天星アストレイア

叶 遥斗

第1話 召喚


 まっくらな水の底からゆっくり浮上していく感覚。遠く頭上に淡い光が拡がっている。先に駆け上がっていくあぶくに手を伸ばしてみた。纏わりつく水の重みも不思議とこわくはなかった。息苦しさがまるでない。


(どこなの)


 見知らぬ空間。時間さえあるかわからない場所。暑くも寒くもない。


 淡い光から誰かの声が聴こえる気がする。


「さあ主様。どうかこちらへ」


「私達を」

 お救いください──って、そういったの──?



 次に目を開けたとき、まばゆい景色におどろいて、ついさっきまで暗い暗い水の中にいたはずなのに、そこはもうどこかの室内だった。


「ようこそ主様」


 そういって微笑んだひとりの青年はどこか儚い雰囲気をまとっていた。


「あるじ……わたくしのことですか?」


 戸惑いながら頬に片手を添えて考え込む。


「申し訳ありません。わたくし、あなたのことも自分のことさえも思い出せませんわ」


 ぽっかりと頭の中に空洞があって何も思い出せない。


「ええ。貴女は異世界から召喚された身ですから、ここにくる以前の記憶はほとんどないはずです」


 青年のことばにこてんと首を傾げた。


「貴女はこの魔法館の主として、召喚されたのです。魔法館が数多の異世界からただひとり貴女を主として認め喚びよせた。今回の主様は翼ある乙女ですか……美しいですね」


 青年が眩しそうに目を細めて眺めるので、背中の翼をゆっくりと拡げてみせた。やわらかな羽が数本抜け落ちて舞う。


「めずらしいですか?」


 青年が手を伸ばして羽をやさしく捕まえた。


「ええ。この世界の人間に翼はありませんから」


 たしかに。青年の背中には翼などなかった。ではこの世界の人間はどうやって空を翔ぶのだろう。驚きのあまり思ったままのことばが口から飛び出してしまった。


 青年は憂いをおびた眼差しで、指に捕らえたままの羽に口づけて呟く。


「魔法を使えば、この世界の人間でも空を翔ぶことはできます」

「けれど魔法はこころを消費するので」

 誰も空を翔んだりはしたことがないでしょう──、そう結ばれたことば。


 空を翔んだことがない。


 そんな。なんてもったいない。


「空はとても素晴らしいのです」

「きっとこの世界の空も素晴らしいですわ」


 窓の外に目を向けて、確信。


「翔んだことがないのでしたら、」

「ではご一緒に空を翔んでみませんか。わたくし記憶も魔法もないですけれど、高く高く空を翔べるのです」


 驚いている青年の手をひいて。窓を開け放つ。


「さあ、まいりますわよ」


「主様???」


 にわかに焦った様子を無視して、翼をはためかせた。だって空を知らないなんて人生の八割は損です。ぜったいに。ゆくのです、空へ。


 一気に上空へ飛翔すると青年は必死にしがみついて、目を閉じている。


「御覧ください。これがあなたがたの世界ですわ」


 遠くに入江が見えた。小高い丘に館があるので、館の窓からも海は見えるかもしれない。でも海の向こうの対岸までは空を翔ばなければみえないだろう。


「素敵なところですわ。緑も豊かで街も活気があります」


 恐る恐る、青年が眼下の景色に息を呑む。


「いかがですか」


 問いかけに応えはないが、感動している手応えはあった。


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