第02章『不動産屋に着ていく服を私は持っていない』

第04話

 十月五日、水曜日。

 私はスマホのアラームで目が覚めた。平日の午前六時に設定しているものだ。


「いてて……」


 酒を飲んだ後、水を飲まないで寝たんだろう。二日酔いの頭痛にうなされながら、上半身を起こす。

 ……部屋はなんかもう、メチャクチャだった。

 カーテンを閉めてないから、朝陽がめっちゃ眩しい。床には衣服が脱ぎ散らかされていた。

 アラームがベッドの下から聞こえたので、手探りでスマホを拾い上げて、アラームを止めた。

 充電してないから、スマホは二十パーしか電池が残ってない。ベッドの隣にあるサイドテーブルのワイヤレス充電器に置いた。


「さぶっ」


 私はパジャマを着ていないどころか、ショーツ一枚の格好だった。

 記憶はおぼろげだが、酒で寝落ちしたのではないと、それだけははっきり覚えてる。

 セミダブルのベッドは窮屈だった。隣を見下ろすと、私の同僚であり部下でもある小林さんが、同じく半裸で寝ていた。


 ――生きづらさを感じてる面倒な女ですけど。


 昨日、確かそんなことを言ってたな……。

 いやいや、どこがだよ! 幸せそうな寝顔で快眠して、間違いなく図太く生きてるだろ! 現に、アラームで目を覚ます気配も無いし。

 太ってるわけじゃないと思う。ややぽっちゃり気味というか……顔だけではなく全体的に丸みを帯びたシルエットだと、昨晩知った。ガリガリの私とは正反対だ。

 ぱっつん前髪なミディアムヘアーは暗い色だと思っていたが、よく見ると薄っすらピンクがかっていた。一応は営業職なのに、この髪色はどうなんだ?

 ていうか、頭の中までピンク色だったじゃないか!

 昨晩の記憶が蘇ってきた。ダメだ……。私は両手で顔を覆って、首を横に振った。ジタバタもだえたい。

 私の『初めて』が、まさかこの子だったなんて! しかも、酔った勢いだったなんて! そりゃ、シチュエーションとかロマンチックとか、憧れはあったよ?


「はぁ……」


 まあ、もう事後だから仕方ない。

 溜息をついていると、アミがベッドに飛び乗ってきて、ニャンと鳴いた。この子が鳴くのは基本、お腹を空かせた時だ。


「おはよう、アミ」


 私は半裸のままベッドから起き上がると、とりあえずアミの皿にカリカリを入れた。皿は毎晩洗っているが、昨日のまま汚れていた。ごめんよ。

 そして――化粧を落としてすらいなかったので落として――シャワーを浴びながら、ぼんやりと状況を整理した。


 毎晩、炊飯器に米と水をセットして寝ているが、今朝は炊きたて御飯が無い。よって、弁当を作るルーティンワークを、今朝は消去した。今日のランチはコンビニ飯だな。

 朝食は、確か冷凍御飯があったからチンして、いつも通り納豆と食べよう。二日酔いだし時間もあるし、味噌汁も作ろう。

 あとは……小林さんの寝顔が浮かんだ。

 あれは最悪、今日は休ませよう。今年から新卒で入社したとはいえ、十月になっても戦力に数えていなかったのが幸いだった。うん。中間管理職としてベストな判断だな。

 シャワーを終えてリビングに戻ると、ちょうど小林さんが起きてきた。


「ふぁ……。おはようございます……沙緒里さん」


 眠そうに目を擦った後、もじもじと恥ずかしそうに私の名前を呼んだ。

 なんかウザいけども……悔しいが、可愛いな。


「お、おはよう。とりあえず、シャワー浴びてこいよ。下着は、私の持ってる新品置いておくから」


 めっちゃ早口で言ってるのが、自分でもわかった。

 本人を目の前にして――昨晩のことから、死ぬほど恥ずかしくなった。ていうか、いっそ死にたい……。

 とりあえず、この場を早く切り抜けたかった。


「わかりました。ありがとうございます」


 小林さんはにんまりと笑って、横を通り過ぎていった。

 その後、私は言った通り、新品のショーツとスウェットを脱衣場に置いた。ブラは……すまないが、二日連続で自分のやつ使ってくれ。

 それからヨーグルトを食べて、紙パックの野菜ジュースを一本飲みながら、味噌汁を作った。ついでに、小林さんの分のオニギリも握った。優しいな、私。


「ショーツ、ありがとうございました。……サイズがちょっとキツイですけど、まあ大丈夫です」


 朝のテレビニュースを観ながら、キッチンテーブルでパック納豆を混ぜていると、小林が現れた。納豆の臭いにだろうか――ちょっとだけ強張った表情だった。栄養のある食べ物なのに、失礼な奴だ。

