さよなら、愛する人よ。-2

 言葉が出なかった。あまりにも、突然のことだった。あまりにも、圧倒的だった。

 奏澄は起こったことが受け入れられず、ただ赤い瞳から目が逸らせずにいた。




 玄武が黒弦を捕らえた後で合流するはずだった、ニューラマード島近くの島にて。ひっそりと隠れるように泊めてあったコバルト号は、突然の襲撃を受けた。

 それがただの賊であるならば、コバルト号に残った戦力でも充分対処できた。しかし、最初の攻撃が黒い弦により行われたことで、船には一気に緊張が走った。


「黒弦だ!!」


 見張りの叫び声を聞いた瞬間、奏澄は剣に手をかけた。それで戦おうと思ったわけではない。ただ、反射的に、それが必要だと思った。

 上甲板に飛び出せば、既にそこは戦場だった。むせ返るような血の臭い。剣戟の音。飛び交う怒声。目の端に倒れたまま動かない玄武の乗組員を捉えて、奏澄はぞっとした。生きて、いるのだろうか。そうであってほしい。


 乗り込んできたのは、僅か二十ほどの手勢だった。対して、コバルト号の戦力は五十ほど。それでも、どちらが押されているかは一目瞭然だった。

 異様な空気を放つ男が一人、いる。黒い弦を遊ばせるようにして操っているが、それは確かに肉を裂き体を貫いていた。

 若い男の姿だった。夜の闇を溶かしたような長い黒髪に、血の色の瞳。わらう口元からは、牙と言えるほど尖った犬歯が覗いていた。黒弦の船長ということはそれなりの年齢のはずだが、悪魔は不老不死であると聞いている。では、あれが。

 固唾を呑んでその姿を追っていると。


 その男と、目が合った。


 瞬間、首から下げたコンパスが火傷しそうなほどに熱を持った。目が、逸らせない。

 苦しい。悲しい。切ない。――愛しい。


「カスミ! 戻んな!」


 マリーが奏澄を船内に引き戻そうとする。しかし奏澄はそれを無視した。一瞥もくれない奏澄を訝しんだマリーが、無理にでも引っ張って行こうとすると。


「いけ好かない気配がするな。――なんで神器なんか持ってる」


 赤い瞳が、奏澄を睨みつけた。奏澄がフランツの攻撃対象に入ったことに、全員が戦慄する。


「余所見すんじゃ……ねぇよッ!」


 既に傷だらけのラコットが果敢にもフランツに切りかかる。しかし彼のカトラスは鋼鉄のような弦に阻まれ、フランツの肉体に届くことはなかった。そのまま弦に足を貫かれ、しなった弦により放り出された彼の体は船の端まで飛ばされ、背中を強かに打つ。


「ラコット!」


 マリーが声を上げながら、ぼうっとした様子の奏澄を背に庇うようにして立ちはだかる。それをつまらなそうに眺めたフランツが、マリーに向けて弦を伸ばした。


『やめて、フランツ!』


 響いた声に、フランツの弦がマリーの目の前でびたりと止まる。

 僅か数ミリで刺さる位置にあるそれに、マリーは瞬きすらできずにいた。


「……てめェ」


 フランツから、怒気が立ち昇る。彼が名前を呼ばれるのを嫌う、というのは有名な話だ。だというのに、何故。


『てめェなんて呼ばないで。マリアよ。名前で呼んでって、言ったでしょう』


 奏澄の言葉に、フランツが目を丸くした。気が逸れたのか、マリーの眼前にあった弦が緩む。それに気が抜けて、マリーがたたらを踏んだ。戸惑いながら振り返って、マリーは驚愕した。

