第12話
もう、その後ろには無口で不愛想な同級生の男子はいない。天音の与り知らぬことではあるが、遥か上空から監視もされていない。
もう、あのおかしな犬—――
あの日以降、危険な目には会っていない。奇怪な動物からも、人間からも。
同級生男子の尾行もなくなった。あの日尾行する彼と顔を合わせなければ、尾行自体に気づいていなかったわけだが、今日は確実にいなかったと思う。
(本当に、もう何も起こらない?)
何もないならないで、不安は残る。
(もう、今まで通りに戻った、でいいの……?)
もう危険がないと、そう思いたい一方で、それを証明できる手段がない。普通の事件ならば犯人が捕まればもう安心、になるのだろうが、あの犬のバケモノはどこかに行ってしまったのか、死んでしまったのか、まだ近くにいるのかもわからない。刀弥たちは普通に学校に来ているが、彼らのしていることがはっきりわからない以上、判断材料は何もない。
せめて、刀弥や
「準備して、塾に行こう」
天音は玄関のドアに手をかけた。
午後四時三○分。
この時間帯は、いつも母がいるはずだ。塾に行く前に軽く夕食を摂り、近所の塾に夜の九時まで講義を受ける。
だから、ドアを開けた瞬間、天音は固まった。
おかしい。
普段は玄関を入ると、母がキッチンで料理をする音がしたり、玄関ドアの音で「おかえり」と声がかけられたりするはずなのに、今日はそれがない。
いや、その感想は、天音の精神が均衡を保とうとするがために思考させた、一種の現実逃避だったのかもしれない。
もっとおかしなことが、いや、もっと深刻になるべきことが、視覚を通して感知できているはずなのに。
ウゥゥゥ――――――
低い、唸り声。
人ではない。くぐもった唸り声だ。
自分の体に、影が落ちている。
自分のものではない、大きな影。
鼻を突く臭いがする。
吐き気を催すような、例えるならば排泄物のような臭いと、微かに混じる鉄錆の臭い。
そして、もう一つ、以前友人宅でペットのゴールデンレトリバーに埋もれた時に感じた不快な汗の臭い。
聴覚でも嗅覚でも感じている異常事態に、天音はまだ現実を直視できない。
だって、そんなはずがない。
こんなこと、起こるはずがない。
だって、だって—――
なんで、天井まで届きそうなほどの大きさの、本来の口に加えて首にずらりと並ぶ五つの口を持つ黒い巨体―――あの犬が、二メートルほどある布袋を咥えているのか。
まだ、脳が目の前の光景を正確に認識できていない。
あれは、布袋なんかじゃない。
真っ赤な花柄の布だ。そう、柄だけは、まるでいつも母親が身に着けているものと同じだ。でも色違いだ。母のエプロンはクリーム色で、赤ではない。
「ぅぅ、ぅ……」
掠れるような、声。唸り声じゃない。呻き声だ。
あれ?聞き覚えある?
天音はここにきてもまだ、直視ができていない。
それでも徐々にではあるが、認識が明確化されていく。
布袋?
違う。あれは青いトレーナーと緑のスカートの上に、花柄のエプロンを身に着けているのだ。
赤い花柄?
違う。あれはクリーム色の、いつも母がしているエプロンが、真っ赤に染められたものだ。
じゃあ、咥えられているものは何?
大きな犬が、人の腹に噛みついて、牙を立てて咥えているに決まっている。
仰向けになった人間を、咥えている。
誰を?
さっきから顔が見えている。
一八年見てきた顔だ。
いつもルールに厳しくて口うるさく注意をするけれども、
自分を、産んでくれた、母の—――
「おかぁ……さ、ん……?」
鯉のようにパクパクと、口を動かしている、目を見開いた母の顔だ。
生きている?それともただの筋肉の痙攣?
「な、んで……」
もう安全なんじゃないの?
ねぇ、朝桐君。
相城さん、いつもニコニコ笑って、問題なんてないみたいな顔してたじゃない。
忘れろって言ったじゃない。あの赤い髪のヒト。
これは、なに?
目の前の、大きな犬が、顎に力を込めた。
バキバキと、ビチビチと、耳を塞ぎたくなるような、不快な音がする。
「や、やめ—――」
天音は思わず手をのばし、これから起こることを拒もうとする。
その行為に、何の意味もないことすら、理解できないまま。
バジュグリュボギゴリ—――
―――—――ドタッ
―――――――ボトッ
「い、や……」
獣の口から、母の胸から上と、腰から下が、廊下に落ちた。
バキゴリヌチャガリと、バケモノ犬が咀嚼している。
何をしているの?
何を、噛んでいるの?
何を、食べているの?
決まっている。あれは母の—――
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――――――!!」
発狂と咀嚼の二重奏が、醜悪に奏でられた。
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