序・トロッコ問題とその最適解
間野 ハルヒコ
物騒シリーズ
お前、小学校からやり直せよ。
今日もどこかで使われる、人をあげつらった物騒な言葉だ。
言うまでもないことだけど、こんな言葉に従う人など、そういない。
この国では常識だからだ。
誰もが読み書きができ、足し算も引き算できる。
だから、社会は当然に。
それくらいはできるものと扱う。
まるで、そうでない人なんていないかのように。
子供を学校に行かせない。
そんな酷いことをできるのは余程の悪意の持ち主だと思っていたけど、実際はそうでもなくて。
あんなのむしろ、悪意の方ずっとマシ。
グズグズに腐ったクズ人間だった。
いくら何だってあんな理由はないと思う。
ただ面倒くさかったからなんて。
さて、長くなってしまった。
物語をはじめよう。
KとはSNSで出会った。
すみません! 誰かこれわかる人いますか!
表示されたのは文と参考書の画像。中学校で履修する素因数分解の公式と例題が並んでいる。
いつもなら、どこからかやってきた善人たちが我先にと教え始めるけれど、今日は一向に反応がない。
しばらくして気づく。
今は夜中の三時で、誰も起きてやしないのだ。
原稿も終わったし、推敲作業をするにも日を置きたい。明日の講義は午後からで、提出するべきレポートもなかった。
せっかくだ。寝る前に善人のまねごとでもするか。
わたしは答えを書き、素因数分解の説明をし、詳細が記載された学習サイトのURLを添付して床についた。
翌朝にSNSを開くと、妙に感謝されていた。
わたしが普段生きていて人に感謝されることなんて、脱稿した時と世に出たシナリオが読まれた時なので、新鮮だった。
女性向け音声作品なら一本2,3000文字。動画配信サイトのアニメ動画の仕事なら5,6000文字。
書いたことないけど、ライトノベルなら一冊10万文字程度かかる。
それを考えると、たった140文字程度の文章でここまで喜ばれるのはコストパフォーマンスがいい。金にはならないが、いい気分転換になる。
始まりはそんなゲスな理由だった。
まぁ、わたしなんてそんなものだ。基本的に私欲のために生きている。
たとえ始まりは偽善でも、習慣になれば善行に見える。
それはいつしかサイクルになり、わたしは日常的に勉強を教えるようになった。
最初は小さな違和感だった。
数学や英語の質問は来るけど、国語や物理、科学や歴史に関する質問は無いのだ。
まぁ、そういうこともあるだろう。
もしかしたらKの得意分野なのかもしれない。
そういえば、わたしも国語についてはあまり勉強した覚えがない。
だから、そういうものなのだろう。
そう納得することにした。
次に違和感を覚えたのは仕事だった。
話をしてみると、どうやらKは加工業界で働いていて、ISO事務局というのをやっているらしい。
規格管理をするとかで、大学生のわたしにはぱっと聞いただけではイマイチよくわからなかった。
客先対応やルールの施行、改定を行っているそうだ。社会管理に相当する業務なのだろう。
学費を稼ぐために何でも書くわたしとは雲泥の差だ。
なぜそんな人が教えを乞うのだろう?
謎は深まっていく。
そして、ある日。
違和感は無視できないものとなった。
あの、ここがわからないんだけど。と送られてきたのは数学ではなく。
算数だった。
それも分数の足し算だ。
3分の2とか、5分の2とかだ。
最初は馬鹿にされているのかと思った。
でも、もうわたしは知っている。
Kはそういう人じゃない。
それにそもそも、わたしを馬鹿にするメリットなんてKにはないのだ。
じゃあ、なぜ?
わからない、わからないけど。
わたしはいつも通り勉強を教えた。PC上では打ちにくいので、手書きのノートを撮影して、画像を添付した。
とても喜ばれた。
Kによれば、わたしのような人はとても貴重で、大抵は馬鹿されて終わるらしい。
だから、初歩的な事ほど質問しづらく、学習しにくい。
今回は勇気を出して聞いてみたのだそうだ。
ありていに言えば「わたしを信じた」のだ。
そうか。Kのつぶやきに群がっていた善人たちも、裏ではKを馬鹿にして関係を切ったりしていたのか。
きっと、わたしが感じたように馬鹿にされたと思ったのだろう。
そうして反射的に攻撃してしまったのかもしれない。その気持ちは理解できる。そういう愚かさなら、わたしも持っている。
でも、問題はKだ。
何も悪くなくても、問題はKにある。
ずっと考えないようにしてきたけれど、もう見ないふりはできない。
絶対に面倒なことになるけどしょうがない。ここで無視して他人でいられるほど、わたしは薄情になれなかった。
そんな理由で軽率に、わたしは心に踏み込んだ。
Kって学校通ってないの?
Kは書き淀んだ。ダイレクトメールの発言欄に、筆記中を示す点が現れては消える。
何かを書いては、消しているのだ。
自分が書いた文を読み返して青くなる。
受け取りようによっては物凄い悪口だ。
小学校からやり直せよ。
そう言っているのと変わらない。
なんて言って取り繕おう。
明らかに中学校は卒業してないよな。
大学に通っているわたしがKにかけられる言葉なんてあるのか?
わたしが距離感を測れずにいると、Kが書き込んだ。
一度も行ったことないよ。
Kからの返事に安堵して、また緊張する。Kがどう思っているのか、まだわからない。
来月から夜間中学校の体験会があって、初めて学校に行くんだよ! 楽しみ!!
思いのほか明るい言葉が続いた。
反射的に「それはよかったね」と返す。
夜間中学校?
夜間高校じゃなくて?
検索すると文部科学省のHPがヒットした。確かに存在するらしい。
ただ、全国で12の都道府県にしか設置されていない。
つまり、夜間中学校がない県も普通にあるわけだ。
Kが続ける。
体験会だから、まだ夜間中学校はないんだけどね。でも、体験会によっては夜間中学校作るかもしれないんだって!!
各都道府県に一校は設置することが望ましいとされているが、現状では設置が遅れているらしい。
一校って、家が近くないと通えないじゃん。行政の不備過ぎるだろ。
わたしが毒を吐くと、Kはあっけらかんとして言った。
なんかね。どれくらいの人が通うかわからないと学校作るのも難しいんだって。
だから、私が実績を作って次に繋げるんだ、と。
わたしよりも年上で、でもどこか幼そうなKと話していると複雑な気持ちになる。
気になることはいくらでもあった。
学校に通うの初めてってことは小学校にも通ってないのか?
通ってないよー。
履歴書とかどうしていたんだ。
詐称したよ。
すごくしんどかった。
そうしないと、誰も雇ってくれないものな。Kは根が真面目だから、余計に苦しんだろう。
あ、でも。
今働いてるところではちゃんと全部話してるよ。やっぱり嘘つくのはよくないね。心がしんどい。
そうか。
今、家とかどうしてるんだ?
彼氏の実家に住んでいるよ。
ネット恋愛からだね。
そうか。
ちなみに一度離婚してて娘もいるけど、親権もらえなくて離れ離れだよ。
その時の弁護士費用はまだ払い続けてるよ。いつか、顔だけでも見たいな。
そうか。
やっぱり学校通ってないとダメだね。生活力ないって判断されちゃうから。
あー、学歴ほしー。
学歴を理由に母であることを認められなかったKに「学歴は関係ないよ」なんて言えない。
そして、小学校に通うことすらできなかったKに子供を預けるより、学歴があり金持ちだという元旦那を選んだ裁判所の判断も、否定できなかった。
わたしはただ馬鹿みたいに「そうか」と繰り返し、「辛いね」と添える他なかった。
聞けば聞くほど救いがなく、どうしようもない人生で、不幸としか言いようがな
別に自分を不幸だとは思わないよ。
だって、今は幸せだし。
勝手に人を不幸にしないでよ。
なぜ、そんな風に生きられるのだろう。
そんな言葉が口を突いて出る。
Kの人生って、書いたら面白そうだよな。
失言だった。
Kは大喜びして言った。
え、書いてくれるの!? ほんとに!? 確かに君が書いてくれたほうが、絶対人目に触れるよ! 君には才能があるし!!
待て待て待て、待ってくれ。
落ち着いてくれ。
やだ! 落ち着かない!
だって、この前。純文学部門で一位だったじゃん!! 題材も似てるし!! 需要あるよ!!
