第26話

 十一月二十八日、月曜日。

 沙緒里さんと顔を合わせたいような、合わせたら気まずいような――複雑な心境のまま、実家から出勤した。

 午前八時四十分頃、会社に着いた。いつもなら、課長席に座っている沙緒里さんと会社での挨拶をする時間だ。

 でも、今朝は居なかった。


「おはようございます。……米倉課長はお手洗いですか?」


 夏目係長に挨拶したついでに訊ねた。というか、確かめた。

 課長の机のノートパソコンが閉じていた。嫌な予感がした。


「おはよう、小林。課長は今日、風邪で休みだ。寒くなってきてるから、お前も体調管理には気をつけろよ」


 やっぱり、嫌な予感が的中した。

 なーにが風邪なの! 確かに最近は季節の変わり目だけど、あの社畜がそれぐらいでへばるわけないじゃん!

 そうまでして、わたしを避けてる。もしくは、ガチでヘラって体調崩したか――どっちかでしょ。


「課長に何か用か?」

「あー……。先方の生産計画と注文実績を、定期的に報告してるんですが……」

「それなら私が確認するから、送っておいてくれ」

「は、はい」


 あんたには用が無いってーの!

 適当に躱して、自分の席に座った。そして、スマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。

 SNSと同じく、アミちゃんの写真をアイコンにしてる沙緒里さんとの会話画面を眺めた。


『寂しい』

『会いたい』


 少しスクロールして会話を遡ると、そんなメッセージが目についた。沙緒里さんは絵文字やスタンプを使わないから、どれも素っ気ないけど、これは特に――いや、ガチでヘラってたんだと、今になって思った。

 確か……わたしが実家に帰って動画配信していた時のものだ。たった一日空けただけで、こうなっていたなんて……。


『どうかしましたか?』

『いや、何でもない』


 わたしが返したのは、二時間後だった。その間、沙緒里さんはどんな気持ちだったんだろうと……今になって思う。


『今から帰るよ』


 会話を戻すと、一番最後は先週の金曜夜だった。

 いつも、仕事が終われば連絡がある。わたしはその日もいつも通り、お疲れさまでした的なスタンプを返していた。既読マークがついていた。

 そこから先は、何も無かった――

 仕事を休むほど重症な沙緒里さんが心配なのは、事実だ。本当に寝込んでるなら、看病してあげたいし……無いだろうけど、もし失踪したらどうしようって思うし……。

 なんとなく、文字入力画面を開ける。でも、何もキーが打てなかった。スタンプ一覧を眺めても、どれも送れなかった。

 今の沙緒里さんに何を話していいのか、どう接していいのか、わからなかった。

 月曜日の朝、一週間が始まったばかりだというのに――ただ、心苦しかった。



   *



 沙緒里さんが会社に現れたのは週半ばの水曜日、十一月三十日だった。

 課長代理の係長が計画だの売上だので発狂してたから、わたしでも月締の実感があった。沙緒里さんとしても、それで仕方なく出社してきたんだろう。

 結局のところ、わたしが部屋を飛び出して以降、一度も連絡を取ってなかった。久々に沙緒里さんの顔を見て、とりあえず安心した。


「ご迷惑をかけて、すいませんでした」


 朝から沙緒里さんは愛想笑いを浮かべて、全方位に頭を下げていた。わたしとのことなんて、まるで何も無かったかのようだった。

 いや、わたしと一緒に過ごした時間自体を『無かったこと』にしている可能性だってある。

 わたしは自分の席から横目で課長席を見ていると――沙緒里さんと目が合った。


「小林さんも、悪かったね……」


 一瞬の、困った表情の後――有象無象へと同じように、わたしにも愛想笑いを向けた。

 いったい、何に対しての謝罪なんだろう。

 わたしは席を立つと、課長席に近づいた。


「まだ病み上がりなんですから、無理しないでください……」


 言いたいことだけは山ほどある。でも、ぐっと我慢して、メンヘラ演技で弱々しく心配した。

 これでいいんだ……。『仮面』を被れるのは、今は都合がいい。


「ありがとう……」


 沙緒里さんだって、わたしに言いたいことあるくせに……。これも、何の感謝なんだろうなぁ。

 当たり障りの無いやり取りを交わして、お互い様だと思った。


 モヤモヤした気持ちで仕事は手が付かないと思ってたけど、月締だから否が応でも忙しかった。

 なんとか午前を乗り切ると、休憩室のいつもの席で、経理課の鈴木とランチした。


「鈴木はさ……好きな人と、ケンカしたことある?」

「え? 米倉課長とケンカしたの?」


 お願いだから、コンビニのナポリタンを頬張りながらの情けない顔で返さないで欲しい。割と真面目に相談したわたしが、バカみたいじゃん。


「友達の話よ、友達の」


 鈴木から以前から勘付かれる。でも、今さら本当のこと言う気にもなれないから、そういう体にしておいた。


「ふーん。友達ねぇ……。そのせいでここ何日か、上の空だったんだ」


 ここでニヤニヤでもされたら、苛立ったと思う。でも、鈴木は他人事のような態度だったから、まだ流せた。これからも同期として、ちょうどいい距離感で付き合おうね、鈴木。ていうか、あんたわたしのことウザいと思ってない?

