第90話 怒ってくれてるのかい?

 おかしくなったエイルジークや屋敷の人間たちはクメスフォリカの幻覚魔法により操られていた。

 蒼蓉ツァンロンがそれを確信したのはエイルジークが申佑シェンヨウとの契約内容を明確に話さず流したからだ。

 あの契約については忘れてはならないという圧を込め、確認された際には復唱する約束になっていた。しかし内容そのものは万化亭ばんかていの契約魔法で口外法度となっており、クメスフォリカの影響下にあったことで口にできなかったのだ。


 ただしクメスフォリカの魔法は相手を意のままに操作するものとは少々異なる。

 何回も何回も繰り返し幻覚魔法で思考や感覚を調整し、使い手の想定に近い形へ作り替えていく作業に近い。


 例えば幻覚魔法で大富豪が突然店に現れたとしよう。

 しかし判断力は据え置きのため、警戒もすればそれによる探りも入れられる。使い手が取引目的だった場合、その目的は易々とは達成できない。


 クメスフォリカの場合はまず馴染みの取引相手の幻覚を足掛かりに大富豪を紹介し、良い品物を見せる。その際、他の取引相手の品物は嫌悪感を感じるものに見えるよう調整しておく。

 その結果ターゲットは徐々に孤立していき、唯一気の合う使い手へ偽りの信頼感と依存心が芽生えたところで――使い手の品物も言動も何もかもターゲットが良い感情を抱くものに見せていくことで、更に依存させていくのだ。

 ここまでくると幻覚魔法のかかりも輪をかけて良くなり、ターゲットは幻覚による思い込みで記憶すら捻じ曲げていくとクメスフォリカは説明した。


 蒼蓉は「魔導師による洗脳だ。便利そうでいいね」と称賛していたが、時間もかかる上に並みの幻覚魔法では早々できないことだと柚良はわかっていた。

 なにせ一つ一つの幻覚魔法を解かずに維持し続けなくてはならないのだ。

 クメスフォリカは「実際には必要時以外はいらねぇやつは切ってある」などと言っていたものの、その技術すら凄まじいものである。


 エイルジークたちはクメスフォリカをお得意様として認識しており、隠世堂かくりよどうの取引相手のひとりになっていた。資金面の援助用にこうした洗脳を多用しているらしい。

 もちろん取引相手の中にはシラフで隠世堂に手を貸している組織もある、とクメスフォリカは言う。

 蒼蓉との契約の結果、クメスフォリカは彼らの幻覚魔法を解いたが――精神面の負荷が強く、完全に正常に戻るには正しい治療と時間が必要だということだった。


 その言葉の通り蒼蓉たちに追いついたエイルジークはその場で倒れ込み、目を開いているというのに目の前のものが理解できないといった様子でじたばたともがいていた。

 どれだけ認識を歪まされていたのかよくわかる様子だ。

 しかし生きてはいる。

 こうしてクメスフォリカは無傷のまま屋敷から逃がされ、柚良たちはエイルジークたちを助けることができた。


「……けど、蒼蓉くんにしては強引なことしましたね?」


 エイルジークたちを万化亭傘下の医師のもとへ運び出した後、ようやく万化亭へ戻ったタイミングで柚良は言った。

 蒼蓉は「ああ」と眉を上げる。


「ヘルは柚良さんのものなのに勝手に使ってすまなかった」

「それもありますけどっ……いや、それもあるからこそヘルさんについてもちゃんと話しましょう。家族と一緒にいることは大切だと私も思いますけど、ヘルさんの意見を聞かずに進めたのはダメですよ」


 ヘルは万化亭に所属しているが、蒼蓉の認識では柚良の所有物だ。

 しかしそれを抜きにしても従業員の意見を聞かずに契約の道具にするな、ということである。誰かに聞かれていれば天下の暗渠街あんきょがいで何を言っているんだと思われたかもしれないが、蒼蓉は素直に「それもすまなかったね」と謝った。


「が、あの場で一番使える手はこれだった。君もわかるだろう? あそこで戦闘になっていれば劉乾の時のように被害が多く出ただろうし、ニチェ邸もただでは済まなかった」

「……そして洗脳も解けませんでしたね」

「わかってるじゃないか。まあ安心してくれ、簡単にヘルを渡すつもりはないよ」


 なにせウチの内部事情を知っているからね、と言った後に「もちろんこれからの伸びしろもある期待の新人だ」と蒼蓉は続けた。

 期待の新人と呼ばれたヘルは緊張した面持ちもどこへやら、口を引き結んだままだというのにそれとわかるほど嬉しそうにしている。


「ヘル、君が家族のもとへ戻りたいと言うなら話は変わってくる。買い取った代金分は返却してもらうことになるが、こちらも配慮しよう。どう考えている?」

「私は……私はまだよくわかりません。親に過度な期待しないよう教育されてきました。親への情は強すぎると主人に仕える際に足枷になるので」


 だから血の繋がった家族が突然迎えにきた現状にどう対処していいかわからない、とヘルは言った。

 一番近しい家族である親に対してすらよくわかっていないというのに、叔母に対してどう接すればいいのか、どんな感情を向ければいいのかわかるはずもない。


 だが名前と特徴が似ているというだけで危険な場所に出向くほど気になっていることはたしかだ。

 その気持ちを軽視することはできないと柚良ですら思う。

 蒼蓉は小さく笑って続けた。


「まあ迷っているなら時間までじっくり考えるといい。あの女が本当のことを言っているとは限らないからね」

「はい」

「さて、あとは――柚良さん、もし自惚れでなければだけど……もしかしてボクが軽々しく自分の命を担保にしたことに怒ってくれてるのかい?」

「そりゃあそうですよ、めちゃくちゃ危ないじゃないですか」


 眉根に力を込めてはっきりと怒りを露わにしている柚良とは反対に、蒼蓉はじつに嬉しそうに笑った。


「簡単に首をやる気はさらさらないよ」

「でも蒼蓉くんが死なないためにはヘルさんを渡すことや、クメスレツカさんを探す必要がありますよね?」

「それはそうだが、あの場で契約を結び、のちに隙を作る布石にボク自身がなっただけさ」


 隙を作る? と柚良は首を傾げる。

 蒼蓉は己の口元を人差し指でトントンと叩く。


「ボクの戦い方は魔法を放つことでも刃を操ることでもない。得物は情報と己の口さ」

「……え、まさか契約を果たした瞬間に襲い掛かる気ですか? 騙し討ち的な?」

「ヘルが家族のもとに戻りたくないならそうするつもりだ。帰りたいなら機密情報を口外しないように他の手段を講じるけどね。ボクらは契約を果たし、クメスフォリカを討ち、ヘルも取り戻す。万々歳だろう?」


 しかし自分の首を賭けるにはあまりにも危険ではないかと柚良は思う。

 だからこそあの瞬間、イェルハルドも動揺を見せたのだろう。


(契約内容が偏ってるから、今回の契約は蒼蓉くんだけが代償を支払う側だ。つまり立場が下。そうしないとクメスフォリカさんが契約を受けてくれないから。それは罠だったけれど、担保が大きすぎる。……蒼蓉くんなりにヘルさんを道具にしたことに対して誠意を見せてくれてるのかな?)


 柚良はじっと蒼蓉を見た後、その視線をヘルへと向けた。


「ヘルさん、どんな選択をしても蒼蓉くんは策を考えてくれるので、遠慮なくじっくりと考えてくださいね。相談にも乗りますから!」

「ありがとうございます、柚良さま」


 柚良によしよしと撫でられながらヘルはほっとした様子で頷く。

 蒼蓉は柚良の言葉を吟味しながら首を傾けた。


「じゃあ柚良さんも納得してくれたのかな?」

「……まあ私もよく我儘を聞いてもらってますしね、ここはフェアにいきます。けど蒼蓉くんが危なくなったら私も身の安全は二の次に守っ……そこで嬉しそうな顔しちゃダメですって!」


 ぷんすこしながら柚良は「とりあえず!」とヘルの両肩に手を置いた。


「ご家族のもとへ戻るにせよ、作戦を決行するにせよ、力をつけておくことが必要です。ヘルさん、この三日間で集中的に鍛えましょうか! 強くなりましょう!」

「え……集中的に鍛える、のですか?」

「はい。もし戻ったとしたらしばらくはクメスフォリカさんと二人で行動することになりますし、作戦決行ということになったら間近でドンパチすることになります。つまりヘルさんが危険! なので身を守れるようになりましょう!」


 やる気を漲らせている柚良に蒼蓉が肩を揺らす。


「そうだね、それに作戦の際にヘルは一番クメスフォリカの間近にいることになる。だから身を守るだけでなく攻撃もできるようになってほしい」


 奇襲とはいえ幻覚魔法を使うクメスフォリカは強敵だ。この作戦も見越して対策を練られている可能性もある。

 そこに至近距離からのヘルの一撃は大きな影響を及ぼすだろう。

 柚良と蒼蓉の言葉はこの上ない期待であり、プレッシャーでもあった。しかしヘルは一度口を引き結ぶと目元に力を込める。

 次に口が開かれた時、そこから飛び出たのは弱音ではなかった。


「――はい。私、今より強くなれるように……いいえ、強くなってみせます」


 期待していてください。

 そう言ったヘルはぎゅっと握っていた手に更に力を込めた。

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