第8話――着手


「隣って? 一体、何のことです!? 誰かいたんですか!」


 後ろを振り返りながら正美まさみは怯えるような目つきで、由良ゆらに問いただした。

 彼は周囲を見渡した後、正美の方に向き直った。


「……ええ。確かにいました」


 正美の表情がさらに強張る。


「だ……! 誰なんです?」


 由良は再び辺りに目をやりながら、


「顔は確か……」


 そっと額に手をあてた。


「ど……どうしたんです?」


 正美は不安の表情をゆがませた。

 由良は言った。


「……おかしい。喫茶店で向き合っている時、顔をはっきり見たはずなのに……思い出せない」


「……思い出せないって……どういうことです?」


 由良は思わず眉をひそめた。


(何だこれは?……。まるで記憶の中で、その部分だけ消しゴムで消されたかのよう……)


 由良は再び周囲を見回した。

 思わず目をく。


 離れた向こう。


 行き交う人波の中で、髪の長い女性が一人だけ立ち止まって此方こちらをジっと見つめていた。

 顔は見えそうで、前を通り過ぎる通行人でさえぎられている。


 その時だった。


 付近の国道で、左車線を走っていた車の窓からタバコの吸い殻が投げ捨てられた。

 ちょうど後方で、左折しようとバイクを斜めに倒していたオートバイの運転手が、それをよけようとして転倒てんとうした。


 運転手は地面に転がりながら倒れ、路肩にうずくまった。


 主がいなくなったバイクが、歩道を滑りながらこちらに向かってきた。


「危ない!」


 咄嗟に由良は正美の体を押し退けた。ニ人とも歩道に勢いよく倒れた。


 オートバイは近くにあった塀に「ドン!」という重みのある音とともにぶつかり、プラスチックのボディが割れ、破片が勢いよく飛び散った。


 地面に手をついていた正美が、顔を上げ声を震わせた。


「も、もしかして……これも、が起こしてるんですか?」


 由良は、ずれた眼鏡を直しながら、


「あまり私は歓迎されてないみたいです……」


 倒れた状態のまま、転倒したオートバイの運転手の方を向いた。

 複数の人がその周りを囲み、介抱しているのが確認できた。


 由良はうつ伏せに倒れたまま、近くにあった緑色の丸い街灯の柱に手をつこうとした。


 しかしその手が何か柔らかいものに触れた。

 

