第21話 エステルの過去


 エステルが生まれたレグ村は、貧しい辺境の地にあった。

 村には神官も医者もおらず、怪我をしたら自力で薬草をつけられれば良い方で、時にささいな怪我で亡くなる者もいた。

 だからエステルが十歳の時に、村にパルノア教の女性神官が聖地巡礼の途中にやってきた際は村人総出で歓迎した。

 神官には癒しの力が備わっている。治して欲しい者はたくさんいたし、彼女がもたらす外の世界の情報は貴重だった。エステルは弟や近隣住民と共に、秋の色が広がる広場でノーリーンの話を興味深く聞いていた。


「王都には大神殿があり、そこには聖女様が住まわれています。当代聖女のローズ様は公爵令嬢ですが、八歳の時から現在に至るまで八年間もの間、聖女を務めていらっしゃる尊い御方です」


「へえ……」


 エステルは素直に驚いた。


(八歳って……私より年下の時に……?)


 もちろん庶民は幼くても家族の仕事を手伝うことは普通だが、貴族なら自分がわざわざ行う必要などないだろうに。

 神殿女官になれば報酬はもらえるだろうが、きっと貴族からしたら割に合わないに違いないのに。

 幼くして、そんな大役を務めると決めたその聖女に、エステルは興味が湧いた。

 それで少しだけ勇気を出して集団の中から、ぴょこっと手をあげて発言したのだ。


「あ、あの……! わ、わたしも、神殿女官になれますか!?」


 ノーリーンは「ふむ……聖力がなければ難しいですね」と、ゆったり首を傾げてから、じっくりとエステルを見つめ──糸のような目を大きく見開いた。


「ああ! あなたには聖力がありますね。薄っすらとですが、体にまとっている気配があります」


「え!? ほんとうに!?」


 ノーリーンの言葉に、村人達も「エステルが?」「嘘だろ……」と、ざわつく。

 エステルは胸に両手をあてて、つぶやく。


「嘘みたい……」


 こんな幸運が舞い込んでくるとは夢のようだ。

 ノーリーンが優しく目を細める。


「神殿女官になりますか? 希望するなら、私が推薦状を書きますよ」


 その問いかけに反射的にうなずきかけて──隣にいた幼い弟がエステルの袖を引いた。


「おねえちゃん……どこかにいってしまうの?」


 弟の心細げな声に、エステルは次の言葉を紡げなくなる。弟はまだ五歳だ。忙しい両親に代わって、母親代わりに面倒を見ているのは十歳のエステルだった。

 ──神殿女官になるには、村から遠く離れた王都に行かなければならない。

 そうなったら簡単に実家に戻れなくなるだろう。

 それが分かってしまって、エステルは二の句が継げなくなったのだ。

 押し黙ったエステルに何を思ったか、ノーリーンは穏やかに言う。


「すぐに決めなくても大丈夫ですよ。あなたはまだ幼い。ご家族とも相談してみてください。……私は村長さんの家に滞在していますから、気持ちが固まったらいつでも訪ねてきてください」


 その言葉に、エステルは首肯した。






(お腹がすいたな……)


 畑に出ている両親の代わりに夕食を作る。

「遊んで」と駄々をこねる弟をあやしながら、エステルは臼を引いて小麦を粉にしていた。

 今晩は貧相な根野菜を少し使ったスープと小さなパンだ。

 これでも食べられるだけマシな方だった。今年は悪天候のせいで不作だ、と父親が嘆いていた。もっとひどい年は木の根をかじって空腹をまぎらわせることもある。

 エステルは隙間風の吹く家の壁をぼんやりと見つめた。


(私が神殿女官になれば……きっと、お父さんやお母さんも喜ぶよね。お金を持ってくれば、きっと生活ももっと楽になるし……弟に栄養のあるものを食べさせてあげられるわ)


