記録2 選択

 かつてまだ、この神聖マルガリア王国が出来たばかりの、混沌とした黎明の時代に。

 国家建設に関わった、一人の男がいた。

 その男の名はいかなる歴史書にも刻まれておらず、ただその存在のみが、人伝に語られるだけなのだが。

 初代国王やそれを支える大臣たちと言った、表舞台の裏側で。悪魔を召喚し憑依させるその技術によって、男は国家建設の障害となる人物を次々と片づけていった。

 そんな男が死の間際に。召喚し自身の娘に憑依させた悪魔こそが、上級悪魔アルバストゥルであり。

 男は召喚されたアルバストゥルと、たった一つの契約を結び、その場で息絶えたと言われている。

 その契約とは自分の死後召喚されるたびに、この国の守護に力を貸してほしいというものであり。

 男とアルバストゥルとの間で、どんなやり取りが交わされたかは分からないが。アルバストゥルは契約によって蒼の聖女となり、以後召喚されるたびにマルガリアを護って来たのだ。

「……以上が、蒼の聖女伝説の隠された真相です」

 召喚書を見つめる私に、ドゥーガル司祭が淡々とした口調で語った。

 正直、まだ信じられない思いだ。悪魔を裁くべき立場にある教会が、いやこの国そのものが、上級悪魔の召喚書を国宝としているなどという、とんでもない真実に。

 だが一方でここに来た瞬間から、私の心はどうしようもなく、目の前の召喚書に惹きつけられているのが分かった。召喚書から見えない糸が伸び、私の胸に繋がっているような感じであり。私はこの召喚書によって、導かれてここに来たのではないかと、錯覚してしまいそうになる。

