第4話

「……あたしも、人のこと言えないけど」

 ぽつりと、小さく小さく呟かれた言葉に引きずられるように菜月の視線も里穂に向かった。里穂は顔をそらしたまま言葉を続ける。

「……あたし、絵描きなんだけどさ、一応新人賞とかも取ったことあって、期待の新人、なんて言われてたんだ。でも、段々評価されなくなって来て、グループ展なんかもやってたけど、そこで一緒にやってた連中と上手くいかなくて。……あんたがさっき言った通りだ。あたしは、口も性格も悪いから、彼氏も友達もいない。グループ展やってる連中は段々成功してきてるのに。――あんたは周りに流されすぎだけど、あたしは逆。流されないって思って色んなもの無視してきたら、いつの間にかひとりだけ取り残されてた」

 少し震えた声。絶対にこちらを見ないからずっと視界に入る背中が何だかとても寂しくて、悲しくて、目が逸らせない。

「――里穂ちゃん、スケッチブック、久しぶりに見せてくれない?」

 菜月に向けていたのと同じ柔らかな声音で話しかけながら、楓子は里穂の視界の端に自身の手を伸ばしてひらひらさせた。里穂は体を大きく伸ばし元の席の脇に置きっぱなしにしていた鞄を取り上げ、背中を向けたまま使い込まれた古いスケッチブックを楓子に渡す。

「……最近のは無理。こっちなら……まあ」

 ありがとう、と礼を言い、楓子がスケッチブックをパラパラとめくり出した。菜月がそぉっと横から覗き込もうとすると、気付いて菜月にも見える角度にしてくれる。そうして目に入った絵を見た菜月の最初の感想は、「美術の資料集みたい」だった。

「……え、すごい、上手」

「は。お世辞とかいらな――」

 自然と素直な感想が口を伝い出たのに、また里穂は不機嫌そうな声になる。振り向いた音がしたが、何故かその途端に言葉は止まった。どうしたのかと視線を上げれば、何故かとても複雑そうな顔をしている。嬉しそうな、苦々しそうな、そんな表情。

「え、何? どういう顔それ」

 問うが、里穂は複雑な顔のまま答えない。沈黙が一瞬走るが、気付いたらしい楓子が噴き出したのでそれもすぐに払われた。

「ふふふ、凄いわね里穂ちゃん。泣いてる子が泣き止んだわ」

 その言葉を受け、菜月は自身の目元に箸を持ったままの手を当てる。まだ濡れてはいるが、確かに新しい涙が止まっていた。

「え、あの、だって、びっくりして。り……照葉、さんって厳しい印象しかなかったのに、なんか、この絵は、えっと、タッチ? っていうの? が、凄く柔らかくて、優しい感じで……あ、涙を止められる自分の絵の力に感心した? その顔そういうこと?」

 名推理とばかりに自信を覗かせる菜月の目から逃げるように、里穂は机に肘をつき不機嫌そうな顔を逸らしながら手の甲に顎を乗せる。

「違う。……それ本当に年単位で昔の絵。女将さんが絵を買ってくれたちょっと後ぐらいのやつだから、複雑なんだよ」

「褒められたのは嬉しいけど昔の絵だから悔しい、ってところかしら? 分かるわー、昔の料理の方褒められると私も複雑になるもの」

 うんうんと納得する楓子の隣で菜月は魚の煮付けを口に含みながら自分に当てはめて考えてみた。例えばメイクなどで、昔より上手くなったはずなのに昔の写真を見て「可愛いね」と言われるようなものだろうか。それは――なるほど、複雑だ。

「今そんなにヤバいの? 見せてよ」

「は? 素人が見て何が分かんの」

「何も分かんないんだから見せたっていいじゃん」

 軽い口調で頼むと、皮目がカリカリに焼かれた肉の盛られた小鉢を菜月が空にするほどの時間躊躇してから、里穂はようやく最近のスケッチブックを取り出す。

 それを受け取り、今度は菜月が楓子にも見える角度でスケッチブックを開いた。中に描かれているのは鉛筆で描かれたラフばかりで、先のスケッチブックのように色がついたものは見受けられない。

