第15話
わたしは沙緒里さんに、トイレの個室まで連れて行かれた。個室の鍵を閉められると、便器を目の前にして、背中を擦られた。
ビールを一気飲みしてしまったけど、まだなんとか意識はあった。
「ほら。吐いたらラクになるから」
そんなこと言われても……気持ち悪いけど、咄嗟には吐けない。わたしはどんよりとした気分で沙緒里さんを見て、黙って首を横に振った。
「ちょっと失礼」
「うがっ」
沙緒里さんが、わたしの口に指を入れた。口というより、喉の方まで突っ込んでくる。
や、やめて……。奥まで入れられると、息が出来ないんですけど……。もう無理、死んじゃう。
生命の危機を感じた代わり、何かが喉を逆流してきて、わたしは便器に思いっきり吐いた。一度出ると、あと何度か続いた。
「はぁ……はぁ……」
ひとしきり吐き出すと、確かに気分は幾分マシになったけど……爽快感より疲労感がヤバい。嘔吐って、こんなに体力使うんだ……。食べた以上のカロリー消費してない?
「ありがとうございます……沙緒里さん」
わたしは便器を流すと、壁を支えに、生まれたての子鹿のように立ち上がった。
狭い個室で、沙緒里さんは心配そうにわたしを見ていた。
吐かせる役を買って出たのに、全然嫌な表情じゃない。聖人なんですけど。いや……わたしの彼女ちゃんなんだから、当然か。
わたしは死にそうな疲労感の中、そんな沙緒里さんに安心した。
それと同時、一気飲みした経緯がフラッシュバックした。だから、沙緒里さんに抱きついて、唇にキスをした。
でも、すぐに手で身体を押し離された。尋常じゃない拒絶に、凄く傷つく。
「吐いた口でやめろ!」
ここがトイレで、他の客を――いるのかわからないけど――警戒してるのか、小声で怒った。
ああ、そうだった。そりゃキス出来なくて当然ですわ。
わたしは舌を出して、テヘッと謝った。沙緒里さんが、汚物を見るような目をわたしに向けてきた。
ふたりでトイレを出た。屋内の様子から、受付の時に訪れたカフェレストランのトイレだったと理解した。ログハウスみたいな建物だ。
レジの側に販売用のパンやケーキが置かれていて、飲食できるだけの椅子とテーブルが並んでいる。
「ちょうどいいから、ここで休憩していこう」
沙緒里さんからそう提案されて、ふたりでレジに向かった。
「ホットコーヒーと……柚子トニックください」
後半は、わたしを見ながら注文した。
「わたしもコーヒーがいいです」
「ダメだ。小林さんは水分摂らないと、脱水症状で頭痛くなるぞ?」
酒飲みの沙緒里さんがそう言うと、悔しいけど妙に納得してしまった。湧き水で淹れたコーヒーって書いてあるから、絶対美味しいやつなのに……。
飲み物を受け取ると、対面テーブルの席に座った。
店内には疎らながらも、他にもお客さんがいた。グランピングの利用じゃなくて、普通にランチしに来てるんだろう。カレーの良い匂いがした。
コーヒは残念だったけど、柚子トニックも超美味しい! 沙緒里さんがああ言ってたから、水分として五臓六腑に染み渡る感じがする。
「今さらだが……どうして、あんなバカな真似をしたんだ?」
沙緒里さんはコーヒーを飲みながら、呆れた目を向けてきた。
あの時、沙緒里さんからビールを奪って一気飲みした理由は、ふたつ。
ひとつは、沙緒里さんが酔い潰れないように守ったこと。これはまあ、言ってもいいんだけど……もうひとつが恥ずかしくて、とても言えなかった。
「そういう席だったんですから……そういうノリですよ。ウエーイって」
適当な理由で誤魔化そうとした。でも、沙緒里さんは仏頂面でコーヒーを飲んでいた。全然信じてない。
わたしがそういうノリが苦手なこと、知ってるんだろうなぁ。納得しないのも当然か。
居心地が悪くなったわたしは、レジから持ってきていた折り畳みの小さなパンフレットを広げた。
「へぇ。ここの近くに、キャンプ場あるみたいですね……。あっ、温泉もありますよ!」
係長さー、絶対にこのこと知ってたんだから、教えてくれてたっていいじゃん。バーベキューだけでわざわざ来たのは、勿体なさすぎるでしょ。どう考えても、温泉に浸かって帰る流れなのに。
「まあ、下着ぐらい売ってますよね」
行きましょうと、わたしはニッコリと微笑んだ。
だけど、沙緒里さんは仏頂面でコーヒーを飲むままだった。
「その……また、別の機会にしよう」
え? 避けてる? 最近妙に性欲が強かったけど、別に女の子の日じゃないでしょ?