 金の瞳が、真っすぐにフランツを見据えていた。

 僅かな間赤い瞳と見つめ合って、堪えきれないように、金の瞳からは涙が零れ落ちた。


『会いたかった……フランツに、会うために、そのためだけに……わたしは……』


 流れる涙をそのままに、金の瞳は決してフランツから目を逸らさなかった。

 異様なその光景に、黒弦の乗組員までもが戦闘の手を止め、船長に声をかけようとしたその時。


 フランツが大きく舌打ちをしたかと思うと、黒い弦を奏澄の体に巻きつかせ、そのまま自分の手元に引き寄せた。


「カスミ!」


 仲間たちが名前を呼ぶ。しかし、奏澄はその声に反応しなかった。

 フランツは引き寄せた奏澄を抱えると、黒い弦を器用に操って、船外へと飛び降りた。


「えっちょ、船長ぉ!?」


 戸惑う黒弦の者の声も置き去りに、フランツは人の足ではとても追えないスピードで、その場から消え去った。




*~*~*




 コバルト号からだいぶ離れた森の中。木々に隠れるようにして、フランツは大木の下に降り立った。

 奏澄に巻きつけた弦は解かずに、拘束した状態のまま地面に放り出す。


「誰だ」

『いたたた、相変わらず、扱いが雑だなぁ。この子の体はそんなに丈夫じゃないんだから。手加減してあげてよ』

「誰だと聞いてる」

『さっき言ったでしょ。マリアよ。この体は、カスミっていう女の子のものだけど。わたしと同じはぐれ者なの。だから、ちょっとだけ体を借りてる。カスミの意識は中にあって、私と同じ景色を見ているし、同じ音を聞いているわ。そのつもりでね』


 フランツは顔を顰めて、奏澄の体――を使っているという、マリアの首に黒い弦を巻き付けた。暗い森の中でも、彼の目にはマリアの姿がはっきりと見えている。


「お前が本当にマリアだと言うなら、よく俺の前に顔を出せたモンだな。お前が裏切ったせいで、俺がどんな目に遭ったのか、まさか忘れたとは言わねェだろ」

『裏切ってない!!』


 喉が裂けそうなほどの悲鳴を上げて、マリアは否定した。金の瞳に涙を浮かべながらも、訴えるようにフランツに強い視線を投げかけた。


『裏切ってない。わたしがフランツを、裏切るはずがない! あの頃わたしにはフランツしかいなくて、フランツがわたしの全てだった。たまにしか会いに来なくても、フランツがいたから生きられた。フランツと生きていこうと思ってた。フランツを、愛してたから!』


 息を切らせて、マリアは目を伏せた。


『やっと、言えた……。ずっと、言いたかった』

「……そんな言い訳を、今更俺が聞くとでも?」

『信じなくても、いいの。裏切ったと、思われても。ただ、伝えたかった。愛してたって。フランツを、愛した女がいたんだって。あの頃、ちゃんと言えなかったから。地獄で会えたら、言おうと思ってた。でもフランツはこの世界に蘇って、何とか接触したかったけど、わたしは体を持てなかった。一人ぼっちのフランツを……見ているしか、できなくて……。ごめんなさい……! フランツを、傷つけて。一人にして。ごめんなさい。ごめんなさい……』


 泣き崩れたマリアに、フランツは黙ったまま拘束を解いた。


「何故、俺を殺した」

『……神に、操られて。無理やり眷属にされて、逆らえなかった』

「お前を殺したのは」

『殺されたんじゃない。フランツを……刺した、あとに、意識が戻って。フランツの後を追おうと思って、自分で死んだの』

「今更出てきたのは、どういうわけだ」

『何度も会おうとしたわ! でも、わたしは、意識だけの存在で……体がなかった。世界の狭間に囚われて、こちらに干渉できなかった。だからひたすら、繋いだの。神の眷属のまま死んだわたしは、その権能の一部を保持したままだったから。僅かに使える力で、はぐれ者をこの世界に送り込んだ。そのはぐれ者の内、はぐれものの島を出て、フランツとわたしと繋ぐコンパスを手に入れて。この世界の人間を愛して。そうやって、やっと条件が揃ったのが、カスミだった。この子とわたしは、似ているの。だから共鳴できた。カスミに感謝しなくちゃ』


 微笑んだマリアを、フランツは無表情で見ていた。


「そうまでして出てきて、お前は何がしたかったんだ」

『……フランツに、愛していると、伝えたかった』

「それだけのために?」

『それだけじゃないわ。大事なことよ。自分が、愛されていると知ること。必要とされているのだと、思うこと。それだけで、一人じゃなくなるわ。一人で生きるのは、寂しいことだもの。愛が傍にあるだけで、人は決して一人じゃなくなる』

「……だから、人じゃねンだっつの」


 溜息と共に、フランツは地面に座り込んだままのマリアの前にしゃがみこんだ。


「……マリア」


 その声色に、マリアは目を見開いた。

 するりと、フランツがマリアの髪を撫ぜる。


「他人の体、ってのは変な感じだが……ちゃんとマリアの気配がするな」

『わかる、の?』

「そりゃわかる。マリアの気配を、俺が間違うわけないだろ」

『だったら、なんで……っ』


 くしゃりと顔を歪めたマリアが、フランツに飛びついた。


『愛してる! 愛してる、愛してる、愛してる!』

「うるっせェ」


 顔を顰めながら、耳を塞ぐような仕草をするフランツだったが、マリアを引き剥がすことはせずに。


「……愛してた」


 ぽつりと。小さく、呟いた。

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