第14話
逃げなければ!
本来ならもっと早くそう思い、行動すべきだったが、天は天音を完全に見放したわけではなかった。
玄関のドアは、完全に閉まっていなかった。玄関に足を踏み入れた時に固まったせいで、背中でドアを押さえる形となった。ラッチがかかりきっていないために、少し押せばすぐに外に出ることができる。これがしっかりと閉められていたら、もう一拍分余計なアクションが必要だった。
天音の体が外に飛び出すのと、巨大な化物犬が跳びかかるのは同時。
天音の家は門扉がないオープンタイプで、三メートルも進めば道路に出る。
犬はその大きさから、一度玄関ドアにぶつかるが、
天音の足が道路にかかる。
化物犬はもう一度体当たりし、もうひとつの蝶番ごとドアを弾き飛ばす。
天音は門を曲がり、道路に飛び出している。
化物犬は駆け出し、一足で道路へど躍り出た。
天音は必死に道路を駆ける。夕方の住宅地だ。遊びから帰ってきた小学生や、買い物袋を提げた中年女性、犬の散歩をしている老人まで、ちらちらと視界に入る。
巻き込んでしまうと考える余裕はなかった。そんな余裕はないし、どちらにせよ天音が考えたところで状況を変えることなどできない。
後ろから「なんだあれは!?」「キャー!」など困惑と悲鳴の声が上がるが、何もできないからと自分に言い聞かせて走る。
まっすぐ走ったら追いつかれる!
そう思い、なるべく多く角を曲がる。
相変わらず悲鳴が聞こえる。
どれだけの人間が犠牲になっているのかわからない。
じゃあ、ここで足を止めるべき?そうすれば、他の人は助かる?
そんなことあるはずがないのに、生真面目な天音は考えてしまう。
それと同時に想像する。もし自分があの巨大な犬に捕まったらどうなるかを。
噛み千切られた母の姿を思い出し、しかしすぐに頭の中から追い出す。
追い出しても、関係ないことばかりが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。自分の死に様と、後ろで誰かが喰われているのではないかという不安が交互に浮かび、現実逃避のように今日の朝食風景が差し込まれ、キッチンに立つ母が血塗れになっていく。
(もう……いや……!)
それでも生きようと頭をフル回転させるのは、逞しいのか冷酷なのか。
天音の足は、目的地を定めていた。
あのサイズのバケモノだ。自宅玄関は比較的天井が高く作られていたが、その天井近くまであった体高。屋内ならば動きが制限されるはずだ。更に、ある程度入り組んでいれば、余計に動きを制限でき、その間に逃げることができる。
そんな場所を想像したとき、真っ先に思い浮かんだ場所は—――
門の片側が交通事故の跡のように崩れ、玄関ドアは蝶番から弾け飛んでいる。
ここからでもわかる、特有の臭い。
周囲は静まり返っている。人の気配はするが、家の中から出てこない、といった感じだ。確実に何かが起こり、それに気づいた近所の住民は、息を潜めている。
刀弥は懐に手を差し込み、強化プラスチック製の拳銃を取り出す。
スライドを引き、初弾を装填する。
足首に左手をやり、小さな
「……」
家の中は血の海だ。
玄関をくぐると正面に階段があり、左手に廊下が続く。
人が倒れている。
腹を失くした遺体が、血の海に浮かんでいる。
血の臭いと汚物の臭いが交じり合う、腹を裂かれた生き物特有の臭い。
中年の女性だ。丸い眼鏡をかけ、血染めの花柄エプロンを身に着けた、恐怖と苦痛の中で死んだと容易に想像できる歪んだ表情は、同級生の面影がある。
「母親……」
刀弥はその死に顔に、その同級生—――蓮山天音を重ねた。
普段なら、既に帰宅している時刻のはずだ。
手早く屋内を調べる。
庭に続くガラス戸が粉砕された戦場跡のようなリビング、食器棚とテーブルがが倒されたダイニングキッチン、倒された引き戸、打って変わって何も変化が見られないトイレにバスルーム、階段を上り三部屋を開けるが誰もいない。
『あーちゃん』
いつもの習慣でインカムをしていた耳に、相棒の声が届く。
ただし、それを伝えると調子に乗ってうるさいので口には出さないが。
「死亡者一名、恐らく蓮山の母親だ。処理班の手配を」
『おーけー。って、変異体絡みで間違いなし?』
「腹を喰い破られて胴体が上下に分かれてる。傷口からしてかなりの大型種だろう。少なくともヒグマと同等かそれ以上の」
『グロ系ばっか~。あ、それより、天音ちん見つけたよ』
「どこだ?」
『今巨大変異体と鬼ごっこ中だよ。土手にいたのと同じ見た目だね。ドクターの言ってたことほんとだったんだ、長生きになったって』
刀弥の腕に深く牙を埋めた、三段の口を持つ犬の変異体。
微かに刀弥の表情が揺れた。
『お、そこに行くか~』
「目的地は?簡潔に言え」
『
刀弥は走り出す。
(高校まで五分、といったところか)
頭の中で最短ルートを構築し、全力疾走を続ける。
現在時刻、四時四八分。
校内には、教職員に限らず、部活動に励む生徒が残っている時間だった。
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