宙鳥アルは始まりたい
福沢雪
前編
昔、人々は十桁からの電話番号を記憶していたという。
そういった無意味な数字の羅列を覚える脳の機能は、携帯電話やコンピューターにアウトソーシングされて久しい。
ウォッチ型やグラス型といったウェアラブルデバイスが発達したいまとなっては、喜怒哀楽や微妙な感情表現も機械が代行してくれる。
それが「EAS」――感情アナウンスシステムだ。
EASは内向的、人見知り、あるいは陰で「コミュ障」なんてささやかれていた僕にとっては、待ち望んでいたツールだ。
EASの登場以降、僕たちは人の顔色をうかがう必要がなくなった。頭の横に点灯するアイコンを見れば、相手の感情や本心を認識できる。
あれは忘れもしない、EASの常時起動が職場で義務づけられた最初の日のことだ。僕はラボに出勤して、同僚のS嬢に挨拶をした。
「おはようございます」
僕の表情がどんな風だったかわからないけれど、ウォッチ型デバイスからはなんのアナウンスもなかった。つまり僕の感情は【無】だった。
「おはようございます」
一方のS嬢は、にっこり微笑んで挨拶を返してくれた。しかし笑顔の横の空間には、【不快】を示すアイコンが投影されていた。
なかなかに残酷な結果だけれど、僕はS嬢に好意を持っていない。
挨拶は社会人としてのマナー、あるいは仕事を円滑に進めるためのコミュニケーション手段だ。それならば今後はお互いを無視したほうが、僕たちの業務効率は上がる。
こんな風に、EASは日常における無駄を省いてくれた。
EASがバージョンアップをくり返すたびに、ビジネスのスピードは加速していく。伝統や風習といった非合理的な文化が廃れ、社会における多くのハラスメントが駆逐された。
しかし世間から作り笑顔が失われたことを、ディストピア化だと見る向きもある。情緒のアウトソーシングは、昔の人々が愛した「もののあはれ」を抹殺するという考え方だ。
大昔、セルフレジが導入された時代にも似た論争があったらしい。
いわゆる「人間主義者」たちによれば、「コミュニケーションを失った人間はロボットと同じ」であるそうだ。
まったくもって、バカバカしいと言わざるを得ない。
EASはもともと、「大きな声を出せない」人々をサポートするために開発されたシステムだ。その理念の根底には、いじめやDVに対するSOSの可視化と共有がある。
つまりはサイレント・マイノリティの救済だ。
若い頃の僕は、電車で老人に席を譲って断られるのが嫌で、狸寝入りを決めこんだことがある。街で小さな女の子が泣いていても、変質者と思われたくないからと見て見ぬ振りをしたこともあった。
あのとき老人がEASをインストールしていれば、本当に座りたいか否かを見分けられただろう。自分の顔の横に【純粋な善意】が点灯していれば、女の子にも気安く「迷子?」と声をかけられる。
EASは不要なコミュニケーションを避けるものではない。むしろ人間主義者が賛美する、失われゆく「助けあい精神」を復活させるものだ。
現にEASがなければ、僕が彼女と出会うことはなかっただろう。
***
その日、僕は学生時代ぶりに渋谷を訪れた。
僕の仕事はマニピュレーター・エンジニアだ。身体機能に難があるクライアントの機械義手や義足を調整し、ユニークデバイス化するためのプログラミングを行っている。
医師ですら患者と対面しない時代に珍しいけれど、どうしても人と直接会う必要がある仕事だ。会社のラボに行く機会も多いし、性格的に向いてない仕事だと常々思う。
そんな陰の者たる僕にとって、陽の街たる渋谷は避けてきたエリアだ。
しかしこうして訪れてみると、かつて大騒ぎしていた若者たちの姿はどこにも見当たらない。
現代はなにもかもが、VRですんでしまう時代だ。
きっと若者たちは部屋にこもり、バーチャル渋谷で酒を飲んで車をひっくり返しているのだろう。
いまの渋谷は以前との落差がありすぎて、ほとんどゴーストタウンだ。あのスクランブル交差点にですら、人がまばらにしかいない。
だからハチ公前に立ち、顔の横に【困った】というアイコンを点灯させた彼女はとても目立っていた。
格別に、美人というわけじゃない。
焦っておろおろするような、あからさまな素振りもない。
黒髪のボブカットで、無表情で、白いカーディガンと適度な丈のスカートを身につけた、二十代半ばくらいのどこにでもいる女性。
きっとひと昔前だったら、誰も彼女に目を留めたりはしないだろう。
