脳をめぐる能のない話

あそうぎ零(阿僧祇 零)

第1話 脳の忘れ物

<しまった! やっちまった!>

 昭夫あきおは、心の中で声を絞り出した。


 今まさに、月に一度の総務部役職者会議が始まったところだ。

今さら、自宅に取りに戻るわけにはいかない。このまま会議を乗り切れるか、不安で頭の中が真っ白になった。いや、本当に頭の中は真っ白、つまり、脳のない空白の状態なのだ。


 西暦2000年代末、脳神経科学が飛躍的に進歩した。

 人間の脳は、その能力の全部を発揮しているわけではないことは、早くから認識されていた。さらに、脳を取り巻く物理的・空間的な制約に関心が集まり、これを取り除くことに焦点が当てられた。

 脳は、頭蓋骨ずがいこつという堅牢けんろうな入れ物に格納され、外部から加わる有害な力などから守られている。しかし、これが返ってあだとなり、脳のさらなる発達を妨げているというのだ。

 この制約を取り除くため、試行錯誤が繰り返され、ついに革命的な方法が実用化された。

ごく簡単に言うと、まず、頭蓋骨の上半分を取り除く。次に、脳とそれ以外を結んでいる神経や血管などをいったん切断し、着脱可能な接続部を双方の側に取り付ける。取り去った頭蓋骨の上半分の代わりに、人工のふたを取り付ける。この蓋には人工皮膚や人工毛が移植されている。だから、これが実用化された時には、頭の禿げた人々から喝采かっさいを浴びた。

 この「脳分離育成術」において、頭髪の問題はもちろん枝葉えだはに過ぎない。

 もっとも重要なのは、人が眠りにつく間、脳を取り外して、培養液で満たされた「脳育成器」に移すことである。これにより、大人になっても、脳は育成器の中で、空間的な制約を受けることなく、発達し続けられるようになった。

 もちろん、脳はその容積が大きいからといって、必ずしも機能が高度であるとは限らない。

しかし、育成器を満たす培養液と、血液中に流し込んだホルモンや栄養によって脳を大きく成長させるとともに、神経回路から脳の機能的な発達を促す様々さまざまな電気信号を送ることによって、脳の機能を高度化させることが可能となった。

 脳が頭に入りきらない大きさまで育成したら、蓋をより容量の大きなサイズのものに取り換えればよい。

 現に、脳の育成具合が著しい人の中には、蓋を閉めた頭の形状が、まるで七福神のひとつ・福禄寿ふくろくじゅのように長くなっている人もいる。

 このような長大な頭を持つ人は、おのずと周囲から尊敬の眼で見られるようになり、俗に「知の巨頭きょとう」などと呼ばれている。

 余談であるが、脳はさして大きくないのに、ひそかにカネを積んで、中身とは不釣り合いの巨大な頭を手に入れる者も少なからず存在するという。

 そのような者は、頭は大きいのに、それに見合うような能力を発揮することができないから、周囲から疑惑の目で見られることもある。これをちまたでは「ズラ疑惑」などと呼んでいる。

 こうして今では、人は夜寝る際には脳を頭から取り出し、寝室に設置した育成器に入れて育成することが広く普及している。分離した脳と体は電波でワイヤレス接続されているから、脳取り外し中も生体機能には何ら問題は生じない。

 だが、いくら科学が進歩しても、完璧ということはあり得ない。脳育成中のワイヤレス通信可能距離は、最長で約1kmであり、それ以上離れると、中継器がない限り通信が途絶える。そうなれば当然、体は「脳無し状態」となるから、たちまち死んでしまう。

 ほとんどの人は、朝起床するとすぐに脳を育成器から取り出して、自分の頭の中に戻す。これを、「脳戻し」と呼ぶ。

 ところが、いつの世にも、うっかり八兵衛はちべえのような慌て者がいるものである。例えば朝寝坊して、慌てて支度して外に出たが、脳戻しを忘れており、通勤途上で倒れて死に至る者も、年間50人は下らない。

 だから、政府や自治体は、あらゆる場を捉えて、「目覚めたら、何はさておき脳戻し」「戻し忘れりゃ、のう・リターン」「朝いちばん、指差し確認、育成器」などと注意喚起を行っているのだ。

 また、こうした事故を防止するため、育成器には「脳戻し忘れ警報機能」が付加されている。脳無し状態のまま体が一定以上の動きすると、警報が鳴る仕組みだ。ところが、夜中にトイレに行く時など、いちいち脳戻しを行っていては面倒なので、この機能をオフにして寝る者も少なくない。


