最推しは飼い猫

べにはら

第1話 恋はするものではなく落ちるものだ(ただし相手は猫)

恋はするものではなく落ちるものだ。

と、江國香織先生の名作「東京タワー」に書いてあった。

でもそんなのは物語の中だけで、現実には一目惚れなんてありえないと思っていた。

けれどひと目見た瞬間、私は彼に魅入られてしまったのだ。

銀色の和毛と大きなぶどうの実のような瞳が美しい——子猫に。


そして気がついたら私と夫は、ペットショップの事務手続き用机で大量の契約書にサインをしていた。

以前から「猫を飼いたいね」と話をしていたものの、まさかこんなに早く飼うなんて聞いていない。

猫はお金がかかる。それに面倒見きれる自信もない。

実家で猫を飼っていたが、ほとんど母親が世話していたので私は餌をやったりお風呂の後のドライヤー乾かし係くらいしか経験がない。

それに平成一桁時代の猫飼いなんて大ざっぱもいいところだ。

今ならアウトなこともたくさんある。

加えて私はかなりのうっかり者だ。自分の過失で猫を怪我させたり、病気にさせたりしてしまうのではないかと恐ろしかった。

だからもっと入念に準備をし、 情報を集めて吟味してから迎え入れようと思っていたのに。


たまたま天気がいいからと高尾山口に出かけたのだが、近辺の飲食店はどこも行列で。

それならと数駅先にあるショッピングモールの中のレストランで食事をし、なんとなくモール内を散策していたら、ペットショップを見かけて。

そこからやっぱりなんとなくペットショップ行脚になり、その日の夜には最寄り駅近くのペットショップにいて、子猫を抱いていた。


その猫——ミヌエットという種類らしい——は、ずっと 後ろを向いて水を飲んでいたのに、私たちがケージの前に座った瞬間振り向いてこちらへやってきたのだ。

フワフワの柔らかそうな銀色の毛は、実家で飼っていた猫にそっくりだ。

彼は剥き身のぶどうのような大きな瞳で私をじっと見つめていた。

猫は基本、人と目線を合わせないと言われている。

実家の猫もそうだった。なのにこの子ときたら、 全く目をそらす気配がない。

(えっ……何この子。俺の事好きなの?)

まるで推しアイドルに目線をもらったキモオタのように舞い上がってしまった。

私は喪女なので、 ちょっと優しくされるとすぐに好きになってしまうのだ。

もう、彼以外考えられなくなってしまった。

ケージ前に張りついている私と夫へ、店員さんが「抱いてみませんか?」と声をかけてきた。

いやいや、 抱いたら終わりじゃん。飼っちゃうじゃん。

まだ即決できなくて、丁重にお断りしもう少し店内を見て回る事にした。

他にもたくさんかわいい子猫がいるのに、頭の中はさっきの子猫で一杯でろくに視界に入らない。

やはり気になってもう一度ケージに張りつく。子猫はやはり、私たちをじっと見つめている。

(やばい……可愛い……好き……)

こんな感情を抱いたのはいつぶりだろうか。押し寄せる巨大感情の波に呑まれ、私はケージの前から動けなくなってしまった。

「抱いてみませんか?」

再び別の店員さんが声をかけてくる。

「ア……アア……」

うめき声をあげることしか出来ないキモオタ(私)に、夫が「もう抱かせてもらおうよ」と優しく諭す。

「抱いたら……好きになっちゃうじゃん!」

飼う勇気もないくせに抱っこするなんて無責任だ。

一生を賭ける気がないなら半端に抱くんじゃねえ!!とBLの受さながらの激情に身をよじる私に、夫が再び告げる。

「だって好きなんでしょ?いいじゃん」

かくして私は、子猫を抱かせてもらう事になった。

店員さんから手渡された子猫は、柔らかくて温かくてちいさかった。

ゴロゴロと機嫌よく喉を鳴らし、私をじっと見上げてくる。

(無理!!!!!!好き!!!!!)

抱っこを交代した夫にも、子猫は機嫌良さげに抱かれている。

「この子を飼います」

夫が店員さんにそう宣言した。店員さんは笑顔で

「今書類を用意しますね」と言い、事務所へと消えていった。

あまりのスピード感についていけず、私はフワフワの子猫を抱きしめて

「人生が流れていく!怖い!!」

と叫んだ。

すると旦那に

「君、マンション買った時も同じ事言ってたよね」

と突っ込まれた。

そういえばそうだった。

私は石橋を叩くどころか手前で立ちすくんで渡れないタイプだが、夫は石橋が壊れないうちにダッシュで渡るタイプだ。

だいたい夫に引っ張られて、人生が思いもよらない方向へ流れていく。

「僕たちはもういい年なんだよ。あと数年したら、猫を飼うのは難しくなる」

夫に以前そう言われていた。

猫の寿命はだいたい15年くらい。長生きしたら20年くらいは生きる。

確かに今の自分達の年齢を考えると、これが最後のチャンスかもしれないのだ。

これ以上年を取ったら、自分達が元気な状態で猫を見送れる保証はなくなる。

下手すると猫に自分が見送られるハメになってしまう。


きっとこれは運命なのだ。

高尾山口へ行かなかったら、出会えなかったかもしれない。

高尾山口へ行ったあとショッピングモールで食事をしなかったら、出会えなかったかもしれない。

それに他にも猫ちゃんをたくさん見たのに、この子しか目に入らなかったのだ。

こんな出会いはもう訪れないかもしれない。


こうなったらもう受け入れるしかない。

大量の契約書を書き、ペット保険に加入し、お店でお迎えセットを選ぶ。

閉店時間になったのにも関わらず、店員さんが丁寧にあれこれと説明してくれた。

そして、最後にうちの猫になった子猫をもう一度抱かせてくれた。

機嫌良くゴロゴロ甘える子猫。悶死する私。エンドレス。

店員さんが子猫を抱っこして見送ってくれた。

すぐにでもお迎えしたかったが、子猫の体調が安定してからということになり、お迎えは一週間後になった。


テンションが上がりすぎてその日は私も夫も一睡も出来なかった。

あんなに可愛い子猫がうちに来る?本当に?夢じゃないのか?

ふわふわとした状態で食事も喉を通らず、眠れない。

そんな日々が一週間ほど続いた。



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