EASはまさに彼女のような、影の薄い人こそ救うシステムだ。
にもかかわらず、誰も【困った】アイコンを点灯させた彼女に声をかけようとしていなかった。
少ないとはいえ、辺りに人がいないわけじゃない。
いつの時代も、都会の人間は冷淡なのか。
あるいは人間主義者たちが言うように、人は本当に心をなくしてロボット化してしまったのか。
僕はいたたまれない気持ちになり、彼女に声をかけようか悩んだ。
そもそもEASがない時代なら、こんなことを考えもしないだろう。
でも彼女が助けを求めているのはアイコンでわかるし、僕のEASはこちらの目的がナンパでないことを証明してくれる。
「あの、なにかお困りですか」
EASに背中を押され、僕は彼女に声をかけた。
横目で自身のデバイスを確認すると、センサーが読み取った僕の感情は【純粋な善意】らしい。自分では目視できないけれど、僕の顔の横には手を差し伸べるアイコンが浮かんでいるはずだ。
「はい。目的地を忘れてしまったんです。ナビアプリにプロットしていたんですが、操作を誤ったせいかデータが消えてしまって」
彼女がこちらを見たので、僕は慌てて視線を避けた。
すると彼女の顔の横に、ほっと息を吐く顔のアイコンが点灯していることに気づく。おそらくこの瞬間、僕の顔の横にも【安堵】を示す同じアイコンが点灯しただろう。
「それはたいへんですね。ナビの履歴は確認しましたか」
僕は彼女の視線を避けながら尋ねた。
「はい。履歴も消えてしまったようです。友人と会う約束をしていたので、たぶん飲食店だと思うのですが」
よくある話だ。現代人はスケジュールの管理をアプリに任せている。アプリがリマインドしてくれなければ、僕たちは予定があったことすら覚えていない。
「でしたら、ご友人に連絡されてはどうでしょう」
「それがちょっと変わった友人で。直接場所を教えてくれないんです」
彼女が腕を突きだしてくる。
タトゥー型のデバイスが表示しているチャットアプリには、「センター街のほぼ中央」、「パンケーキがおいしい」、「地下にある」といった、ヒントじみた文章が並んでいた。
僕はそういった店に明るくない。彼女もすでに検索はしただろう。
それならと僕は久しぶりに空間投影キーボードを呼びだし、テキスト入力での検索を試みた。昔ながらのこの方法は、音声検索にはないワードのサジェストが期待できる。
ほどなく該当しそうな店がヒットしたので、「ここではないですか」と彼女のデバイスに座標を送信した。
「はい。ここだと思います。ありがとうございました」
彼女が表情もなく、ぺこりと頭を下げた。
しかし顔の横には、【好感】を表すハートのアイコンが点灯している。
「そ、それでは」
僕はどきりとしてしまい、会釈してその場から逃げるように去った。
仕事の現場に向かいながら、胸がときめいているのを感じる。
笑顔にひと目ぼれしたならまだしも、表情と感情のギャップに心を射抜かれるなんて初めてだった。人間主義者たちが言うのとは逆に、むしろEASは人から新しい感情を引きだしているかもしれない。
おかげで僕は、仕事中もずっと心ここにあらずだった。
「うれしいわ。あたしみたいな、おばあさんを好いてくれて」
頬を染めるクライアントに言われて、僕は自分の顔の横に【好感】のアイコンが点灯していたことに気づく。これは非常にまずい。
一応は、僕にも恋をした経験はあった。
だからいまの自分の感情が、それの始まりだと自覚はできる。
けれど実際に、それが実ったことは一度もなかった。
リアルで女性の手すら握ったことのない三十路の男が、ほんのわずかに話しただけの名も知らぬ相手に恋をする。それがどれほど無謀なことか、僕は十分に理解していた。
なのに仕事を終えると、僕はパンケーキ屋を目指してしまった。
あれから三時間は経過している。彼女は友人に会うと言っていたし、ずっと店に留まっていることはないだろう。
にもかかわらず奇跡を夢見てしまうのだから、恋とは厄介な感情だ。
僕は息せき切って、店に到着した。
しかし席を見回しても、彼女の姿はどこにもない。
このとき僕のデバイスは、【落胆】だけでなく【安堵】も示していた。
自分が彼女にふられずにすんで、ほっとしたということだろう。
心の予防線まで可視化するEASを見ていたら、うっすらと【怒り】のアイコンが点灯した。EASは八つ当たりも自覚させてくれる。
