第6話

 夕暮れの土手を、蓮山天音はひとり歩いていた。

 いつもの通学路からは外れた、本当なら一五分歩けば家に着くはずの距離を、少し遠回りしながら帰宅の途に着いていた。

 普段は歩かない、河道—―アスファルト舗装されたサイクリングロード。

 そこに河川敷があることは、地理上は知っているものの、実は来るのは初めてだ。いや、もしかしたら幼少時に来たことがあるかもしれないが、少なくとも小学校卒業以降は確実に記憶にない。

 ルールを守る。

 それは、天音が毎日のように両親から口酸っぱく言われていることだ。

 ルールを守るということは、同時にルールに守ってもらうことでもある。義務を果たすからこそ権利を主張できる。だから、規則の遵守というのは他人に迷惑をかけないだけでなく、自分を守る大事なことだ。

 その教えのせいなのか、とにかく天音は規則正しく、という部分に特にうるさい。

 通学路は学校に届けている通りの順路であるため、その通りに歩く。決して寄り道などせず、まっすぐ家に帰る。もし何か事件や事故に遭った際、足取りを追うことが容易になり、また普段通りに帰らなければ家族から「帰りが遅い。何かあったのでは?」と緊急事態への初動が速くなる。

 それを心掛けている天音が通学路を外れている理由は、本当に些細なことだった。

「まったく、朝霧君と相城さんは—―」

 ひとつは、普段から『家庭の事情』と言って授業を抜け出す二人のクラスメイトのことを考え、頭を悩ませていたから。

 もうひとつは、以前テレビで「思考を活性化するには軽度の運動に加えて、普段とは違う道を通ることで視覚情報から脳が活性化される」という内容を思い出したためだった。

 それに、普段通らないといっても、実際は一〇〇メートル少々東に外れた程度であり、トータルで一〇分程度帰宅時間が遅れる程度だ。なんら問題はないはずだった。

 なんとなく、河道からコンクリートの坂を下り、河川敷内の芝生を踏む。

 昔はここで遊んでいたこともあったのだろうか。

 記憶を辿ってみるが、勉強の日々と、成績に一喜一憂する両親の顔くらいしか思い出せない。

「帰ろう」

 天音は河川敷内を歩いていく。

 少し歩くと、すぐにコンクリート造りの階段が見えたので、そこからサイクリングロードへ上がろうとする。


 グルルルル—――――


「え—――」

 体がビクリと震えた。

 唸り声。

 獣の唸り声だ。

 猫ではない。犬……とも少し違う気がする。

 もっと大きな、肉食獣—―だが、そんなものいるはずが—――――――


    グルルルル—――――


 獣の唸りは、下からだった。

 市内を横断する川幅五○メートルの上総川かずさがわと、両岸八○メートルの堤防敷に架かる、全長二五〇メートルの大仙橋だいせんばしは横幅も二〇メートルある。オレンジの斜陽でも照らし切れない橋下の陰から、四足の獣がゆっくりとその輪郭を現した。

 天音との距離は一〇メートル。

 前足の前方から剝き出しの四本爪は、包丁ではないかと見間違えるほどの大きさで、黒い体毛の隙間から生えている。

 何よりの異様さは、その頭部だ。

 恐らくは、犬なのだろう。

 なぜ断言できないかというと、それはその形状にある。

 口が三つある。

 だが頭が三つあるわけではなく、ひとつの首に縦に口が三つ並んでいる。

 グルルルル—――――――ボォォォウゥゥゥ—――――――――

 再び唸り声が上がり、重低音の静かな吠え声。

 その三つの口が蛇腹状に縦に広がった。

 三つ口の犬が前傾姿勢を取る。

(やばいっ…)

 天音は本能で理解した。

 あの犬(?)はこちらに飛び掛かろうとしている。決して興味を持ってじゃれつこうとしているとか、そんな可愛げのある話ではない。

 あれは、捕食者イヌ被捕食者わたしに狙いを定めている前触れなのだと理解した。

 回れ右。すぐに駆け出す。

 視界の端で、三つ口の犬が跳び上がったのが見えた。

「いや…」

 一〇メートルの距離を一足で縮めてしまう驚異の身体能力で迫って来る。

「や…だ……」

 前方に突き出された刃渡り一五センチのナイフ状の爪が、無防備な少女の背中を切り裂く、

「助けて—――」

 その時、


「任せろ」


 天音は抑揚のない男の声と腕に包まれ、


 犬はゴゥフ、っと顔面に靴のつま先を食い込まされ、強い衝撃を受けて―――

 突進の勢いを斜めに逸らされて、堤防のコンクリートに体を叩きつけられた。


「無事か」


 男の声に、天音は顔を上げる。

「朝桐…君…?」

 天音に視線を寄こさずに、犬に視線を固定したまま訊いてきたのは、先ほどまで自分が愚痴の対象にしていた同級生—―朝桐刀弥だった。

 

 

 


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