 家族と離ればなれになるのは寂しい。

 けれど村から神殿女官に選ばれる者が出たら、村人達は喜ぶに違いない。両親もきっと誇らしいだろう。

 それにエステルが聖力を磨けば、里帰りした時に村の皆を癒すことができる。もし神殿で出世できたら、村に神殿女官を派遣することだってできるようになるかもしれない。

 両親が戻ってきてから、エステルは昼間あったことと「神殿女官になりたい」と気持ちを告げた。

 父親も母親も寂しがっていたが、最終的にエステルの気持ちを尊重してくれることになった。弟にはさんざん泣かれて添い寝することになってしまったが。

 翌日、エステルは弟を連れて村長の家に向かったが──。


「え? いない?」


 困惑して、そう声を発したエステルに、年老いた村長は困ったように眉を下げる。


「そうなんじゃよ。昨晩、急に神殿から使者が来てな。ガイダ渓谷の神殿で何事かあったようで、ノーリーン様も呼ばれて行ってしまったんじゃよ」


「そんな……」


 ショックで次の言葉が発せなくなる。

 村長は慌てて頭を振った。


「じゃが、ノーリーン様はエステルのことを気にしておいでじゃった。終わったらすぐに戻ると言っておられたよ」


「そうですか……」


 それなら、その言葉を信じるしかない。

 村長は満面の笑みを浮かべている。


「それにしても、村から神殿女官が出るとは喜ばしいのう。ノーリーン様に書いていただく推薦状以外の書類は、早めに用意しておきなさい。わしが書いた書類を見てあげよう」


「は、はい! よろしくおねがいします!」


 ぺこりと頭を下げる。村の子供達は村長から文字の読み書きは教わっているが、使う機会があまりないため、すぐ忘れてしまう。エステルも一人で作成するのは自信がなかった。

 神殿女官になるためには推薦状を含めた身辺書類一式を冬の終わりまでに王都の大神殿に提出しないといけない。それができないと神殿に入れるのは翌翌年の春になる。

 それを村長から教えてもらって、エステルは不安に駆られた。


(推薦状……間に合うかしら……?)


 レグ村はイブリース王国の端にある。

【転移門】をいくつか経由すれば王都まで十日ほどで到着するらしいが、それを使えるのは高い通行料を払える貴族や商人だけだ。

 エステルが王都に書類を届けたいなら、月に一度村にやってくる行商人に依頼するか、たまたま村に立ち寄った巡礼者などに頼むしかないだろう。

 窓の外には頂が白く染まる険しいガレイ山が見えた。ガイダ渓谷はそれを越えた先にあるのだ。そして冬季にはガレイ山に慣れた村の者でも登れなくなる。


(大丈夫……まだ秋だもの。きっと、ノーリーン様はすぐに村に戻ってきてくださるわ。そうよ。もう、こちらに向かっているかもしれないし)


 そう自分に言い聞かせて、毎日を過ごした。

 ──けれど雪がちらつく時期になっても、ノーリーンは村に帰ってこなかった。


(時間がない……)


 もう秋の終わりだ。冬が始まればレグ村は訪れる者も減り、閉ざされた大地になってしまう。おそらく次に行商人がやってきた時が最後のチャンスになる。

 それまでに推薦状を用意できなければ、来年の春に神殿に入ることができない。


(後はノーリーン様に書いてもらうだけなのに……っ!)


 村長が手伝ってくれたおかげで、すでに書類一式の用意はできていた。何度も確認したから間違いないはずだ。

 推薦状には、『パルノア教のノーリーン・マクミランはレグ村のエステルを神殿女官として推薦します』という簡素な文とサインだけで良いと村長が言っていた。彼は『わしは他の村人の推薦状を見たことがあるんじゃ』と胸を張っていた。


(そのくらいで良いなら、私にも書けそう……)


 一瞬そう思ってしまい、慌てて頭を振った。


(きっと、すぐにノーリーン様は村にいらっしゃるもの)


 日々食べ物が減り、エステルのそばで空腹を誤魔化すために指をくわえて眠る弟を見おろして、ぎゅっと拳を握りしめる。

 ──今年は大丈夫でも、来年は? もし不作の年が続いたら?

 エステルのような貧乏な家の子供は生きられないかもしれない。

 そんな不安で胸がいっぱいになる。


「大丈夫……大丈夫よ、きっと……」


 その時、村の入り口の方から村人達の歓声があがった。

 エステルは慌てて立ち上がり、そちらに向かっていく。


(ノーリーン様だ! 戻ってきてくださった……!)


 そう期待に胸をふくらませたが、村の入り口にいたのは顔なじみの行商人の馬車だった。






 行商人は二日ほど村長の家に泊まったら、去ってしまう。

 書類を届けてもらうなら、これを逃すともう次がない。再来年になる。

 エステルは迷って──迷って迷って、父親の「来年も不作になりそうだ」と言う言葉を聞いて覚悟を決めた。

 書類を偽造し、皆に見られていない時を見計らって行商人に書類を王都の大神殿に届けてくれるよう頼んだ。幼い頃から顔見知りの彼は、快く引き受けてくれた。

 そして雪解け水が川に流れる頃に、大神殿から手紙と【転移門】の通行許可証が届いた。

 手紙には、エステルを神殿女官として預かると書かれていた。それを見て、エステルは飛び上がって喜んだ。家族や村人達も自分のことのように嬉しそうにしてくれた。

 ちょうどその頃、ノーリーンが村に戻ってきた。彼女はすぐに戻れなかったことを何度も謝っていたが、エステルはぎこちなく首を振って嘘を吐いた。


「神殿に事情を伝えたら例外的に許してくださったんです。後で提出すれば良いと」


「そうなんですか?」


 ノーリーンは首を傾げていたが、「まあ、当代聖女様はお優しいと聞きますし。私がいた頃より規則が緩くなったのかもしれませんね」と納得していた。


(大丈夫……これから王都の大神殿に入ったら、こっそり推薦状を本物とすり替えたら良いんだわ)


 エステルはノーリーンに書いてもらった推薦状を大事に鞄にしまい、号泣する家族や村人に手を振って王都に向かった。






(誰かに気付かれないうちに推薦状を入れ替えないと……)


 そう思うと焦ってしまう。

 大神殿の女性神官達は親切で、エステルは書類を偽造してしまったことが心苦しかった。


(本当は、私はここにいられるはずじゃなかったのに……)


 そう弱気になるたびに、


(いやいや! だって、どうせいずれ推薦状はもらえるはずだったもの。提出した時期が少し前後するくらい、大したことないわよね……!)