いつまでもここにいる意味はないので、僕は駅へ向かった。
結果、今度は自分のEASに【?】のアイコンを三つ並べることになる。
ハチ公前に、彼女が立っていたのだ。
出会ったときと同じ無表情のまま、頭の横に例の【困った】アイコンを点灯させて。
「あの、なにかお困りですか」
彼女に話しかけた僕は、きっと笑っていたと思う。
腕のデバイスにも、再会の【喜び】と【照れ】が同時に表示されていた。ふたつのアイコンが組みあわさると、【気恥ずかしい】を意味する。
当然、僕は彼女にも自分と同じ反応を期待した。
なにしろ数時間前に【困った】を点灯させて会話した相手が、再び目の前に現れたのだ。どうしたって、ばつが悪いに決まっている。
けれど彼女の返答を聞いて、僕は呆然となった。
「はい。目的地を忘れてしまったんです。ナビアプリにプロットしていたんですが、操作を誤ったせいかデータが消えてしまって」
僕の記憶がたしかなら、さっきと一言一句違わぬ返答だ。
いったいなぜと考えて、思い当たった答えに愕然とする。
「まさか、あなたはロボットですか」
信じられない思いで僕は口にした。
「はい。わたしはEAS――感情アナウンスシステムのチュートリアルロボット、宙鳥(ちゅうとり)アルです」
彼女は淡々と自己紹介をした。
感情豊かなアイコンに反し、まったく動かない表情。
ごく簡単な検索で見つかった、いかにもな目的地。
彼女が【困った】を点灯させているのに、声をかけない周囲の人々。
それらすべてに合点がいった瞬間、僕の顔の横にはどんなアイコンが点灯しただろう。
すぐにその場を逃げ去ったから、いまとなってはわからない。
ただ頬から耳から熱いので、目下の僕が真っ赤であるのはたしかだ。
「検索。チュートリアル、EAS、ロボット」
駅のホームへ駆けこんだ僕は、柱の陰で腕のデバイスに命じた。
表示された情報から、『宙鳥アル』は彼女が言ったようにEASのチュートリアルロボットだとわかる。
アルは都内の数ヶ所や地方都市の街角に立ち、ゲームの「初期クエスト」のように、EASを用いた人助けの導入補助をするのが目的らしい。
昨今のロボットは「不気味の谷」を越え、人間とほぼ見分けがつかない。
しかし会話の際にきちんと顔を見ていれば、表情筋の動きの不自然さに気づくことはできる。
目を見て話さずアイコンばかり気にしていた僕に、彼女がロボットだと気づけないのは当たり前だった。
しかし真実が判明しても、僕のデバイスに【落胆】は表示されていない。
それどころか、【好感】のアイコンがふたつも点灯している。
アルがロボットだとわかった瞬間、僕は恥ずかしさを自覚した。
ただそれは彼女がロボットだから――つまりは自分が壁に話しかけているようなものだと気づいて、情けなかったわけじゃない。
たとえるなら、女性を男性と思いこんでしまった失態に似ている。
僕はロボットを人間だと思いこんでしまったことを、アルに対して失礼だと感じたのだ。
そしてとっさの反応というものは、人間の本能に基づいている。
失礼を働いたのに謝罪もしないで逃げだしたのは、僕が冷静でなかったからだ。なぜ冷静ではなかったかと言えば、それは考えるまでもない。
人間だとかロボットだとか関係なく、僕が宙鳥アルに恋をしたからだ。
「でも、いまはどうなんだ」
何本も電車を見送り、柱の陰で自問自答する。
宙鳥アルはロボットだ。自我なんてないAIだ。
僕は機械に恋をするようなアブノーマルではないし、そんな自分を認められるほど強くもない。
それでもアルの顔を思い浮かべると、胸にじんわり火が灯る。
帰宅してシャワーを浴びても、無表情の残像が洗い流せない。
なにより腕のデバイスに、ハートのアイコンがまた増えている。
気づけば翌朝、僕は渋谷を訪れていた。
ハチ公前にいるアルを、離れたところから見守った。
生身の女性が相手なら、こんなストーカー行為は許されないだろう。
けれど相手がロボットだからこそ、思いを伝えることもできない。
僕は繰り返しハチ公前を訪れた。
うっかり近づいてアルと目があうたび、頬と耳を熱くして逃げだした。
僕はいったい、なにをやっているのか。
自分の行動に呆れながらも、足は自然と渋谷へ向く。
そんなある日、ささいなきっかけで僕たちは再び巡りあった。
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