短編集
時任しぐれ
好きです
「あ、うん。ありがとう」
彼女はそう言ってすっと前を向いた。隣にいる僕は彼女の目線を追いかける。その先には何もなかった。
「それで、君はどうしたいのかな。かき氷屋に向かってかき氷が好きだと叫んだところで、かき氷は出てこないよね。注文をして、お金を払って、初めてかき氷を手に入れられる」
付き合いたいと、そう口に出した。彼女はやはり僕の方を見ることはなく、浅いため息を吐く。
「私がいいよって言えば、そこからたぶんいわゆる男女交際が始まるんだろうね。手を繋いでデートをして、まあ普通に恋愛とされているものをするんだろうさ」
彼女はこちらを向く。目線が僕をはっきりと捉える。
「好意と恋の違いについて、君は答えられる?」
しばらく考えて、好意とは恋に内包されているものであると答える。別のものではなく、数直線上のどこか一点にすぎないと。
彼女は再び目線を逸らす。どうやら違うらしい。
「さっきも言ったけど、ここで私がいいよって言ってもいいんだよ。たぶんその方が"幸せ"だと思う。全うに順当に行けばそれで御の字だろうし、喧嘩別れしたってそれも経験だ。別にマイナス要素なんて何もない」
じゃあ、どうして?
「君は私を好きだと思う?」
思う、と答える。
「たとえ私がどれだけ醜くなっても私のことを好きだと言える?」
言える、と答える。
「嘘なんだよ、それって」
嘘じゃないよ、と言う。
「嘘じゃないって思ってるうちはね」
再び視線がぶつかる。彼女の大きな黒い瞳に吸い込まれそうになる。強い目線だった。
「君は私を好きだと思っている。でもそれは本当に私なのかな。私にはそうは思えない。君は私を見ているわけじゃない。君は私じゃなくて、自分の中にある理想化された私に対して告白してるんだ。だから言葉が届かない。好きだと言われてもそうなんだとしか思えない。嬉しくないわけじゃないけど、心の底から嬉しいわけじゃない。心の中で自分に都合のいい"私"を描いている。もちろん君の中にいる私も私ではあるんだろうね。ただそれは私にとって、私と同義じゃないのさ」
そうじゃない、と言ってみる。ちゃんと見ていると。君のことを見ているから好きだと思うのだと。
「それだよ」
彼女は続ける。
「私でさえ私のことがわからないのに、どうして君には私が見えているって言えるのかな。私が今こうして発している言葉は? 本当に私のものだと言い切れる? 何を根拠に? 言葉っていうのは音だ。音は空気の振動だ。それが私から発せられていると、私の中から発せられていると何を以って証明できるの? 本当に私が思っていることを話していると思う? じゃあどうしてそう思えるの? 私が平気な顔で嘘を吐くことができる人間なら、それでも君は私に好きだと言ってくれるの?」
好きだと言えるよ、少なくとも今は。そう答えた。
「結局私がイヤなのはそこなんだろうね。『少なくとも今は』なんて、そんなの当たり前に当たり前のことなのに。君が悪いっていうわけじゃない。誰しも人のことっていうのは見ているようで見ていない。それは当たり前のことなんだ」
現に私もそうだと言う。
「私が話している君が、君であるという定義ができない。私は私の網膜に映る君を見て話しているけれど、全くの同じ信号を与えられて、それが君ではないと判断することはできないと思う」
鼓膜に伝わる振動、網膜に映る光、肌に触れる感覚、人肌を通して伝わる温もり。全部合わせても、まだ足りないと思ってしまう。それは私を私たらしめる証明にはならないと。君を君たらしめる証明にはなり得ないと。
「重ねて言うけど、君が悪いっていうわけじゃないんだ。さっきのこともそうだけど君のことは正直な人だと思う。一生好きだと言えるなんて、そんな虚言を吐かれるよりは好感が持てるよ」
好意と恋の違いだと言ったよね。
「そうだね」
あなたにとって、好きっていうのはそういうことなの?
「そういうことだよ」
ごめんね、と彼女は言った。
「私は悲しいんだよ。君が私のことを見えてないということと、私もまたそうなんだっていうことがさ」
だから君の好きだという思いに対して、私が何らかの返答をすることはできない。
「まあ、こんな人間でいいならこれからも帰り道くらいは一緒にいてあげるよ」
でもそれが私かは私にもわからないし、隣にいる君が本当に君なのかもわからないのだけれど。
それでもよければ、ね。
「そう言い残して彼女は先に行った」
「卒業まで彼女と会うことはなかった」
卒業式の日、彼女に再び会うことができた。だからあることを伝えた。
「それは、どうしようもない虚言だね」
そう言って彼女は盛大に笑った。彼女の笑顔というものをこの日初めて見た。
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