虹が砕ける日

三奈木真沙緒

1.虹の軋(きし)み

01 ありふれた学校にて

 ……うらうらと陽光がたゆたっていた。暖かさはいよいよ春の現実味を帯び、重く厚い衣服を片付ける決心を人々にもたらし始めていた。

 桜の花びらが、惜しまれつつ散り落ちて、およそ2週間になろうとしている。大部分の日本人が、のどかな日常を予測していたことだろう。いや、わざわざ予測さえしていなかったかもしれない。昨日までと変わりばえのしない明日は、その先もずっと続いていくのが当然のはずだから。それぞれに波乱を抱えた人もいるかもしれないが、それは予想の範囲からあまりにも逸脱することはないだろう、と。


 16時頃。まさかこの日、日本中を騒がせる事件が発生しようとは、ごく一部の人々――つまり、例の事件の首謀者たち、と言えるだろう――を除いて予測もつかなかった時刻である。当然ながら、不吉な兆しはまだ、目に見える形で現れてはいない。したがって、私立明洋めいよう高等学校の近辺に見られたのも、のどかな、ありふれた光景にすぎなかった。

 校舎そのものも、奇をてらった様式ではなく、どこにでもあるような構造をしている。学校であるとわかる以外には、とりたてて特徴はない、ごく普通の外観だ。校舎から吐き出された生徒の大半が、同じような色彩をまとっているのは、制服なのだから仕方がないことである。

 ありふれた学校だ。

 校舎の周辺をうろつき始めた生徒の中には、体操服の者もいた。クラブ活動の始まる時刻が迫っている。

 数人の女子の甲高い笑い声が、ちぎれた綿菓子のような雲をくすぐる。リュックを背負った男子らが、遊び先の相談をしている。用事でもあるのか、急ぎ足で校門を後にする者もいる。練習を始めた運動部が、グラウンドで号令を上げはじめた。楽器のロングトーンが、窓から遠く伸びて行く。廊下は多くの生徒たちが行き交っている。バドミントンのラケットを持った女子生徒がふたり、がははは、と遠慮のなさすぎる笑い声を放射しながら、階段を下りて行った。

 そうして、どこまでもありふれた、明洋高校のある一角に、ありふれていない高校生がふたり、押し込められていた。


 具体的な部屋の名は、生徒指導室という。そもそも教師と生徒の個人面談を目的とした部屋であるため、広いとは言えず、机の大きさもそれぞれの教室で生徒が使用しているものと、ほぼ変わらない。しかし今日は、一度に呼び出された男子生徒ふたりが、プレッシャーも感じていそうにない態度で、窮屈そうに並んで腰かけていた。


 ひとりは、周囲の目を引きつける柔和な笑顔の所有者だ。茶色っぽい、くせのある髪を肩ほどまで伸ばし、後頭部できっちりと束ねているものの、はねっぷりは前髪の部分だけでも相当なものだ。長身というほどでもないのに、細身ですらっとした印象の体型。長さを持て余した脚を、生徒指導室にいながら堂々と組んで座っている。この部屋に呼び出された原因も理由も知っているはずなのに、ほとんど引っ込むことのない笑顔は、組んだ脚とともに、ふてぶてしいことこの上ない。女子に好評の整った顔立ちながら、丸っこい瞳には活気が渦を巻き、その奥から放たれる光は「人なつこい」を貫通して「いたずらっぽい」の域に達している。こうしている今もにこにこと、まるで女子との楽しい会話を期待しているかのような笑みをこぼれさせている。


 もうひとりもまた別の意味で、置かれた状況を意にも介していないようだ。指導室で堂々とサングラスをかけたりしている。このため、案外線の細い顔立ちをしているのがわかりにくい。しかも眉間には縦じわが入り、全身から不機嫌そうなオーラが立ちのぼっている。が、当人は「寝起き」程度のぼんやりした状態でしかないらしい。机にがつんと片肘をついて頬を支え、今にもまぶたがふさがりそうだ。


 そんなふたりの男子高校生を前にして座っているのは、彼らの2年4組担任であり現国教師の余村よむらである。40代前半。フルネームは、余村猛虎たけとら。プロ野球のある球団の熱狂的ファンであった父親の意向が非常に強く働いた名づけであるが、つけられた当人は野球にほとんど興味がないという、いまどきマンガのオチにもならない経緯があるのだが、さしあたって現在は関係がない話である。彼は今、全力をふりしぼって、目の前の最強問題児ふたり組に立ち向かわなくてはならない。

 余村は、1学期が始まってひと月もたっていないこの時期に、頭を幾度もかかえてきた。どうやら今年度最大の貧乏くじを引いてしまったようなのだ。こんな調子で1年間もつのかどうか、心許ないというよりも、いっそ欠乏症と表現していいくらいだろう。胃薬の口コミサイトのチェックが、最近の日課となってしまっている。医者にかかった方がいいだろうかと迷っているところだ。それもこれも……たった今、対峙している奴らが原因である。

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