んん? まさか――
「もしかして、温泉とかスパ銭とか苦手だったりします? 恥ずかしかったり?」
「そうだよ、悪いか!? 修学旅行でも、アレの日だって嘘ついて、部屋のシャワー使わせて貰ったよ!?」
ああ、やっぱり……。学生の頃から拗らせてたんですね。
まあ、気持ちはわからなくもないけど、もうアラサーですよ? まだ何か、意識することあるんですか?
温泉に行きたい欲は、沙緒里さんのせいで、わたしも萎えてきた。
「そうですね……別の機会にしましょう」
その代わり『沙緒里さんを絶対にスパ銭に連れて行こう作戦』を長期的に考えることにした。こんなの、面白いに決まってる。
にんまりと笑うわたしを、沙緒里さんは警戒の目で見ていた。
とりあえず、一気飲みの理由は誤魔化せたようだ。
飲み物を空にした頃には、体調はだいぶマシになっていた。
グラスを返却すると、店を出た。
「それじゃあ、そろそろ戻ろうか」
今日はふたりっきりのデートじゃなかったんだと、思い出す。沙緒里さんに接する係長の嬉しそうな笑顔が、頭に浮かんだ。
わたしは、ウッドデッキに向かおうとする沙緒里さんの、ロングカーディガンの袖を摘んだ。
「……ちょっとだけ、散歩したいです」
そして、陰鬱気味にぽつりと漏らした。
メンヘラ演技じゃなくて、シラフでこれだ。……情けないけど、拗ねてみた。
沙緒里さんは振り向くと、困った表情でわたしを見た。
「わかった。ちょっとだけ、川の方歩こうか」
そして、微笑んで頷いてくれた。
無理やり優しくさせてるわたしは……たぶんクズだ。それでも、その優しさにわたしだけが甘えていたい。
カフェから斜面を少し下ると、川沿いに出た。グランピングの利用客かはわからないけど、疎らに人が居た。
せせらぎが聞こえる、静かでのどかな所だった。森の中を流れる川は、まだ穏やかな流れだ。夏場なら、川に入って遊んでいたと思う。
顔を上げると、森の木々から枯れ葉が舞っていた。川に落ちる景色が綺麗で、秋だなぁと思った。
「大自然って感じですね」
沙緒里さんとふたりで散歩できて、わたしは上機嫌だった。
川沿いの砂利道は歩きにくいけど、マイナスイオンを感じるというか、パワースポットな感じがした。そういうスピリチュアルなやつ、沙緒里さん好きでしょ?