 今朝の昭夫は、その慌て者の一人に他ならなかった。昨夜久しぶりに会った友人たちと遅くまで酒を飲み、今朝寝過ごしてしまった。二日酔いもあって、脳戻しをすっかり忘れていた。

 会議室には楕円形の大きな会議用テーブルがあり、すでに部長以下の役職者約30人が席についている。昭夫は、定刻1分前に滑り込んだ。席は議長兼司会を務める総務部長の隣だ。

<とにかく、この会議を無事に乗り越えよう>

 マネージャーの昭夫は、会社の規則に従い、会社近くの借り上げマンションに住んでいる。会社からの直線距離は約800mだから、特段の問題がなければ、このままでも命に別状はないし、仕事もできる。昼休みにいったん帰宅して脳を自分の頭に戻せばよい。

 もしも忙しくて会社から出られなければ、近くにある別の会社で仕事をしている妻に連絡し、脳を運搬用アタッシュケースに入れて持って来させてもよい。もっとも、その借りは高くつきそうだが。


「ゴホン、それでは役職者会議を始める」

 昭夫が定刻ギリギリに着席するのをジロリと見てから、部長は開会をせんした。 

 部長は、いわゆる上昇志向が非常に強く、上に対しては徹底して忠勤を励むイエスマンだ。一方、下に対しては我が儘わがままで支配的である。昭夫がもっとも苦手とするタイプだ。

「最初に取り上げるのは、最近わが社でも散見される『脳戻し失念事案』だ」

<やはり、おいでなすったか>

 昭夫は部長がこの問題を取り上げることを予想していた。

「あれほど繰り返し周知しているにもかかわらず、社内で失念事案があとを絶たない。幸い、それぞれ的確な応急処置により、大事だいじには至っていない。しかし、重大事故に繋がりかねないヒヤリハットであり、看過かんかし難い事案だ。この問題の主管は労務だな。労務マネージャー、一体どうなっているんだ? 説明してくれ」

「は、はい」

 労務グループマネージャーは昭夫だ。ここで、しどろもどろになるわけにはいかない。

 部長からの追及を見越して、ちゃんと調べてあるのだ。持参した自分用手元資料の該当ページを素早く開いた。

「社内では、今年度に入って、すでに『脳戻し失念事案』が8件発生しております。現場からの報告などに基づき概要を取りまとめましたので、ご報告します。まず、発生原因としましては、前夜の深酒が4件、ふふふふ不眠症によるも………2けけけけ……」

 一同の視線が、サッと昭夫に集まった。


 先ほど、1km以内なら、育成器内の脳と離れても問題ないと書いたが、それは絶対ではない。何らかの原因で、電波に異常をきたす場合がごくまれにある。

 特に最近、太陽表面で起こる巨大な爆発現象「太陽フレア」が、観測史上最大規模になっている。そのため、地球上では大規模な停電や電波障害など、甚大な被害が起こる可能性が高いと、専門家が警告している。今まさに、電波障害が発生しているに違いない。


「たたたたたた対策といたし……ましててててて……」

 昭夫は発語だけでなく、姿勢や手の動きがぎこちなく、明らかにおかしい。

「おい、どうした! まさか、主管の労務マネージャー自身が脳戻しを忘れたのかっ!」

 部長の怒号が会議室に響いた。

「た、たるんどるぞ! そんなことでは、労務マネージャー失格だ!」

 と、その時、部長の表情に変化が現れた。目が不安そうに見開かれ、視線が宙をさまよった。すぐに無表示になり、口をもごもご動かすが、言葉にならない。


 すると、会議出席者のうち、部長と昭夫を含むおよそ半数が、脱力して机に突っ伏した。

 彼らの前頭部が机に当たってたてた「ゴツン」という音は、あたかも意図的に合わせたかのように、見事にそろっていた。まるで儀仗兵ぎじょうへい捧げ銃ささげつつを終えて、銃床じゅうしょうを地面に下ろした時のように。

 残りの出席者は、一瞬何が起こったのか理解できず、ポカンとしていた。

 突っ伏した者と、そうでない者は、ちょうど楕円型テーブルを二分する、短い方の線を境に分かれていた。その線が、電波の届く限界線だったようだ。運悪く、昭夫も部長も、電波が届かない半分に座っていた。

《続く》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る