 この気持ちと感覚を、どうしていいか分からずに。私がただ目の前の召喚書から、目を離せずにいると。

「リイン」

 隣に立つドゥーガル司祭が、落ち着いた口調で私の名前を呼んだ。

「私が何故あなたに。一級とはいえ、一介の悪魔祓いに過ぎないあなたに、この召喚書の存在を教えたか、その理由が分かりますか?」

「それは……」

「リイン。それはあなたが、『蒼の聖女』になることが出来る、適性を持った人間だからです」

 司祭の言葉に、私はやっと振り向くことが出来た。ドゥーガル司祭はそんな私に軽く微笑むと、真剣な瞳で真っ直ぐ見つめ返してきた。

「アルバストゥルを憑依させるには、幾つかの条件があります。穢れなき処女おとめであること、一定以上の魔術の才能があること。そして」

 司祭はそこで言葉を区切り、リインの蒼く長い髪へと視線を向ける。

「美しい、蒼い髪を持っていること」

「……」

 無意識に、私は己の髪に触れる。あまり手入れはしていないのだが、それでも髪はさらさらと指に絡まって来た。

 しばらく沈黙が流れ、私は司祭になんと答えるべきか考えていた。

 要するに、司祭は迫りくる戦争に備えて、私に蒼の聖女になれと言っているのだろう。蒼の聖女となり、この国を護れと。

 私だって人並みに愛国心があるし、戦争で敗れた国が辿る末路が、どれだけ悲惨なものかは知っている。

 だがここですぐに頷けるほど、従順でもなく。未練も後悔も人並みにあり、何より一級悪魔祓いとして、悪魔に憑依されるのは抵抗があった。

 思案する私のことを、司祭は何も言わずに見つめていたが。やがて短く息を吐き出すと、優しい瞳と声で私に言った。

「……と、いっても。別にあなたに蒼の聖女になれと、強制しているわけではありません」

「では……」

「あくまであなたには、『選択肢』がある、ということを伝えたかっただけです。蒼の聖女候補は、まだ他にもいますからね」

「……」

「だからあなたは拒否しても、何なら候補から外れるよう、剃髪したり貞操を散らしたりしても構わない。ただしその場合、記憶消去の魔術をかけさせてもらいますが」

 そこまで言って、司祭は私に背を向けた。

「戦争は刻一刻と迫って来ていますが。今ここですぐに決断を出せと言うのも、酷でしょうから。リイン、あなたには少しだけ、考える時間を上げましょう」

「ドゥーガル司祭……」

「だがどうかくれぐれも、自分が後悔する選択だけはしないように―――では、帰りましょうか」

 歩き出すドゥーガル司祭に続いて、後ろ髪を引かれる思いをしながらも、私はアルバストゥルの召喚書が保管された部屋を出る。

 扉を閉じて防護魔術を掛けなおし、転送魔法陣に乗って本部の執務室に戻ると。司祭はいつもと変わらぬ笑みを浮かべて、私に言った。

「もう一度念を押しておきますが。今見聞きしたことは、絶対に口外しないようお願いします」

「……分かっております、司祭様」

 私が頷くと、司祭も頷き返し。私はそんなドゥーガル司祭に一礼して、執務室を後にした。

 ぼんやりと廊下を歩いていると、先程の出来事がまるで夢幻のように思えてくる。残った疲労によって、自分は幻覚を見ていたのではないだろうか。

 また無意識に、自分の髪の毛を弄りながら。とりあえず今日の仕事に取り掛からなければと、詰め所に向かって足を進めていたのだが。

「リイン」

 背後から名前を呼ばれて、私は立ち止まって振り向いた。

「マニュ」

「どうしたんですか、ぼーっとして」

 立っていたエマニュエルは、心配そうな顔をしていた。彼の顔を見た私は、やっと自分が空腹であったことを思い出す。

「あ……いや。ドゥーガル司祭に、少し怒られてしまってな」

「なるほど。リインが怒られるとは、珍しいですね」

 意外そうな顔をしてから、エマニュエルは私に優しい笑みを向ける。

「それよりも。どうせまた何も食べてないんでしょうから、食堂に行きましょう。僕もこれから食べるところでしたから、付き合いますよ」

「そうだな……何か、温かいものが食べたいな」

 私が言うと、エマニュエルはまた意外そうな顔をしたものの、何も言わずに歩き出した。

 食堂は朝にしては空いていて。私とエマニュエルは配膳係から、決まったメニューの乗ったトレイを受け取る。

 今日は林檎一切れ、トウモロコシとキャベツのスープ、必ず出てくる味の粗末なパンが一つだった。

 日によっては卵やソーセージが出るのだが、残念ながら今日はこれだけらしい。といっても無いよりはずっとましであるため、特に文句を言うこともなく、私はトレイを持って席に座る。

「いただきます」

 スプーンを手に取って、スープを口に運んでいると。隣に座ったエマニュエルが、私のトレイに水の入ったカップを置いた。水は一食三杯までなら、自由に飲むことが出来る。水がそれだけ飲めるだけでも、十分恵まれているといえるだろう。

「ありがとう、マニュ」

 礼を言って水を一口飲んだ私の横で。パンをちぎりながらマニュがため息を吐きだした。

「どういたしまして……それにしても、このパンの味どうにかなりませんかね。古い小麦を使っているとはいえ、もうちょっと美味しく出来ないものでしょうか」

 エマニュエルの言葉に、私は何も言わずに微笑む。ドゥーガル司祭の息子であるエマニュエルは、飢餓というものを知らない。

 何も食べずに数日間過ごすことも、残飯を漁って飢えをしのいだことも、エマニュエルにはないのだ。

 エマニュエルはリインが元孤児で会ったことは知っているが、どんな暮らしをしてきたかまでは知らない。だからといって別に、そのことを知って欲しいとも思わないが。

 だから向けた曖昧な笑みを、エマニュエルがどう解釈したかは分からないが。彼はパンをスープに浸しながら、ぼんやりと呟いた。

「……まあ。ガーエルンとの戦争が始まれば、こんな文句も言っていられなくなりますが」

「……そうだな」

 今日こうして食べられている不味いパンも、戦争が始まれば食べられなくなるかもしれない。パンだけではなく、スープも、林檎も、この水でさえも。

 ……もし、自分が蒼の聖女になれば。そんなこともなくなるのだろうか。

 なんて一瞬考えてから、私はすぐにその思考を振り払い、エマニュエルと同じようにパンをちぎってスープに浸す。

 こんな些細なことで決めてはいけない。後戻りは出来ないのだ。しっかり考えて選ばなければ。

 自分に言い聞かせながら、私はスープで柔らかくなったパンを、口に運んで行った。

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