 確かに、昨晩の感じだとサイズは合わないだろうな。その意味で、ブラは諦めた。というか、私は普段からブラトップのキャミを着ることが多いから、そもそもあまり持ってない。


「そうか……。キミの分の朝ご飯もあるから、まあ食べろよ」

「わぁ。ありがとうございます!」


 ダイニングテーブルの向かいの席に、オニギリと味噌汁を置いておいた。小林さんは、そこに座った。


「お味噌汁、美味しいですね。手作りって感じで……」

「そりゃ、インスタントじゃないからな」


 出汁入り味噌て作った、あげとワカメが入っただけの素朴なやつだ。確かに、インスタントよりは手作り感があるだろう……。いや、それしか褒めるところが無いのか? そもそも、強引に褒めようとしてないか?

 私は茶碗に盛った少量の白米に納豆を載せ、かきこみながら正面の小林さんを眺めた。


「な、なんですか?」


 無意識に、警戒の視線を送っていたんだろう。少し緊張気味の小林さんが、おにぎりを一旦皿に置いた。


「なんでもないよ……。小林さんも、コーヒー飲む?」

「はい。お願いします」


 私は早々と食べ終えると、食器をキッチンに下げ、コーヒーの支度をした。

 フィルターは二杯分まで対応してるが、いつもはマグカップに直に受けているため、サーバーが無かった。普段から誰も来ないんだから、仕方ない……。インスタントのドリップコーヒーにしよう。

 湯を沸かしている内、鎮痛薬を飲んだ。頭痛が引いても、午前中はラリったままだろう。


 ぼんやりとした頭で、昨晩のことを思い出した。

 小林さんは私の理解者だと自称した。正直、今でも怪しいところはあるが……私なんかを優しく受け入れてくれたことは事実だ。

 ヤバい。思い出しただけで、恥ずかしい。

 新卒だから二十三? 今年三十の私と七つも違うのか……。性的な意味だけじゃなくて、年下の部下にされるがまま、そして甘えたこともめっちゃ恥ずかしかった。

 それでも、心地良かったのは確かだ。

 屋上でこの子とばったり会ったのは、きっと運命だったんだろう。念願のソウルメイトに出会えたと思えた。

 だから、今はすっごい微妙な心境だった。成り行きとはいえ、実家を追い出されたらしい小林さんを、この部屋に住まわせることになったんだから……。いや、それってもう同棲だろ? 本当に、住まわせていいのか?

 私は二杯のコーヒーをキッチンカウンターに置くと、席に座らずリビングのキャビネットに向かった。


「はい。とりあえず、これ……」


 この部屋の二本目の鍵をテーブルに置き、小林さんの正面に座った。

 正直、小林さんを本当にこの部屋に置いていいのか分からない。歳の離れた部下と支え合う関係になるのは、少なからず抵抗がある。

 それに、年齢差が無いとしても……二十九年ぼっちで、強いて言えば仕事だけが取り柄で、パッとしない根暗な私とは、たぶん釣り合わない。本人曰く私と同じでネガティブ気質らしいが、私には明るくて眩しい。一緒に居るだけで、なんだか申し訳なく思う。

 この子から愛情を貰っても、仕事以外を持ち合わせていない私には、何かを返すことが出来ない。きっと、小林さんにとって私は不要なんだ……この部屋以外に。

 それは支え合う関係じゃないし、ソウルメイトとも言えない。……そういう意味では、何も持っていない私には、誰ともソウルメイトになれないかもしれないが。

 つい、ネガティブに考えてしまう。かといって、たった一晩で放り出すのは、上司として人間としてダメだと思った。ひとまず保留だ。


「わぁ。嬉しいです! うふふ……。これって合鍵ですよね!」


 まあ、そうなるのか? 小林さんは嬉しそうに受け取った。


「でも、すいません。とりあえず今日は、実家うちに帰ろうと思います」

「は?」


 今、何て言った? 実家に帰る? 私の聞き違いか?

