第22話 麻生さん

 俺は下校しようと昇降口に降りた。そこに一人の生徒が佇んでいるのが目に止まった。

 下駄箱から靴を取り出そうと手をかけたまま、何か考え事をしているようだ。

「あ、麻生さん……」

 スラっとしたシルエットが振り返り、長い髪が揺れた。白い蛍光灯の光でおぼろげな風景の中でそこだけが妙に色彩がはっきりしたように見えた。

「渡辺くん……」

 麻生さんはそう俺の名前を呼んだ。いつもの弾んだ口調ではなく、麻生さんらしくない沈んだ感じ。

 俺の心も重くなる。麻生さんは休んでいたけど、先生の呼び出しで午後から学校に登校していたらしい。

(麻生さんも事情聴取を受けたんだ……俺と同時ということは担任じゃなくて、学年主任の黒田先生か、生徒指導の木村先生……)

「渡辺くんも今から帰るの?」

 少しだけ、明るく振舞って麻生さんはそう俺に続けて話しかけた。俺は麻生さんの心が痛いほど分かる。自分が落ち込むような状態でも、この人は他人を励まそうとするのだ。

「麻生さんも帰り?」

 この言葉は少々変だ。なぜなら、この時間に昇降口に来た高校生なら、ほぼ帰宅するに違いない。途中で塾とか、遊びに行ってしまう可能性も無きにしも非ずだが。

「うん……」

 そう言って麻生さんは自分の靴を手にして、そっと置くと自分の履いていた上履きを下駄箱へ収める。

 かかとの端をきちんと下駄箱の入口に揃える。相変わらず律儀な性格だ。

「麻生さん、駅から電車だったよね」

「うん……1つ離れた駅だけどね」

 麻生さんの家は高校がある赤池駅から、1つ離れた八木駅にある。俺は赤池駅の近くだから帰る方向は一緒だ。

「もう暗いから駅まで一緒に行こうよ」

 俺の心臓はドキドキと鼓動を高めた。これは考えて出た言葉ではない。不意に口走った言葉。空気の俺にしては不用意な言葉だ。

(しまった……断られたら、俺は傷つく……とういうか、同じ方向でどうやって帰ればいいのだ……)

 暗い夜道を麻生さんの後ろをトボトボ歩く姿が脳裏をかすめたが、そんなことにならなかった。麻生さんは少し微笑んで頷いたからだ。


「ねえ……渡辺くん」

 校門を出て10分ほど、俺と麻生さんは何も話さず歩いた。

 せっかく麻生さんと一緒に帰る機会を得た俺だが、この状況ではなんと話しかけていいか分からなかった。これは麻生さんも同じであろう。

 二人共、身に覚えのない、いじめの罪を着せられて事情聴取を受けた帰りなのだ。空気の俺はともかく、学年の優等生で男女問わず人気のある麻生さんにとっては、この嫌疑は精神的にショックに違いない。

「わたし……鬼頭くんの家に謝りに行こうかな……」

 ポツリとそんなことを麻生さんが言った。もう赤池駅のネオンが近づき、沈黙したまま、分かれるのかと思った場所である。

 俺は瞬間に(違う)と思った。麻生さんの間違いを正さなければいけないと強く思った。

 それで麻生さんの左手首を掴んで、駅前のミックバーガーの自動扉をくぐったのだ。

「麻生さん、俺は違うと思うよ」

 テーブルに置かれたコーラとハンバーガーのセットが盛られたトレーに視線を置いて、俺はそう切り出した。

 空気の俺にしては強引な展開だ。麻生さんを無理やり、連れ込んで夕食を注文し、今は店のテーブルに向いあって座っているのだ。

 ここへ来て、俺は動揺している。黙ってついてきた麻生さんは、ショックでいろいろと考えられない状態なのだ。

 それにつけ込んだのではないかという罪悪感も芽生えている。だが、麻生さんの漏らした鬼頭の家に謝りに行くという行動は絶対違うと思った。

 彼女の人の良さからくる間違いを正したいと思ったのだ。

「あ、麻生さん……鬼頭のことなら気にすることはないよ。絶対、濡れ衣だよ。麻生さんが鬼頭をいじめたなんて誰も信じない」

(大体、俺がいじめっ子グループに名前を連ねていること自体がおかしい。鬼頭とはまともに付き合ったことはないし、鬼頭がいじめられている現場を見たこともないし、いじめたという人間も知らない)

「……でも、わたしは鬼頭くんの告白を断ったの……」

「そんなの当たり前だよ。麻生さんは鬼頭のこと好きだったの?」

 麻生さんは首を振った。そうりゃそうだ。

「だったら、告白を受け入れないのは当たり前だよね。それをいじめっておかしいよね」

 俺は同意を求めるようにそう麻生さんを励ましてみた。

 だが、麻生さんは視線を上げない。目にはうっすらと涙まで浮かべている。

「わたし……鬼頭くんが唐突に好きだ、僕の女になれとか言われて、冷静に断れなかったの。そういう強引な人は嫌いですってはっきり言ってしまったの」

「俺はそれが普通の対応だと思うよ。僕の女になれって失礼じゃない?」

 俺の言葉には麻生さんは答えない。まだ、自分を責めるスタンスが変えられないようだ。

「わたしがそう言ったら、鬼頭くんは、他に好きな男がいるのか、いないんだろ。だったら、僕と付き合えと強引にキスしようとしてきたの……」

「えっ」

 俺は驚いた。あの空気が読めないわがまま坊ちゃんは、どこまで傍若無人なのだろうと怒りが増してきた。

「それで頬をひっぱたいたの。そして私には好きな人がいますって……」

 俺は言葉を失った。2重の意味で失った。

 まずは麻生さんに好きな人がいるという事実。これは俺の心をえぐった。

 別に心がえぐられること自体、麻生さんが悪いわけではない。俺の中に麻生さんが気になる部分が打ち砕かれただけなのだ。

 それは俺の勝手な思いがなせることだ。麻生さんが悪いわけじゃない。

 そして2番目は強引に痴漢行為に及んだ鬼頭がひっぱたかれたという事実。

 これは自業自得だが、あの鬼頭の母ちゃんが赤くなった息子の頬を見て逆上したことは間違いがないわけで、結果的に麻生さんが苦しい立場に追い込まれているという事実だ。

「そ、そんなの……当たり前だよ。強引にキスしようとするなんて、ゲスのやることだよ。鬼頭は叩かれて当然。逆に訴えてやればいい」

「……わたしも先生に説明したわ……でも、鬼頭くんのお母さんは納得してくれなくて」

「それで謝りに……麻生さん、それは違うよ」

 何が違うのか俺には論理的に説明ができない。なぜなら、鬼頭の母親はおよそ建設的な意見は受け入れないことが予想できる。

「でも、わたしのせいでみんな困っているのよ。先生もそう。渡辺くんもそうよね。鬼頭くんとは全く関わりがないのに……」

(ああ……それでか……)

 俺はなぜ自分の名前がいじめをしたとされるメンバーに名前を連ねたのかわかった。人の良い麻生さんは俺にいつも声をかけてくれる。それを妬ましく思った鬼頭が意図的にやったに違いない。

(あいつ……本当にクズ野郎だ……)

 狙ってやったとしたらとんでもない奴である。だが、鬼頭の性格を考えると意識してというより、呼吸をするようにごく自然な行いなのであろう。彼にとって自分の意思にそぐわないことを排除することは、当たり前のことなのだ。

 誰もが自分の思い通りになり、そうでないとヒステリーを起こす。ありもしないことを妄想で訴える。それに便乗する母親。もはや付ける薬はない。

「とにかく、先生が何とかしてくれるよ」

 俺はそう言うしかなかった。俺の説得に麻生さんは頷いた。少なくとも、今日は鬼頭の家へはいかないだろう。

 俺はそっと腕時計を見た。時計の針は8時近くになっている。あのダンジョンは9時になると出現する。それまでに装備を整えておかないと、冒険者に殺されてしまうかもしれない。

「あ、あの……渡辺くん……」

 俺がチラッと腕時計を見たのを麻生さんに気づかれた。俺が時計を見た瞬間に、麻生さんが俺にそう何かを言いかけたからだ。

「麻生さん、何?」

「一人でさみしくない?」

 変なことを聞く麻生さんである。確かに俺は教室でぼっちである。今更、そんなことを聞かれるとは思わなかった。

「学校で一人は慣れているから……」

「あ、いや、あの……家で……」

「はあ?」

 ますます変なことを聞く麻生さんだ。家には父も母もいる。

 思春期真っ只中ただから、あまり両親とは話をしない。忙しい親父の顔はここ数日……いや、数か月見ていないかもしれないが、家には帰ってきている。母親も顔を合わせてはいないが、家にいるのだから、俺が一人というのはおかしい話だ。

 麻生さんは俺が一人暮らしであると勝手に思い込んでいるのであろうか。

「……いいえ。なんでもない……」

 麻生さんはそう言った。荷物をまとめ始める。夜の8時だ。麻生さんもこれ以上は時間が許されないのであろう。

 俺は麻生さんが電車に乗ったのを見届けると、すぐに家に帰った。マンションの部屋に戻ったのは8時30分過ぎ。9時まで30分を切った。

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