 見ると、人の足だった。


 ゆっくりと顔を上げた。


 髪の長い女性が立っていた。

 垂れ下がった前髪の隙間から見えたそのを見て、由良はそこから動けなくなった。


「キャ――!」


 突然、目の前で悲鳴が聞こえ、由良は思わず手を離した。


 眼前に立っていたのは、白いミニスカートとハイソックスを履いたロリータファッション風の若い十代くらいの女の子だった。


「あ……いや……これは……」


 由良はうつ伏せのまま、茫然と言葉を返せない。


「なんだ……? どうした?」


 近くを歩いていたガタイのいい若者二人組が近寄ってきた。

 二人ともあごにだけひげを生やし、一人は紺、もう一人は白のダボダボのTシャツを着て、黒色の似たようなキャップを被っていた。


「この人! いきなり私の足を掴んできたんです!」


 女の子が、その若者二人に向かって訴えるような口調で叫び声を上げた。


「いや……! だから転んで起き上がろうとしたら、そこに……」


 由良は我に返ったように立ち上がり、狼狽うろたえた表情で必死に誤解を解こうとした。


「……何だって?」


 二人組が険しい顔つきで由良の行く手を塞ぐように両側に立ち止まった。


「ちょっとあんた。とりあえず一緒に交番まで行こうか」


 紺のTシャツの方が、由良の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。

 それを遮るように正美が間に割って入ろうとした。


「……違うんです! この人は私を助けようとして……!」


 必死に弁護しようとしたが、構わず男は由良の腕を力強く掴んで引っ張った。

 小さく細い由良の体が、まるで風船のように軽々と持っていかれた。


「向こうで、ゆっくり話聞くから」


 男はそう言って、由良の体を引きずり始めた。

 由良は懸命に抗ったが、まるで綱引きの完全敗者のごとく、その足は地面をこすりながらスライドしていく――


「ちょっと……! 何すんの!!」


 咄嗟に正美が止めようとして、その若者の腕を掴んだ。

 小柄で華奢きゃしゃな正美が、筋肉質なその腕を引き離した。


 そこにいた全員が目を丸くした。


 吹き飛ばされるように男は後方にバランスを崩し、手を付きながら仰向けに地面に倒れた。


「いてっ……!」


 男が腕を押さえながら声を上げた。

 正美は自分の力にびっくりするように、思わず自身の両手を見つめた。


「このアマ! ……ざけやがって!」


 もう一人の白いTシャツ姿の男が勇み足で正美に近づいてきた。

 由良はそちらを向いた。

 が、視線を奪われた。


 が、その男の背中に張り付くように顔を隠しながら此方こちらに近づいてきた。


 正美は由良の視線を追った。


「……!」


 彼女も思わず目を見開いた。

 その様子を見て、由良が戸惑い気味に問いかけた。


「……山下さん。……んですか?」


 男がすごんだ声を上げながら近づいてきた。


「おい! どこ見てんだ、てめぇ!」


 それに合わせるように背後からもくっついてきた。

 まるで人形を操る黒子くろこのように。


 由良と正美は、その場から逃げだすように走り出した。


「待てコラァ!」


 倒れた男も起き上がり、二人がその後を追いかけた。

 由良と正美は、商店街の中を通行人を避けながら必死に駆け抜けた。


 息を切らしながら時折振り返ると、彼らとの距離が開いていくのがわかった。


 追いかけるのを諦めたのか。

 気が付くと彼らは見えなくなった。


 しかし、は、まだいた。


 走っているわけではない。

 ゆっくりとした足並みで歩いてるのに。


 二人は近くのショッピングセンタービルの中に逃げ込んだ。


 改装前なのか。


 一階はほとんど店が閉まっていてシャッターが下りていたり、『工事中』を促すロープが張られていた。


 通行人も数人歩いているだけで、ほとんどいない。


 正美は背後を気にしながら、由良の方に向き直った。


「……どういうことなんです!……一体あれは、何なんです!?」


 由良は人差し指で銀縁眼鏡のブリッジを押さえながら、自身の焦る気持ちを必死に抑えようとした。


「……わかりません。ただ、あなたにとても執着していることは事実です。どういう理由かは……ぐっ……!」


 ふと思わず鼻をおさえた。

 手の平を見ると、べっとりと血がついていた。


「……探らせてもらえない……! は、とても怒っています」


「……そんな……!」


 正美は悲鳴を押し殺した。


「急を要するのでここで


 由良はポケットから数珠じゅずを取り出した。

 正美に向き直った、その時だった。


 由良の顔に緊張が入った。


「山下さん……」


「え?」


 由良は必死に呼吸を整えながら、


「私の方を向いたまま目を瞑り、決して


 正美のを見ながら言った。


「……まさか……」


 咄嗟に正美はそちらを向こうとした。


「振り返らないで!」 


 由良が罵声ばせいにも似た怒鳴り声を上げた。


「ひっ……!」


 正美はすんでのところで顔の動きを止めた。


「おん、あきしゅびや、うん――」


 由良は目を閉じ、経文きょうもんを唱え始めた。空中に向かって、なめらかないんを切っていく――


 正美は震えながら、必死に目をつぶった。


「ねぇ。正美まさみ


 に、正美は思わず首を動かしてしまった。


「きゃあぁぁぁぁぁ―――!」


 彼女の悲鳴が、ガランとしたフロア中に響き渡った。


「見るな!」


 由良の制止も虚しく、次の瞬間、正美は両膝りょうひざを床につき、崩れるようにうつぶせに倒れた。


「……クソ!」


 由良はさらにお経の語調を強めた。


 叫び声を聞いて、誰かが呼んだのか。


 青い制服を着た警官けいかんが走ってきた。

 異様な光景を見るなり、その女性警察官はホルダーからじゅうを取り出した。


「手をあげなさい!」


 由良はその声を無視して経文を唱えながら、ズボンの後ろポケットから御札おふだのような物を取り出した。そして、それを正美が履いていた八分丈ズボンの前ポケットに入れた。


 それを見た警官の語気がさらに強まった。


!」


 ようやく由良は少し慌てるように両腕を上げた。指示通りゆっくりとひざをつくと、両手を頭の後ろに組んだ。


 女性警官が警戒しながら近づいていき、そばまで来ると立ち止まった。

 抵抗の意志がないのを確認すると、早り気味に銃をホルダーにしまい、手錠を取り出した。


「あなたには黙秘権があり――」


 早口に権利を読み上げながら、由良の手首に手錠てじょうをはめた。そして左肩に付けていた無線に向かって叫び声を上げた。


容疑者ようぎしゃ一名確保! 救急車を! 早く!」

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