「なんか、殺人事件でも起きそうだな……猟奇的な」
「そういう映画のロケ地っぽいかもしれませんけど、殺人鬼が潜んでるかもしれませんけど、言わないでくださいよ!」
……ダメだ。沙緒里さんが変なこと言ったせいで、それにしか見えなくなってきた。いつ、川にグロ死体が流れてきてもおかしくない。せっかくの景色が台無しだ。
そんな発想するって、どんだけ根暗なの、この人。……いや、いたって平常運転か。
わたしは苦笑した。さっきまで、しょうもないことで悩んでいたのが、急にバカらしくなってきた。
「……沙緒里さんにデレデレしてた係長にムカついたから、一気飲みしたんですよ」
恥ずかしいけど、もう正直に話しておこう。歩きながら、ぽつりと漏らした。
「は?」
沙緒里さんは立ち止まると、ポカンと口を開けた。
前半部分が理解できないんだろう。こんなリアクションを取られるのは、想定済みだ。
「あの人たぶん、沙緒里さんに気がありますよ?」
だから、わかりやすく教えた。
「いやいやいや……。そんなわけないだろ? 課長になった私を恨んでる、ならわかるが」
確かに、沙緒里さんの視点ではそうなるだろう。
わたしもそう聞いていたから、先入観から――目上の立場として扱ってる様子が、皮肉だと思っていた。
でも、今日見ている感じ、違った。あれは、課長でも後輩でもなくて……沙緒里さんに特別な感情を抱いているに違いない。ていうか、メスの顔だった。
「え? マジで?」
深刻そうな表情のわたしから、冗談を言ってるわけじゃないと理解したようだ。
流石に、わたしでもこんな冗談言いませんよ?
「そりゃ……本人に直接訊かない限り、確証は無いですけど……」
まあ、九十九パーセント正解してる自信がある。だから、あんなバカなことした。
「うーん……。キミの思い違いならいいんだが」
「わたしもそれに越したことは無いですけど、一応は警戒してください」
沙緒里さんは係長を苦手というか嫌っているから、もし気持ちをコクられたところで、なびくことは無い。
だけど、絶対とは言い切れない。
わたしがこうして念を押すのは――沙緒里さんがバカなぐらいチョロいことを知ってるからだ。係長に限らず、誰彼からでも優しくされたら、受け入れるかもしれない。
それが今のところ、わたしの持つ最大の不安材料だった。一刻も早く、わたしだけのモノにしないと!
「わかったよ。まあ、そろそろ戻ろうか」
わたしが一気飲みして沙緒里さんが連れ出してくれてから、結局は一時間ぐらいになるのかな? いい加減に戻らないと、確かに怪しまれる。
心配しないで――出来れば、その一言が欲しかったなぁ。それが聞けたら、安心できたのに……。
ちょっとモヤモヤしながら、沙緒里さんと引き返した。
「あっ、小林さん……。一気飲みなんて危険な真似、許すわけじゃないけど……そういう事情なら、ありがとう」
前を歩きながら、沙緒里さんがふと漏らした。
振り返らないから、わたしにはショートヘアーと肩しか見えない。でも、その照れくさそうな感じは……まあ、及第点かな。わたしは、自然と笑みが漏れた。
信じてますからね、沙緒里さん。
「小林、大丈夫か? もう、あんなバカなことするなよ?」
「はい……」
ウッドデッキに戻ると、まだ同僚達が騒いでいた。その中で係長だけが、心配してくれていた。悪い人ではないんだけどなぁ。
「課長も、付き添いご苦労さまです。ささ、どうぞ」
沙緒里さんは、再び上座へと促された。
悪い人ではないのかもしれないけど……沙緒里さんにデレデレとビールを注ごうとしてるのは、やっぱりヤな奴だ。超ムカつく! もう一回、わたしが飲んでやろうか!?
「すいません……。これ以上は明日に響くかもしれないんで、お茶貰えないですか?」
でも、さっきまでされるがまま受け取っていた沙緒里さんが、そのように断っているのを見て――わたしの怒りは鎮まった。
誇らしくて、嬉しかった。内心で、にんまり笑った。
今この場でイキリたい欲をガマンするけど、口元がちょっと緩むのは、どうしようもなかった。
(第05章『わたしが同僚から守らないと』 完)
次回 第06章『私の身体に穴を開けるな』
沙緒里は美香から妬かれる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます