第4話

 新興宗教団体『モズの家』は文字通り、謎の団体だった。法人登記もなく、規模や外郭、活動内容は一切不明。

 唯一の手掛かりは教団のホームページだった。トップページには件の紋様と共に『このマークに見覚えのある人は連絡を』という短い一文が付され、その下に本部とみられる住所が記されていた。

 住所が指し示すのはゐ尾市北東の山間部。そこは隣県にかけて広がる雄大なカルスト台地の中であった。

 場所は山頂に近かったが、カルストの尾根を横断する国道のお陰で、希はわざわざ登山せずに済んだ。

 目的地は国道から少し分け入ったところにあり、希は道路脇に車を止めると、徒歩で牧草地の中に足を踏み入れた。

 空は晴れていて、辺りには雲の欠片すらなかった。穏やかに吹く微風が心地よく、牧歌的な風景はこれから先で待ち受ける現実を束の間忘失させた。

 少し歩くと、右手に小高い丘が見えた。丘の上には三脚を立て、カメラを構えた男性が幾度となくファインダーを覗いてはレンズの倍率を絞っていた。

 やがて、地面がなだらかな降坂となり、そこを下った先に一軒のロッジが佇んでいるのが見えた。

 あれだ、あれがモズの家の本拠地だ―希は直感した。宗教施設特有の禍々しさもなければ。荘厳な風格もない。だが、周囲にはそれ以外の建物はなく、異物の如く鎮座したロッジは、言葉に出来ない異様な雰囲気を周囲に放散していた。 

 希は一瞬、歩みを止め、ポケットの中に忍ばせたサバイバルナイフを握りしめた。万が一何かがあれば、これを使うことも覚悟しなければならない。護身のために持ってきたはずだったそれは、かえって、彼女の緊張を増幅させた。

 再び歩みを始めたが、その足取りは以前に比べて明らかに重く、慎重になっていた。


 太い樫の木で組み上げられたそのロッジは、宗教団体の本尊というよりも誰かの別荘のように思えた。

 玄関前には大きく広いポーチに続く階段があり、希はそれを昇った。そっと、なるべく音を立てずに上がったつもりだったが、朽ちた木材の擦れ合う音が悲鳴のように希を出迎えた。

 玄関の前には楕円と十字の紋様を刻んだプレートが掲げられていた。

 間違いない。ここが「モズの家」だ。

 彼女は深呼吸をして、真鍮の呼び鈴を押した。返答はなかった。

 玄関横のガラス窓にはカーテンが掛かっており、留守のようであった。希はカーテンの隙間から室内を覗き込んだ。

 部屋に取り立てて変わったところはない。ダイニングテーブルにはジャムの瓶とマグカップが置かれ、壁には真新しいカレンダーが掛かっている。

 不意に額に入れられた大判サイズの写真が、希の目を引いた。よく見ると、それらはどれもカルストの山々を写した風景写真であった。

 ナイフを握る手にクッと力がこもった。頭には先ほど丘の上にいた男の姿が過った。

 いつの間にか微風が止み、凪が来ていた。

 突然、彼女の背後でポーチの階段が呻き声のような軋みを上げた。

「うちに何か御用かな、」

 飛び上がって振り返る彼女にはナイフを突き出す余裕もなかった。

 ポーチの階段に居たのは思った通り、丘の上で見かけた男だった。剃り残した青髭を浮かべ、初老に差し掛かろうとした顔には薄く皴が刻まれている。

「モズの家に用があって来ました」

 早まった鼓動を隠すように、希は毅然とした口調で言った。

「じゃあうちで間違いはない。私がその、モズの家の代表だよ」

 男の風貌をじっくり観察し終える頃には希の手はナイフの柄から離れていた。

 これがモズの家の代表?― 身構えていた自分が馬鹿に思える。男の頼りなげな様子に希は拍子抜けした気分だった。

 彼に案内され入室したロッジの中は予想通り、家だった。特別礼拝めいたことをする施設もなければ、大仰な飾りつけもない。男の自宅、壁にあの紋様を編み込んだタペストリー掛かっていなければ何の疑いもなくそう思ったかもしれない。

