さよなら、愛する人よ。-5

 神の剣は不思議なほどに易々と刺さり、悪魔の胸を貫いた。

 生温かい血が流れ出して、悪魔でも血は赤いのか、などと場違いなことを思った。

 即死だった。苦しまずに、逝けたと思う。

 殺して、わかった。彼はおそらく、元々弱っていた。一度死んでいるからなのか、核とやらが傷ついていたからなのか。詳しいことはわからないが、世界に起こした大混乱は、彼の最後の魔力だったのだろう。推測でしかないが、あのままでも、長引かせることはできなかったのではないだろうか。

 体が形を失って、さらさらと灰になっていく。指先から抜け落ちた黒い指輪が、ぶつかってカラカラと音を立てた。


 そうだ、首を。持って帰らなくては。


 ぼんやりした頭で、そう思った。肉体が全て消滅してしまうのでは、殺した証明が無くなってしまう。切り離したら、残らないだろうか。

 首に刃を切りこませると、まるで果物でも切るかのようにストン、と首が落ちた。切り離された首は灰になることはなく、切り口から流れた血もすぐに止まった。


 その首を抱いて、呆然と肉体が灰になっていくのを見ていた。いつの間に夜が明けたのか、周囲が薄ぼんやりと明るくなっている。木々の間から淡い光が漏れ、巻き上がる灰に反射した。

 細かな粒が風で流されていく中、小さな光が浮き上がるのが見えた。それはふわりと舞って、そのままでは空へと飛ばされてしまいそうだった。


 ――いけない。


 何故、そう思ったのか。衝動的な行動だった。その光を捕まえて、口に含んで、飲み込んだ。


「――――……!」


 全身に痛みが走った。それでも、吐き出す気にはなれなかった。

 これが、なんなのか。わからない。わからないけれど、出てくるな、と口を押さえて、体を丸めた。

 暫くすると痛みも落ちついてきた。息を切らせて、脂汗を浮かべながらも、奏澄は立ち上がった。


 帰らなければ。船へ。待つ人のいる場所へ。


 僅かに痕跡は残しながらも、油のようなものはすっかり引いていた。地面は土で、見える範囲には魔物の姿も無い。一人でも、進める。

 ちかりと光った指輪を目にして、迷った末、奏澄はフランツの指輪を拾って、ポケットに押し込んだ。

 そして震える足を引きずるようにして、森の中を歩き続けた。




*~*~*




 歩き続けて、どれだけたったか。時間の感覚は無かったが、ひたすらに足を動かした。そうしていると開けた場所に出て、遠目に船が見えた。ああ、コバルト号だ、と思った瞬間、体から力が抜けた。

 駄目だ。歩かなくては。見えているのに。あと少しなのに。


「カスミ!!」


 首を抱えて座り込む奏澄の耳に、切羽詰まったような声が聞こえた。

 緩慢に頭を持ち上げれば、こちらに駆け寄ってくる人影が見えた。


「――ぁ……」


 小さく、喉の奥から引き攣った音が出た。

 愛しい人が、駆けてくる。叫んで、縋ってしまいたいのに、声が出ない。足が動かない。ただ、涙だけが溢れた。


「どうした!?」


 息を切らせたメイズが、膝をついて、奏澄の体に触れる。怪我が無いかどうかを確かめているようだった。

 そして、奏澄が大切そうに抱えている首を見て、一瞬沈黙した。これを見れば、悪魔を討ち取ったことはわかっただろう。

 奏澄の頭を引き寄せて、宥めるように背中を叩く。


「よく、頑張ったな」


 違う。その言葉は、口にできなかった。

 メイズは多分、奏澄が人を殺した重責に耐え切れずに泣いているのだと思っているのだ。

 違う。そうじゃない。けれど、あの場でのことを口にするのは、フランツとマリアの約束を汚すことになる。

 何も言えない。あの二人のことは。生涯、奏澄だけが抱えるしかない。


 遅れてやってきた仲間たちにも宥められながら、それでも奏澄は一言も発さずに、ひたすら泣いた。


 太陽の光は眩いほどで。夜は完全に、その姿を消していた。




*~*~*




 フランツの首を手放そうとしない奏澄から仲間たちが何とか取り上げて、輸送のための箱にしまった。腐敗を少しでも遅らせるため、黒の海域の奥深くで取れる大きな氷も用意されていたが、その首は何故か生きているかのように瑞々しいままだった。


 奏澄はすっかり憔悴しており、事情が聞ける状態ではなかった。共闘した玄武は詳細を気にしていたが、魔物発生の混乱で各地はまだ後処理に慌ただしい。青の海域に戻らねばならないと、説明は後日に回された。


 首を届けるため、コバルト号はセントラルへ向かって航海を進めた。奏澄は部屋に籠って、ベッドで寝たきりだった。食事もほとんど取らず、ろくに眠れていなかった。メイズのことも拒絶しており、あの日から一度も、メイズは奏澄と共に寝ていない。

 それでも何とか様子を見るに留めているのは、船医であるハリソンが、毎日奏澄の体調を見ているからだった。最低限健康が大きく損なわれていなければ、心の方は時間をかけるしかない。


「カスミさん。入りますよ」


 丁寧なノックの後、静かに扉を開けてハリソンが入室する。机に置かれたままの食事を見て、彼は顔を顰めた。


「また、食べてないんですか。少しずつでも、食べる量を増やさないと」

「……ごめんなさい」


 消沈した様子の奏澄に、ハリソンは溜息を吐いた。これでも少しは口にするようになったが、全然足りない。何がそれほど彼女を追い詰めているのか。それを、彼女は決して口にしないだろう。恋人にすら何も言わないのだ。聞けるとは思わないが、少しでも気力を取り戻してもらわなければ。


「……これを今のあなたに言うのは、負担を増やすだろうと黙っていたのですが」


 重々しい口ぶりに、奏澄は緩慢に首を傾げた。


「あなたは――……」


 続けて告げられた言葉に、大きく目を見開いた。

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