Kは全然そういう話をしないので興味ないかと思っていたけれど。いつの間にかきっちり読まれていた。
確かにわたしは依頼がない時に小説を書き、小説投稿サイトに出している。
それを読んだ企業の依頼で、学費を稼いでいるわけだ。
つまり、Kの人生で私腹を肥やすことにならないか?
わたしにはノンフィクション作家の父がいて、あいつは面白いものなら家族だろうが根こそぎ使い潰すクソ野郎で。
最近じゃ大量の自殺者が出た実在の事件を題材にして一山当てやがった。
被害者の傷をほじくり返すようなことをしやがって、ああいう奴にだけはなりたくない。
一身上の都合につき、お断りします。
そんなことを告げてみる。
それでもKは止まらなかった。
君が書いた方が絶対人に読まれるじゃん。
何書いてもいいよ。信用してるから。
それに。
それに、もっとたくさんの人に夜間中学校のこと知ってもらいたいしさ。
フォロワー6000人超えじゃん。
拡散してよ。
人助けが趣味なんでしょ!
ひどい誤解だ。
善人だと思われている。
それに、わたしの拡散力なんてたかが知れている。Kからすればそうでもないのだろうけど。
こうしている間にも長文が書かれているのか、筆記中を示す点が現れては消えていた。
ふと、恐ろしい可能性に気づく。
わたしは父のことを話してしまった。
もし、Kが書いてと言えば。あいつはKのすべてを使い潰すだろう。
その周辺にいる人物のことも根こそぎ調べ上げて、あらゆる罪を引きずり出す。
その結果、被害者や加害者の人生がどうなろうが、歯牙にもかけない。
むしろ、面白おかしく騒ぎ立てて金に換えようとする。
秘密を引きずり出された加害者が暴走して殺人事件を起こしても、嬉々として続編のネタにするような奴だ。
絶対に関わらせたくない。
気づかれる前に可能性を刈り取る他ないだろう。
ごめん、やっぱり書く。
書かせてくださいお願いします。
こうしてわたしはKの人生を書くことにした。
聴取した内容だけでも3万文字を超え、そのままでも十分に面白かった。
でも、そのまま使ったりはしない。
それでは父と同じだ。
わたしは人の人生を使い潰したりしない。
そんなことをしなくても面白い物が書けると証明してみせると、かつて虎に誓ったのだ。
そんなわけで、今回はプライバシーに配慮し、身元がわからないよう大量の創作を混入させている。
かなり手を加えたので、どこの誰かなんて誰もわからないだろう。
もちろん、ここまでのKにもわたし自身にも嘘を混入させている。
もしかしたらKは男性かもしれないし、わたしは女性かもしれないし。
この馴れそめすら嘘でKは高校時代の同級生かもしれない。
つまり、推理など無駄というわけだ。
それくらい嘘が混ざっていると思って読んでもらいたい。
もっとも、Kはバレても徹底抗戦すると鼻息荒くしていたし。
この話を公開する一ヶ月ほど前に、わたしたちが最も警戒していたKの父親の死亡が確認されたので、その必要性も薄れたけれど。
せっかくだから公開しようと思う。
もっとも、この序文はこれ単体で完結させて小説投稿サイトに投稿するし。
どの短篇がKの話かすら、明言しないけどね。
さて、今回たくさんの嘘をついたけれど。
偽らなかった部分がいくつかある。
それはKが感じ、思ったことと。
トロッコが通過した
Kの人生には何度も暴走したトロッコが走っていた。
その先は大抵二つに分かれていて、トロッコが右に行っても誰か死に、左に行っても誰か死ぬ。死なないまでも、酷い目にあう。
そんな人の一生を左右する選択を強いられた人達がいた。
彼ら彼女らはどちらかを選び、または選ばないという選択をする。
その結果、数多の苦痛と悲劇が生まれ、絶望が撒き散らされた。
それでも皆、選ばなければならなかった。
逃れることなどできなかった。
ある時は良心に従い、ある時は保身に走って。皆、トロッコを見送った。
そうして残った轍の前にわたしは立っている。
それは。
美しくも激しい、血の
流石にここを偽るわけにはいかないだろう。
さて、本当に長くなってしまった。
これにて序章はおしまいだ。
今こそわたしは虎となり。
欺瞞をもって血肉を記そう。
序・トロッコ問題とその最適解 間野 ハルヒコ @manoharuhiko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます