嘘と偽りのダンジョン
九重七六八
第1話 空気になった男子高校生
朝、広いベッドで目が覚める。
俺の部屋に朝日がカーテン越しに差し込んでいる。
高層マンションの最上階だから、太陽が町の景色の中をじりじりと昇っていくのが分かる。
(ああ……朝か……もう7時……)
俺はベッドの脇の目覚まし時計を見てため息をつく。もっと寝ていたいが、ここで起き上がらないと確実に学校に遅刻する。
嫌々ながら体を起こす。遠くで両親が会話をしている声が聞こえるような気がする。リビングには会社に行く父親とコーヒーを入れている母親がいるはずだ。
(起きるか……。起きないと朝食を食べる時間がなくなる。朝食を作ってくれた母さ
んに悪いし、いつも遅くまで働いてくれる親父の顔も見られない)
父親は会社で出世して今は役員待遇の部長に出世したらしい。そうでなければ、こんな高級マンションは買えない。しかし、その代償は大きく、いつも帰りが遅い。
(もう親父を見たのはいつ以来だろうか……何か月も顔を見ていない気がする)
寝ぼけ頭で起き上がり、そんなことを考えたがはっきりと思い出せない。思い出せないが、今、起きてリビングへ向かえば何か月ぶりかに会う父親がいるはずだ。
俺は重い体を引きずるように洗面所で歯を磨き、顔を洗い、髪を整えてリビングへと向かった。扉を開ける。
(ああ……今日も遅かったか……)
広いテーブルには親父はいない。食べた後の食器も片付けられている。俺の朝食がポツンとテーブルに置かれている。
台所から母親がガチャガチャと食器を洗っている音が聞こえている。テーブルにはトーストと目玉焼きが置いてある。いつものメニューである。
「おはよう」と小さくつぶやいて俺は母親の顔も見ないで椅子に座る。
機械的に皿に並んだ料理を口に運ぶ。いつもと変りない味だ。テレビから今日のニュースが流れて来る。昨日、自ら車に飛び込んで死んだ男性のニュースだ。
(最近、こういうのが多いよな……居場所がない人が多いということか)
そんなことを思いながら、俺は自分の境遇を思い出す。
(俺も学校には居場所がない……だけど、寂しいとか、つらいとか、いっそ死にたいと思うかというとそうでもない)
現在、自分が置かれている状況を考える。
高校生になってから、俺は空気になった。
エアー男子だ。空気をエアーと呼び変えただけで、なんだかかっこよくなった気がするが、エアーはエアーだ。発音すると何だか虚しい響きだ。
空気になったという状態は存在が周りに溶け込んで、目立たなくなった状態を指す。本当に目立たないからいじめられもしない。ある意味、最強かもしれない。
(そういえば、存在感がないことを武器にして戦うスポーツ漫画があったわ!)
俺は中学生の頃はクラスでも1位、2位を争う秀才だった。学級委員もやっていたし、当選こそしなかったが、生徒会にも立候補した。運動会でも代表リレーに出て、部活でもバレーボールでレギュラーだった。
(女子からラブレターをもらったこともあったな……)
その頃は気恥ずかしすぎて断ってしまったが、あの時付き合っておけば、少しは女の子と普通に話せるようになったかもしれない。
今はクラスメイトの女子に敬語を使う痛い奴になってしまった。
高校は地元で一番の進学校へ行った。出身中学校では10人だけが進めた難関校だ。近所でも自慢だった。だけど、その自慢は4月で後悔に変わった。
(俺程度の人間は腐るほどいる)
高校に入って最初にやったテスト。順位は300位だった。クラスじゃ後ろから数えた方が早い。
そして、初めての数学のテストは4点だった。4問しか問題のないテストは初めてだ。しかもA4サイズの紙にぎっしりと式を書いて証明する。辛うじて部分点もらっての4点。
(これは無理だ……レベルが違い過ぎる)
毎回行われる中学英語の復習テストの平均点92点。
俺の獲得した点85点。平均点以下は補習だ。屈辱である。
(マジか……)
もちろん、俺は部活にも入らず、猛勉強した。猛勉強してもいつも平均点をギリギリ下回る程度。
要するに俺は普通になってしまった。頑張って普通だ。普通はとにかく目立たない。
中学校の頃から目立つことが好きだった俺だが、これはこれで気が楽かもしれないと思うことにした。
まず、誰とも話さなくていい。朝来て教室に無言で入る。誰も俺に気を止めない。別にそれでいい。気を遣う必要もない。クラスには中学校の同級生もいない。
幸いなことに俺だけ、出身中学校の生徒がいないクラスに放り込まれた。最初は心細かったが、今は別にいい。ちょっと許せないのは、今の教室の席。
(なんで窓側の列の一番後ろじゃないのだ!)
漫画やアニメ、ライトノベルなら普通は目立たない奴の指定席なはずである。だが、俺の席は教室真ん中付近の3番目。これといって特徴がない場所だ。
だから、授業でも当てられない。それでも、先生にあてられて答えられないと目立つので予習はしていく。
エアー男子たる俺はこういう奴だ。この地点で引き気味な大半の人間に謝っておこう。
「ごめんなさい」
そして俺の生き方に共感できる方々。
「生暖かく見守ってください」
(え? 俺の名前か?)
俺の名前は『渡辺徹(わたなべとおる)』。いたって普通の名前である。
容姿も普通。中肉中背。メガネなし。髪型はスパイキーな雰囲気のマシュショートだが、今時の男子高校生はそれなりに髪型に気を使っている。よって普通だ。
いっそ何もせずダサい方向にすれば目立つかもしれないが、マイナス方向は無意味だ。
俺みたいな奴は男子にも女子にもいる。そいつらはそういう者同士で徒党を組む。だから、空気にはならない。
人は徒党を組むとそこに存在理由ができる。人間、存在理由ができると姿がくっきり浮かび上がるのだ。
俺はその点、優秀だ。誰も俺に話しかけないし、誰も俺を見ない。景色に完全に溶け込んだカメレオン。それが空気たる俺の特技だ。
クラスにはそんな空気人間とは対象的な人間がいる。『輝く人』だ。
俺のクラスだと出席番号1番の麻生さん。容姿は言わずもがな美少女だ。腰まである長い髪は、美少女の定番。どんぐり眼が印象的な子だ。
そして全身からあふれる気品。なぜこの高校にお姫様がいるのだというレベル。このオーラは普通の女子高生のものではない。
だから、この学校の来年のパンフレットのモデルに選ばれたくらいだ。
麻生さんの下の名前を俺は知らない。クラスの自己紹介の時に名乗ったのであろうが、俺ごときが覚えてはいけない気がする。
麻生さんの視界には俺は映っていないだろう。それで十分だ。麻生さんと同じ空気を吸ったら普通でなくなる気がする。
(ああ……。空気が空気を吸うのはおかしいか)
普通に登校して、普通に授業を受け、普通に弁当を食べて、普通に帰る。
たまに麻生さんの楽しげな姿を見るが、それはたまたま視界に入った時だけだ。俺のような空気が意識して麻生さんを視界に入れてはいけないのだ。
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