状況を打破するために、
「もう一本」
スティックシュガーと取り出してカップの底に沈殿物を増やし、
「もっと薄めないと~」
部屋を出て、ミルクを取りに行くのだった。
天音は部屋の中で立ち尽くしていた。
これからどうするべきかと、カルーアとの会話から悩んでいたことを一瞬忘れてしまった。
家に戻るのは躊躇われ、友人宅に泊まるのも気が引ける。父に「わたしは大丈夫だけどお母さんが…」と短くメッセージを送ったが既読がつかない。恐らくまだ仕事中だ。何と説明するかはまだ考えが纏まっていない。
結局当面の宿については自己解決するしかないと思ったのだが、カルーアとの会話が終わった直後、
部屋の構造は1LDK。二人掛けサイズののテーブルとイス。開きっぱなしの引き戸の向こうには簡素なパイプベッドが置かれるのみ。
家具は以上だ。
ここは普通のマンションであり、ホテルや旅館ではない。ビジネスホテルですらない一般住居だ。学校へは徒歩圏内でそこはありがたいのだが、ここはあまりにも生活感がないというか、夜逃げ後の部屋と言われても納得してしまいそうだ。もしくは人を監禁するためだけに借りている部屋とか――。
「朝桐君まさか――」
「俺の部屋だ。好きに使え。トイレと風呂はそこのドア」
悪いことを考えているんじゃ、と変な想像をしてしまった天音に、刀弥は淡々と必要事項を告げる。
「え、あ、うん――――、うん?」
いつも通りのあっさり気味な同級生の調子に思わずほっとして、そしてすぐ別の言葉に反応する。
「朝桐君の、部屋?」
「そうだ」
「わたしが、朝桐君と一緒に?」
「そうだ」
「……なんで?」
「変異体に狙われているだろう。今日の状況から、その可能性がより高くなった。あんな状態の家には戻れないだろう。家も知られている。ならば、ここにいた方がいい」
「いやだから、なんで朝桐君?せめてそこは相城さんとかじゃない?」
「あいつは戦闘能力が著しく低い。一緒にいても有事の際に犠牲者が一人増えるだけだ」
「でも、いきなり一緒になんて――」
急にもじもじし出す天音の態度を余所に、刀弥はキッチンに向かって歩き出す。
「問題ない。家に荷物を取りに行かせている。衣類や最低限のものは持ってこさせるから当座の生活物資に支障はないはずだ。変異体から逃げるだけならば、特に熊のような執着性を持っている相手に対しては愚策だが、今回のように誘引する目的ならむしろ適切だ」
「いや、そうじゃなくて」
確かに服とか小物とか気にすることはあるが、一番に気にするところはそこじゃないだろう。高校生の男女が同居することを一体何だと思っているのか。
天音はそのことを改めて追及しようとすると、刀弥は何かに気づき、ああ、と納得した様子を見せた。
「心配はもっともだが、問題ない」
刀弥はキッチンのシンク下の棚の中身を漁りながら言った。
やっと気づいたかと、なぜこんなに自分だけが緊張しなければならないのかと心の中で憤慨していた天音に対し、
「ベッドは一つしかないが、寝袋も調達している」
またもベクトルの違う刀弥の答え。
わざとやっているのだろうかと、天音は疑いたくなったが、プライベートな刀弥のことなど知らない身としては判断し難い。
「慣れないだろうが、慣れてくれとしか言えない」
「そりゃ、いきなりこんな家に連れてこられたら――」
「寝袋でもいいものなら寝心地もいいらしいから、慣れてくれ」
「え?寝袋ってわたし用?」
またも、天音は固まった。
ここは「俺は床で寝るからベッドを使え」「え、いいよ悪いし」「気にするな」的な流れではないのだろうか。
「慣れない寝袋では十分な睡眠品質が確保できるか怪しいからな」
それはわたしも同じだろうと天音は思った。
「いざというときのコンディションはできるだけ整えたい。睡眠の品質低下はコンディションに強く影響するからな」
それは確かに、実際に体を張って戦うのは刀弥であり、自分はおまけみたいなものだが、その割り切った考えに納得がいくかと言われれば話は別だ。
「はぁ、わかった。わたしが我慢する」
「理解したようで何よりだ」
いちいち苛立たせるなと天音は思ったが、しゃがんだ状態の刀弥がさっと何かを投げて寄こし、慌てて両手と胸元でキャッチした。
固形の栄養バランス食品だった。
「食事だ」
さも当然のような物言いに、ついに天音の中で何かがブチッ、と切れた。
この後、天音は荒れた。
デリカシーがない。
わたしの覚悟を返せ。
思いつめていたわたしが馬鹿みたいじゃないか。
少なくとも、自分の今置かれた状況を忘れるくらいには、饒舌に物申した。
一時間後、ボストンバッグを肩にかけてやって来た観生が「肉体労働きついよ~」と言いながら部屋に入って来ると、指差して延々と文句を口にする天音と、それを黙って聞いている立ちっぱなしの刀弥を目にして、
「アオハルだ~」
天音の衣類と新品の寝袋の入ったバッグを置いて早々に退散した。
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