 窓からは死角になって見えなかったが、電話台の隣に女性の遺影と位牌が並べられていた。

「妻だよ。もう死んで10年以上になる」

 彼はそう語り、ダイニングへ座るよう希に促した。

 彼は取り留めもない世間話を二三投げかけ、インスタコーヒーしか用意がないのを詫びると希と向かい合う形で席に着いた。

「で、モズの家にはどのようなご用件かな」

 とぼけたような口調に希は唇をかんだ。出されたコーヒーにはあえて手を付けなかった。

 希は嘆息を吐き、単刀直入に尋ねた。

「………私に見覚えある?」

 男は驚いた表情を見せたがすぐに眉をしかめ、希の顔をじっと見つめた。

「いや、すまない……もしどこかでお会いしていたのだとしたら―」

 苦笑する男を遮り、希は拳をテーブルに叩きつけた。カップがカチャカチャと音を立て、波打ったコーヒーがわずかに溢れ机に零れ落ちた。

「ふざけないでッ! 3年前の8月13日のこと、忘れてるわけないでしょう!?」

 怫然とした態度を隠すことも厭わなかった。弱々しい男の雰囲気が高まった激情をさらにヒートアップさせた。

「い、いや………本当に何の話か……」

 男は体を引き、口をつぐんだまま希の怒号を受けた。

「あなた達が私を誘拐し、子供作らせた。そこまで言わないと分からない?」

 それまで、戸惑いが張り付いたまま動かなかった男の表情が、希の言葉で大きく変化した。

 男は口を開き、希の顔を見つめると、大きな溜息を吐いた。

「あんた、あの痣があるのか……?」

 男の手がタペストリーを指差した。希は腕をまくり、それと同じ形の痣を見せた。

「そうか……なるほど、君の用とはそのとこか……」

 男は痣に視線を移す、情動を抑えるようにコーヒーを飲んだ。

「悪いが、それは我々が付けた痣ではない」

「はぁ?………じゃあ誰が――」

 男の頭が動き、壁の写真を見た。

 それは窓から見えた通り、ゐ尾市の山々の風景を写した写真だ。季節や時間もばらばらで、素人目に見ても、上手と言える代物ではない。

 男が見ていたのはその中の一枚だった。朝焼けを写したものか空はまだ薄暗い。手前にはススキに覆われたカルストらしき丘があり、その丘の上に――

 光る大きな塊があった。どうにも形容しがたい塊は強烈な光を発し、空に浮いている。

「知っているか、ゐ尾市の山中ではこのような発光体が無数に目撃されている。その頻度は世界的に見ても異常な数だ」

 ほかの写真に視線が転じると、それまで風景写真だと思っていたそれらはどれも、この光の玉を写したものであった。

 意味も分からず、訝しむ表情で希は男を睨む。

「信じられないのは分かる。だが、事実だ。ある日突然行方不明となり、戻ってくると子供を授かっている。なにがあったのか、一体誰の子供か、一切の記憶がない。残されたのはその紋章だけ。

 かつて、私の妻も同じ経験をした。私も最初は妻の不貞を疑った。私は病気で、子供が出来ない体だ。だから、寵児を望んだ妻が私に黙って不貞を犯したのだと。妻は私が何度問いただしても、記憶がないと弁明する。だから、我々夫婦は記憶喪失の治療として、退行催眠を受けることにしたんだ」

 男はコーヒーを持って立ち上がり、写真の前に佇んだ。

「妻はあの光に導かれ、光の中で子を授かったと語った。催眠状態の中、恐怖し怯え、子を孕んだ嫌悪感を必死に訴える妻の言葉は、嘘には思えなかった。子どもは無事に生まれた。普通の子だった。我々は考えた。この子が生まれた意味、その光が我々に子を授けた意味を。そうして次第に子どもは神が授けてくれた贈り物ではないかと考えるようになったんだ」

 写真を眺めながら語る男に希は顔をしかめ、閉口する。

「彼らは我々人間の女性を無作為に選び、その御子を孕ませる。その証拠として、痣を残すのだ。君のその腕のように。私はこれまで君と同じように痣と子を受けた女性を何人も見てきた。我々のように誕生を喜ぶ人間もいれば、悩み苦しむ人もいる。私がモズの家を作ったのは、そういう人々同士でこの現象の意味を考えたいと思ったからだ。教団のシンボルマークが痣と同じなのはその為だ」

「そんなの馬鹿げてる。彼ら? その彼らって一体なんなの?」

「分からん。だが、あれは我々の人知を遥かに超えた高い存在だ。それに最も近い言葉は……神かもしれんな」

 振り返った男の眼差しに希は思わず後退った。光彩の奥に蓄えられた得も言われぬ重厚な気迫は、彼女の反駁する気概をいでしまった。

 サバイバルナイフのことがほんの束の間、頭を過った。言葉に出来ない空気の圧から逃れるために彼女は必死に頭を巡らせた。

「子ども……そう、その子供は? 今どこにいるの?」

 男はコーヒーを啜り、静かに言った。

「彼らは自分達の子が3歳になると迎えに来る」

 希の頭に浮かんだのは喜納子のことだった。彼女の子供も3歳で行方不明になっている。そして――

「君の子供は今いくつだ?」

 今日は息子が3歳になる誕生日だ。



つづく



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