 こんなふうに自分を慰めた。

 誤算だったのは、エステルの書類は書庫に収められており、そこの鍵は女官長キンバリーが管理しているらしいことだった。スペアキーはない。

 だが女官長は書庫の掃除は女官に任せていたので、エステルは率先して書庫の掃除に名乗りを上げた。

 そして懐に本物の推薦状を忍ばせて緊張しながら書庫を捜索したが……。


(ない……っ! 私の書類がない!)


 いくら探しても見当たらなかった。

 そして後日、推薦状は書庫の鍵のかかった奥の小部屋にあることを知る。神殿の重要書類はそこに収められており、責任者の女官長キンバリーは決して鍵を手放さないのだと。

 窓にもしっかりと鍵がかかっている。ガラスを割って侵入するのはリスクが大きい。


(もう、これじゃあどうしようもないわよね……)


 神殿にも無事に入れたんだから、これから書類が偽物だと発覚する可能性は低いかもしれない。それなら危険を犯して鍵を入手して小部屋に入らなくても……そう思う気持ちもある。

 けれど、どうしても一抹の不安がしこりのように心の奥から消えなかった。


(でも、もし誰かに見つかってしまったら……?)


 神殿から追放されてしまうかもしれない。そしたら、家族の生活はどうなる? あんなに村人達は祝福してくれたのに、これからはエステルを見る目が変わるかもしれない。

 そして、その不安はエステルから快活さを奪った。もしかしたら気付かれているのではないかと恐怖でビクビクしてしまい、印象の残らない風貌にしたくて分厚い眼鏡とみつあみをするようになった。

 そんな日々の中で、エステルはある日、うっかりと廊下の真ん中で転んで書類をぶちまけてしまった。周りから嘲笑が起こる中、前からやってきた女性が書類を拾い上げてくれた。


「大丈夫? 怪我はない?」


 そう優しく声をかけてくれたのは──。


「聖女様……」


 聖女ローズだった。

 彼女が先ほど笑った少女達を睨みつけると、彼女達はビクリと身を震わせて「すみません!」と頭を下げて早足で去って行った。

 呆然としているエステルに、ローズは「あら?」と首を傾げる。そして手首をそっとつかまれ、転んだ拍子に擦りむいた手のひらを広げさせられる。


「擦れているみたい。治しておくわね」


「そ、そんな……っ! 聖女様自らなさらなくとも……!」


 ローズと共にいた女官長キンバリーが慌てた。

 あまりにも恐れ多くて、エステルも固まってしまう。

 しかしローズは朗らかな笑みで「気にしないで」と言うと、制止の隙も与えずに傷を癒してしまった。


(これが……聖女様のお力……)


 エステルも神殿女官だから自分で治癒はできる。他の神殿女官にしてもらったこともある。けれど、ローズから与えられる聖力はそのどれとも違った。


(なんだか、心まで癒されているような気がする……)


 手のひらの傷と一緒に、ずっと一人で抱えていた悲しみや苦しみが消えたような気がした。

 その神々しさとは相反して、ローズは年相応の笑みを浮かべる。


「何か困ったことがあったら、いつでも相談してね」


 そう言ってくれた。


(──その言葉に、どれだけ救われたか……)


 ローズはきっと覚えていないだろう。たとえ聖女が神殿女官達にかけるごくありふれた言葉であったとしても、エステルの心は軽くなった。

 それ以来、密かなに聖女ローズへ憧れを持つようになった。遠くから彼女の凛々しい姿を見つめるだけで、「あんなふうになりたいなぁ。かっこいいなぁ」と尊敬が胸の火を灯した。

 聖女の間に飾る花を育てる仕事を引き受けたのも、少しでも彼女に近付きたかったからだ。

 ──けれど、エステルは誰よりも自分が聖女の側近にふさわしくないことを知っていた。


(私は……嘘を吐いているもの……)


 その思いが、エステルから自信を奪った。

 自分にはできるはずがない、だってその資格がないから。そんな思考が、ささいなミスを誘発していった。エステルは若い神殿女官達からあなどられるようになった。

 ──そんな時だ。また書庫に入るチャンスを得たのは。

 女官長キンバリーがたまには奥の部屋を掃除しなければ、と愚痴を話しているのを聞いたので、「お手伝いします!」と勢いよく名乗りを上げた。

 エステルが失敗続きであることを知っているキンバリーは、少し顔をしかめて悩んだ様子だったが「まあ、良いでしょう。手伝ってください」と了承してくれる。

 そんな様子を面白くなさそうに見つめるルシアの視線に、エステルは気付かなかった。

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