第15話

 天音あまねは校門を抜ける。

 恐らくこの場所を、学校を逃げ場所に選んでしまったことを、後程後悔するであろうが、どんなに頭を使っているつもりでも、自己保存の危機に際して冷静な判断はできていなかったと言える。

 荒い息を整えることは、まだできない。

 彼女の背後の気配がそうさせない。

 いや、気配などという生易しい感覚ではない。

 アスファルトを砕かんばかりの打撃の如き足音が迫り、途上の自動車やブロック塀の粉砕音、驚嘆と恐怖の騒めきと悲鳴が、天音が通り過ぎる度に発せられる。まだ自分が追われている証拠だ。

 校門を通り過ぎてぴったり三秒後、校門の一角が大音量を上げて粉砕された。

 全高三メートルに届かんばかりの多口の巨体は、当然体重も規格外だ。熊よりも細身の体躯だが、恐らく体重は七〇〇から八〇〇キロはある。天音を追いかけている間は最大で時速六〇キロで駆けていたものだから、破壊の規模は軽自動車の交通事故と変わらない。

 天音がここまで逃げおおせたのは細かく角を曲がり、直線を最低限にしたからだ。普通に逃げていたら追い付かれていたし、接触されただけでも交通事故と変わらない傷を負ったに違いない。

 巨大な奇犬はその体躯で校門を破壊した後、すっくと立ち上がり、天音の後姿を視認し、一度唸り声を上げると、後を追って昇降口へと駆け出した。

 孝明館高校は校門からすぐに昇降口がある。グラウンドを挟んで校舎がある構造だったならば、天音は餌食になっていたはずだ。

 ここでも、天音の運は天に見放されていなかったと言えた。


 そして、結果としてもう一つ、彼女の行動が自身を助けることになるとは、まだ本人も気づいていない。



 校舎の中を走る天音は、昇降口を土足で駆け抜けた。

 その後を、奇犬が下駄箱を薙ぎ倒しながら駆け抜ける。

 前から後ろから悲鳴が聞こえるが、天音にはどうにもできない。


 目の前には階段があり、一瞬迷って階段ではなくすぐ横に曲がる。階段で減速したところを追いつかれるかもと思ったからだ。

 天音が方向転換したことで、奇犬は廊下を滑りながら、勢いのまま階段に体を打ち付けるワンクッションを挟んで、尚も天音を追いかける。


 職員室から顔を出した強面の学年主任が

「廊下を走るな!―――おい、お前土足―――」

 と、廊下を走るどころか本来上履きに履き替えるべきところを土足のままでいる天音を注意する。

 それを無視して天音は駆ける。

 無視された教師は更に声を上げようとするが、

「おい、聞いて―――おぉぉぉっ!?」

 廊下いっぱいに駆ける黒い巨体にぶつかり、職員室の中に弾き飛ばされた。

 天音の耳に、重量物が倒れる音と教員の悲鳴が届いた。


 追いつかれそうだ。

 教室に駆け込むしかない。今は使われていない予備の机置き場が右、美術室が左にあるが、天音は右の扉を開け放ち、飛び込んだ。

 ドアを開けたままにしたせいか、巨体は二枚の引き戸を粉砕して飛び込んできた。

 だが、飛び込んできたと同時、天音は入ってきたのとは逆側のドアに手をかけており、積み重なった机に激突する巨大犬を尻目に廊下へと戻った。



 天音の狙い通り、狭隘な廊下は巨大な犬の機動力を大きく削いでくれている。しかし、犠牲者が出ているかもしれないと思うと、なぜ自分は孝明館高校こんなところに逃げてきてしまったのかと自責の念に襲われる。

 自己保存の本能―――利己的な行動を取ってしまうのは、致し方ないことだ。自分の命と他人の命を秤にかければ、自分の方に傾くのは当然のことと言える。

 学校に来るまでに居合わせてしまった通行人、校内に残っていた生徒、職員室から出てきた先生、犠牲者は出てしまっただろうか。

 脳裏には食い破られた母の姿が浮かび、続いて死屍累々の犠牲者たちが天音に視線を向ける。

「お前のせいで」「なんでこっちに逃げてきた」「お前が来なければ」「疫病神が」

 無数の目が天音を睨み、呪詛を吐く。

 わざわざ人のいるところに逃げてきた天音を、自分だけ不幸になることを拒み、他の人間も不幸になればいいと思っているんだろうと、責め立てる。


 そんなことを考えながら、咄嗟に駆け込んだのは調理室だった。

 逃げ込める場所が進路上にここしかなく、料理研究会が部活中かもしれないから巻き込んではいけないと遠慮することはできなかった。

 運よく、調理室は無人だった。施錠もされていない。たまたまか。

 コンロとシンクがしつらえられた大きなテーブルが六つ並んでおり、テーブルには背もたれのない椅子が左右三脚ずつ置かれている。

(あいつは――――――あっ)

 その、テーブルから少しはみ出した一脚に足を取られ、転んだ。

 化物犬がどこまで近づいているかを確認しようと振り返った直後のことだった。

 転んだのは廊下側のテーブル横で、天音は咄嗟にテーブル下に転がり込んだ。

 もう、立ち上がって逃げる猶予はなかった。


 ガシャン!!


 扉が吹き飛ばされた。

 追手の犬が、家庭科室に入ってくる。

 天音はテーブルの下で両手で口を覆い、息を殺す。

 

 ドシン、と一歩が踏み出される度に、身がすくむ。

 見つかったらどうなるか。

 頭から齧られる?手足から徐々に喰われる?

 母と同じように腹に嚙みつかれ、内臓ごと咀嚼される?

 ガタガタと、体が震える。

 歯が鳴ってしまいそう。

 音を押し殺したいのに。

 生きたまま喰われるという恐怖は、簡単には振り払えない。

 

 しかし、天音は重大な事実を失念していた。

 今はバケモノ生物から逃げるために、息を殺して必死に隠れようと、やり過ごそうとしているのだが、その生物は元はだ。

 においは鼻の中の嗅上皮きゅうじょうひにある嗅細胞きゅうさいぼうによって感知されるが、犬は嗅上皮の面積が広く、細胞の数も多い。それに加えて、犬はにおいの情報処理を行なう嗅球とよばれる脳の部位が発達している。そのため、犬の嗅覚は人間の千倍から一億倍と言われている。特に敏感なのは酢酸さくさん吉草酸きっそうさんで、酢酸は汗に含まれている。


 つまり、これまで必死に恐怖と戦いながら逃げ回ってきた天音のにおいに気付くことは、おかしなことではない。


 ドガン!!

   ――――――ガシャーン!!


「―――っ!?」

 天音の視界が、テーブルの天板裏から天井へと切り替わる。

 隠れていたテーブルが、巨大犬の前足に払われたことで、五メートル先の窓ガラスまで吹っ飛ばされた。

 コンロとシンクに繋がれたガス管と水道管が引き千切られる。せめてもの救いは元栓が機能したことでガス漏れを起こさなかったことだが、水道管からは水が噴き出した。


 もう、駄目だ。


 天音はもう、諦めていた。

 死にたくない。

 でもどうにもできない。

 どれだけ痛いのだろうか。

 怖い。

 助けて。

 誰か―――。


 ガシャン!

 ドダッ!


 再度、窓ガラスが割れる音。

 そして、何かがぶつかった音。


 音のした方向に、天音と巨大犬が視線を向ける。

 そこには、紺のブレザー姿の男子生徒―――朝桐刀弥あさぎりとうやが破損した窓ガラスから調理室に突入し、着地していた。

 手には拳銃が握られ、すでにターゲットを捉えている。


 ダンダン!


 二発の連続した銃声。

 バケモノじみた大きさの犬の変異体に向けて、九ミリパラベラム弾が発射された。

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