 でも、私は頭のどこかで理解してるんだろう。失恋したみたいな気持ちが込み上げて、結構本気で死にたくなってきた。……これまで失恋したこと無いから、よく分からないが。


「え? 追い出されたんだろ?」

「そうですけど、別に勘当じゃないですからね」


 何バカなこと言ってるんですか、みたいなノリで小林さんが苦笑した。

 確かに、物凄いバカじゃないか、私。


「いやいやいや……。普通、勘当されたって思うだろ? もう二度と、敷居を跨げないんじゃないのか?」

「そんなわけないですよ。まあ、追い出されて新しい寝床を探さないといけないのは本当ですけど、猶予あるに決まってるじゃないですか。昨日だって、本当は帰れたんですから」

「だったら帰れよ!」


 だ、騙された感が凄い……。やっぱり、ソウルメイトじゃないだろ、これ。

 私は小林さんから鍵を取り上げようとしたが、ひょいと躱された。


「本当に帰っていいんですかぁ? 赤ちゃんみたいに、わたしに甘えてたのに?」


 小林さんが、小悪魔じみた最高にウザい笑みを浮かべ、自分の唇を撫でた。

 ……キスだけじゃなくて、舌まで絡めたことを思い出してしまう。


「もう知らん! 私は先に出るからな! 片付けは任せたぞ!」


 結局のところ、図星だから何も言い返せなかった。私はコーヒーを飲み干すと、イラッとして席を立った。

 決めた! 絶対にこの部屋から追い出してやる!


「安心してください。準備して、明後日には帰ってきますから」


 小林さんの小さな笑い声を聞きながら、洗面所に入った。

 歯を磨くと、自分の部屋でスーツに着替え、リビングのテーブルで化粧した。

 時刻は午前八時過ぎ。いつもより少し遅くなったが、出勤の身支度を終えた。


「いってらっしゃい、さおりん」


 スウェットから着替えている小林さんから、満面の笑みで言われた。

 は? さおりん?

 生まれて初めてそのように呼ばれたが……二十九という年齢もあり、あまりにもキツすぎる。鳥肌立つぐらい気持ち悪い。生理的に無理なやつだ。


「い、いいか? 昨日のことは忘れて、会社では普通にしてろよ?」


 私は聞こえなかった振りをして、念を押した。


「ちょっと、いってきますのチューしてくださいよ!」


 まだ何か聞こえた気がするが、玄関まで見送りに来たアミに手を振って、部屋を出た。

 鎮痛薬が聞いて頭痛自体は良くなっていたが、私は頭を抱えていた。

 まあ……とりあえず、会社に行こう。



   *



 めっちゃ不安だったが、普通にしろという言いつけを、小林さんは守っていた。いつも通りの時間に出社して、いつも通り適当に仕事していた。

 まるで……昨日何事も無かったかのように。

 ただ、二日続けて同じ服装なのを同僚からイジられていたが、上手く躱しているようだった。

 オフィスでは、課長席から課員の様子が一望できる。今更ながら、新卒の入社一年目である小林さんの席が一番遠かった。

 明るく電話に応えているのが、私にとっていつもの光景だった。これまで視界に入りはしたが、気に留めたことは無かった。


「課長、どうしたんですか? 朝からボーッとしてますけど」


 正午のチャイムが鳴るや、隣の席の夏目係長から、眼鏡越しに呆れた視線を向けられた。

 この人との付き合いは、私が営業に異動になってから、もう六年になる。キツイというかヒス気味の性格だから、未だに苦手だ。夏目さんが二年先輩なのに、私が課長になってしまったから、余計に気まずい。


「いや、すいません。昨日、飲み過ぎちゃいまして……。午後ひるからは、シャキっとしますんで」


 私は苦笑した。嘘は言ってない。

 ちらりと小林さんの席を見ると、もう姿は無かった。いつも、ランチどうしてるんだろ……一緒に食べたいわけじゃないが。


「ちょっとコンビニまで、何か買ってきます」


 いつもなら人気の少ないオフィスで手作り弁当を広げているが、今日は無かった。

 というか、一刻も早く夏目さんから逃げたい……。


「どれだけ体調悪くてもお弁当作りは欠かさないのに、珍しいですね」


 この時間のエレベーターは混むから――三階から夏目さんと一緒に階段を下りたところ、ぽつりと漏らされた。

 あー、もう! うるさいな! 私がどうしようと、私の勝手だろ? 何が言いたい?


「居酒屋のランチに行きますけど、課長もどうですか? 値段の割に、味も量もまあまあ良いですよ?」

「すいません。胃が死んでて、そんなに食べれないんで……。また機会があれば、お誘いください」


 昔、ランチでもブツブツもしくはネチネチ言われたことあるから、絶対に嫌だ!

 二日酔いの言い訳がここでも使えて、結果的には良かった。


「そうですか……。それじゃあ、ランチ行ってきます」


 一階まで下りてオフィスビルを出たところで、夏目さんが残念そうに別れた。

 はー、こっちは清々した。お願いだから、昼休みぐらいはそっとしておいてください。

 夏目さんとなら、まだ小林さんとのランチの方がマシかもな。そのように思いながら、私は社員証をスーツの内ポケットに仕舞って、コンビニに向かった。

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