 わたしはコンビニのオニギリをかじりながら、半眼で鈴木を見た。あくまでも友達の話だと、訴えた。


「お互いに言いたいこと言って全部ぶち撒けてから、最後にゴメンナサイすればいいんじゃない?」

「ちょっと待って。それは経験談なの?」

「さあ、どうだろうね……。アドバイスなんて、これぐらいしか出来ないよ」


 鈴木はどこまでも他人事だった。

 こいつの経験談かは置いておき――それが理想なんだと思う。どう接してわからないなんて、結局は主張がまとまらないだけだ。まとめなくたっていい。思うことを全部話せばいいんだ。

 それはわかる。わかるんだけど……。


「そもそも、話し合いの場まで、どうやってもっていけばいいと思う?」


 まず、この段階でハードル高いでしょ。逆に、話せる状態だと、全然ラクじゃん。


「いやいや……。そんなこと言ってないで、素直になりなよ。ガキじゃないんだよ?」


 半笑いの鈴木うぜぇ!

 でも、すぐにハッとなった。何気ない言葉に、核心を突かれたような気がした。

 結局のところ、素直になれないから踏み出せないんだ。鈴木の言う通り、わたしに子供じみた恥ずかしさがあるんだろう。

 いや、それよりも――素直になれない相手なのかもしれいと思った。

 沙緒里さんに、わたしのアクセサリーにしたいという魂胆を言えるわけがない。沙緒里さんを手玉に取るという意図で、これまで接してきた。そんな後ろめたさを始めとして、どこかで一線を引いていたような気がする。

 沙緒里さんだけじゃない。わたしにも隠し事があるから、堂々と向き合えない。嫌われる理由なら、充分すぎるぐらいあるんだ……。

 遠慮しないで何でも言ってくださいと言っておきながら、遠慮していたのはわたしの方だ。その事実に、ようやく気づいた。


「わかった。素直になってみる」


 たぶん、もう本心を隠してる場合じゃないと思う。

 近づいた理由から諸々、全てをさらけ出さないと、ちゃんと向き合えない。


 ランチを終えても休憩室で鈴木と駄弁った。

 昼休憩が終わる五分前に、オフィスに戻った。

 月締でオフィスはバタバタとしてると思ってたけど、意外にも人気が無かった。国内営業課は、課長席の沙緒里さんしか、まだ居なかった。

 わたしに気づいてるのか気づいてないのか、わからない。スマホを触ってる沙緒里さんを横目に、自分の席に着いた。話したいと思っても、職場じゃ無理だ。

 どうしようかと悩んだその時、わたしのスマホが震えた。

 ホーム画面にはメッセージアプリの通知――沙緒里さんからだった。


『私が全部悪かった』


 そんなプレビューの文字が見えた。

 沙緒里さん、かつ謝罪。それだけの理解で充分だった。嬉しさが込み上げて、アプリを開いた。


『私が全部悪かった。お願いだから、一刻も早くマッハで帰ってきてくれ。私を見捨てないでくれ。小林さんが欲しいものは何でも揃える。小林さんの望みは何だって叶える。私には金ならあるんだ。私が間違ってた。小林さんを追い出すべきじゃなかった。もう一度、小林さんと一緒に暮らしたい。小林さんを抱きしめたい。小林さんが欲しい。私には、小林さんがいないとダメなんだ。寂しくて死んでしまう。ていうか、死にたい。何なら、小林さんのために今すぐ死んだっていい。小林さんが買ってきた乳酸菌なんちゃら株の激レアなアレを、こっそり飲んだことは謝る。ちなみに、効果は無かった。だから、今すぐ帰ってきて欲しい。とにかく、苦しくてたまらないんだ。私はどうしたらいい。小林さんのことをひたすら考えて、頭がおかしくなりそうだ。このままだと確実にヤバい。私のことを助けてくれないか。ソウルメイトじゃなくたっていいんだ。帰ってアミしかいない生活には耐えられない。アミも私にとって大切な存在だが、アミだけじゃないんだ。また小林さんとアミと、ふたりと一匹で暮らしたい。小林さんが帰ってくることを、心から望む。帰ってきてくれないと死ぬ』


 ひいっ! なにこの怪文書!?

 正直、最初の二文ぐらいしか見えなかった。画面を覆い尽くす文字にビックリして、スマホを手から落としそうになった。

 いやいや……こんなの、もはやホラーじゃん。何を思ってこんなにつらつら書いたの? メンヘラとか重い女とか、そういうレベルじゃないでしょ。

 ドン引きを通り越し固まっていると――背後に人影が立っているのを感じた。

 振り返ると、沙緒里さんが立っていた。血走った目を見て、ガチのマジでわたしの心臓が飛び出るかと思った。


「次の日曜の夜……うちで話をしよう」


 ぽつりとそれだけを漏らして、沙緒里さんは自分の席へと戻っていった。

 わたしは返事というか、声を出そうにも出なかった。その代わり――沙緒里さんは見てないけど、こくりと頷いた。命の危機感から、反射的に従ったまでだ。

 昼休憩終了のチャイムが聞こえた。それが合図のように、緊張感がちょっとだけ解けた。ようやく頭が働いた。

 あの生物と、対話は可能なんだろうか……。理解は二の次でいい。事情を話して土下座で謝らないと、命が危ない。

 提示された日時に対して、わたしに拒否権なんて無い。とにかく、行って話すしかないんだ。

 なんか、もう……とんでもないことになってきた。

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