 描かれているものはどれもやはり「上手い」と菜月の目には映る。というか、宣言通り素人なのでイラストというより絵画寄りの絵の良し悪しなどまるで分からない。だが――。

「……んー? んん? なんか、何だろ、全然分からないんだけど、なんか、どっちが好きって言われると昔のやつのが好きかも」

 絵画の知識がなくとも、好みか否かという程度の区別は美術館に社会科見学で訪れた小中学生ですらあるだろう。菜月もそのレベルの感想を素直に口にした。

「はーーーー遠慮がないど素人マジで腹立つ」

 食べ途中だった魚を一気に口に放り込み、里穂はご飯を掻き込む。すでに食べ終わってしまった魚の味付けを思い起こしながら、菜月はその横顔に「そんなこと言われてもさぁ」と言い訳を始めた。だが、それは半ばで止められる。

「でもその通りなんだよ。元の絵描き仲間にも、先生にも、昔評価してくれた人にも、みんなに言われた。最近の里穂の絵は固い、楽しそうじゃない、って。感情論かよって思うけど、実際その通りなんだ。……あたしは最近、確かに、楽しくない。……絵が好きで、始めたのに……」

 ことり、と持っていた器が置かれた。視線を落とし厳しい表情をする里穂は何かをぐるぐると考えているようで黙りこくってしまう。

 そんな彼女の頭を、楓子が撫でた。驚いた里穂が顔を跳ね上げ、何と言ったものかと考えていた菜月の視線も彼女に向く。

「あるわよ、好きで始めたことが楽しくなくなること。私だって料理が好きでお店がやりたくて始めたのに、嫌なお客さんが来た時とか全然別のことで嫌になった時に『こんな道選ぶんじゃなかった!』って思う時あるもの」

「……そういう時、女将さんはどうしてるんですか?」

 撫でられる手をそのまま受け入れた里穂が静かに尋ねた。縋るような眼差しに、、楓子は優しく微笑む。

「基本的にはそのまま我慢して頑張るんだけどね、もう無理、ってなったら、採算も時間も度外視した自分が作りたいだけの料理を自分のためだけに、楽しみたいだけに作るの。そうやって出来たものを食べたら幸せだし、美味しく出来たら誰かに食べてもらいたくなって家族に出すでしょ? それで美味しいって言ってもらえたらもっと色んな人に食べて欲しくてお友達とかご近所さんにあげたりするの。美味しいって笑顔になってもらえるとね、『ああやっぱりみんなに食べてもらいたい! お店って楽しい!』ってなるのよ。まあ要は、『楽しいだけの時間を作る』のが私の解消方法ね」

 こんな風に私の料理で癒されてくれるのも嬉しいしね、と楓子はいたずらっぽくウインクをした。美味しいです! と力強く答える菜月の手にはまたみそ汁のお椀が持たれている。一方で、里穂は「楽しく……」と何かを考えるように呟いていた。

「里穂ちゃんも、ちょっと肩の力を抜いてゆっくり楽しむだけの時間を作ってもいいかもね。昔のあなた、今の菜月ちゃんみたいにキラキラした目をしてたわよ」

 言うや否や立ち上がると、楓子は「おかわり持ってくるわね」とまた奥に下がる。残された二人はそれを見送ってから自然と視線を合わせた。

「……私目キラキラしてる?」

「さっきまでぼろくそに泣いてたとは思えないくらいね。彼氏に嫌われたくないとか言ってご飯まともに食べないから死にたくなってたんじゃないのあんた。単純明快食いしん坊の自覚とっとと持つべきだったね」

 一を聞いたら一言以上多く返される。とはいえ事実だし、何より先程よりずっと言葉の質が軽くなっていた。楓子のご飯と感情の吐露で心が軽くなったのは、どうやら菜月だけではないらしい。

 「うるさいよ」、と軽く返してから、菜月は残っている食事にも手を付けた。その隣では、里穂の頬がようやく柔らかく緩む。


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