第12話

 天音あまねはひとり、夕暮れの通学路を辿り、自宅へと帰る。

 もう、その後ろには無口で不愛想な同級生の男子はいない。天音の与り知らぬことではあるが、遥か上空から監視もされていない。

 もう、あのおかしな犬—――刀弥とうやが呼ぶには変異体—――に襲われてから十日が過ぎていた。

 あの日以降、危険な目には会っていない。奇怪な動物からも、からも。

 同級生男子の尾行もなくなった。あの日尾行する彼と顔を合わせなければ、尾行自体に気づいていなかったわけだが、今日は確実にいなかったと思う。

(本当に、もう何も起こらない?)

 何もないならないで、不安は残る。

(もう、今まで通りに戻った、でいいの……?)

 もう危険がないと、そう思いたい一方で、それを証明できる手段がない。普通の事件ならば犯人が捕まればもう安心、になるのだろうが、あの犬のバケモノはどこかに行ってしまったのか、死んでしまったのか、まだ近くにいるのかもわからない。刀弥たちは普通に学校に来ているが、彼らのしていることがはっきりわからない以上、判断材料は何もない。

 せめて、刀弥や観生みうと話ができればよかったのだが、結局うまく話せていない。話しかけようとして躊躇いが出てしまいタイミングを逃したこともあれば、折角話せても「問題ない」「心配するな」「忘れろ」と言われるだけで時間が過ぎてしまうこともあった。

「準備して、塾に行こう」

 天音は玄関のドアに手をかけた。

 午後四時三○分。

 この時間帯は、いつも母がいるはずだ。塾に行く前に軽く夕食を摂り、近所の塾に夜の九時まで講義を受ける。

 だから、ドアを開けた瞬間、天音は固まった。

 おかしい。

 普段は玄関を入ると、母がキッチンで料理をする音がしたり、玄関ドアの音で「おかえり」と声がかけられたりするはずなのに、今日はそれがない。

 いや、その感想は、天音の精神が均衡を保とうとするがために思考させた、一種の現実逃避だったのかもしれない。

 もっとおかしなことが、いや、もっと深刻になるべきことが、視覚を通して感知できているはずなのに。


 ウゥゥゥ――――――


 低い、唸り声。

 人ではない。くぐもった唸り声だ。

 自分の体に、影が落ちている。

 自分のものではない、大きな影。

 鼻を突く臭いがする。

 吐き気を催すような、例えるならば排泄物のような臭いと、微かに混じる鉄錆の臭い。

 そして、もう一つ、以前友人宅でペットのゴールデンレトリバーに埋もれた時に感じた不快な汗の臭い。

 聴覚でも嗅覚でも感じている異常事態に、天音はまだ現実を直視できない。

 だって、そんなはずがない。

 こんなこと、起こるはずがない。

 だって、だって—――


 なんで、天井まで届きそうなほどの大きさの、本来の口に加えて首にずらりと並ぶを持つ黒い巨体―――あの犬が、二メートルほどある布袋を咥えているのか。


 まだ、脳が目の前の光景を正確に認識できていない。

 あれは、布袋なんかじゃない。

 真っ赤な花柄の布だ。そう、柄だけは、まるでいつも母親が身に着けているものと同じだ。でも色違いだ。母のエプロンはクリーム色で、赤ではない。


「ぅぅ、ぅ……」


 掠れるような、声。唸り声じゃない。呻き声だ。

 あれ?聞き覚えある?

 天音はここにきてもまだ、直視ができていない。

 それでも徐々にではあるが、認識が明確化されていく。


 布袋?

 違う。あれは青いトレーナーと緑のスカートの上に、花柄のエプロンを身に着けているのだ。

 赤い花柄?

 違う。あれはクリーム色の、いつも母がしているエプロンが、真っ赤に染められたものだ。

 じゃあ、咥えられているものは何?

 大きな犬が、人の腹に噛みついて、牙を立てて咥えているに決まっている。

 仰向けになった人間を、咥えている。

 誰を?

 さっきから顔が見えている。

 一八年見てきた顔だ。

 いつもルールに厳しくて口うるさく注意をするけれども、

 自分を、産んでくれた、母の—――


「おかぁ……さ、ん……?」


 鯉のようにパクパクと、口を動かしている、目を見開いた母の顔だ。

 生きている?それともただの筋肉の痙攣?


「な、んで……」


 もう安全なんじゃないの?

 ねぇ、朝桐君。


 相城さん、いつもニコニコ笑って、問題なんてないみたいな顔してたじゃない。


 忘れろって言ったじゃない。あの赤い髪のヒト。


 これは、なに?


 目の前の、大きな犬が、顎に力を込めた。

 バキバキと、ビチビチと、耳を塞ぎたくなるような、不快な音がする。

「や、やめ—――」

 天音は思わず手をのばし、これから起こることを拒もうとする。

 その行為に、何の意味もないことすら、理解できないまま。


 バジュグリュボギゴリ—――

        ―――—――ドタッ

          ―――――――ボトッ


「い、や……」


 獣の口から、母の胸から上と、腰から下が、廊下に落ちた。

 バキゴリヌチャガリと、バケモノ犬が咀嚼している。

 何をしているの?

 何を、噛んでいるの?

 何を、食べているの?


 決まっている。あれは母の—――


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――――――!!」



 発狂と咀嚼の二重奏が、醜悪に奏でられた。

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