重なる温度-4

 赤の海域で一通りの準備を済ませ、緑の海域を過ぎ、コバルト号は順調に青の海域に進行していた。

 奏澄とメイズの仲も、順調だった。奏澄の性に対する苦手意識が拭われてきたので、島ではそれなりに楽しんでいる。

 しかし、奏澄の方では、メイズには言えない問題が発生していた。


 ――おかしい。


 最近の自分は、おかしい。どこがおかしいのかと言えば、全部おかしい。頭もおかしいし、体もおかしい。


「どうした?」


 メイズに声をかけられて、心臓が跳ねる。ぼうっとした奏澄を気にしたのだろう。しかし、顔が見られずに、奏澄は焦ったように答えた。


「な、なんでもない。私、やることあるから」


 あからさまな言い訳をして、奏澄はその場を立ち去った。

 残されたメイズは、怪訝な顔をして首を傾げた。




「メイズ。しばらく一緒に寝るのやめよう」


 自室の前。いつぞやと同じ提案をされて、メイズは固まった。


「何かしたか」

「ううん、メイズは何もしてない。大丈夫。私の問題だから」


 目を逸らしたままもごもごと言う奏澄に、メイズは眉を寄せた。


「最近避けてないか」

「き、気のせいじゃない?」

「ならこっち見ろ」


 少し苛立ったように、自分の方を向かせようとメイズが奏澄の顔に手をかけた。

 手が触れた瞬間、奏澄はびくりと肩を跳ねさせて、反射的にその手を払った。

 ぱしん、という音が響いて、双方が目を丸くする。

 手を払った奏澄の方が、明らかに『やってしまった』という顔をしていた。


「ご、ごめん! ごめんね! 大丈夫!?」


 奏澄はすぐに払ったメイズの手を両手で包んだ。内心はこの場を逃げ去ってしまいたい気持ちでいっぱいだったが、この状態でメイズを置いていくのは非常にまずい。辛うじてその判断だけはできた。


 呆然と黙っていたメイズは、奏澄の手を引いて、自室へ引き込んだ。

 驚いた奏澄は為す術なく連れ込まれ、そのままメイズに強く抱きすくめられた。


「メ、メイズ、ちょっと」


 明かりを灯す前の暗い部屋。扉を閉めてしまえば、廊下の明かりもろくに入らない。

 ぼやける視界で、奏澄は自分を包む体温と、メイズの香りだけを感じていた。

 どっと心拍数が上がって、訴えるようにメイズの体を叩く。


「メイズ、離して」


 メイズは答えずに、奏澄の頭を片手で胸元に押さえつけた。これ以上、言葉を聞きたくないということだろうか。顔が密着して、先ほどよりも強い香りに、頭がくらくらする。ああ、まずい。おかしくなる。


「は、な、し、て!」


 渾身の力を込めて体を押せば、腕が緩んだ。ほっとして距離を取り見上げると、暗さに慣れてきた目に映ったメイズの顔は、傷ついているように見えた。


「そんなに嫌か」

「い、嫌じゃないよ。そうじゃなくて」

「じゃぁなんだ」


 どうしよう。なんて返せば。だって、正直に言うには、あまりにもみっともない理由だ。けれどそれは、今目の前で傷つけたメイズよりも優先することだろうか。

 そんなはずはない。なら言ってしまえばいい。けれどそれを口にすることは、恥ずかしい、だけで済む問題でもなく。

 色々な考えが頭を巡って、何かを言わなくちゃという気持ちが溢れ出して、どうにもならなくて、奏澄のキャパを超えた。


「うー……」


 急にぼろぼろと泣き出した奏澄に焦ったのはメイズだ。この状況で泣きたいのはメイズの方だろうに、何故か奏澄の方が泣き出した。困惑したメイズを置き去りに、奏澄はしゃがみこみ、しゃくり上げたまま口を開いた。


「メイズのせいだぁー……」

「……何がだ」


 これは責任転嫁だ。この状況で奏澄が先に泣くのは卑怯だし、メイズは何も悪くない。それなのに、理由を聞こうとしてくれている。甘い男め。怒ればいいのに。


「メイズの、せいで、私、いんらんになったぁ……!」

「は……?」


 淫乱。思いも寄らない単語に、メイズは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

 完全に理解が及んでおらず、困惑して二の句が継げない様子だった。


「い、今まで、したいとか思ったこと、なかったのに。なんか、メイズに触られたりとか、近くで、匂いとかすると、なんか、し、したくなっちゃって、からだ、おかしくて、メイズのせいで変になったぁ! ばぁか!」


 もうこれはたから見たらギャグだろう。

 冷静な自分が俯瞰してつっこみを入れる。しかし当人は至って真面目に悩んでいて、制御がきかない状態だった。


 おかしい。今まで一度もこんなことはなかったのに。自分の体が、作り変えられていくようだった。快楽を重ねて、体がそれを覚えていく内に、ちょっとしたきっかけでその感覚が蘇ってしまうのだ。肌の感触であるとか、汗の匂いであるとか、そういったものにひどく過敏になってしまった。

 ろくに性欲など感じたことがなかっただけに、急に訪れた変化に戸惑い、一人で処理できる容量を超えていた。船ではしない、というルールを決めたのは奏澄の方だ。あれだけ厳重に言い含めていたのだ。メイズに言えるはずもない。

 しかし、船での時間が長くなればなるほど、ごまかしもきかず、疼きを抑えるには距離を取るしかなかった。ちょっと離れればすぐ収まると思ったのに。なんなのかいったい。バイオリズム的なやつだろうか。脳内ピンクになってしまったのだろうか。中学生じゃないのだから。


 泣きじゃくる奏澄を前に、メイズは力が抜けたようにへたりこみ、そのまま肩を震わせた。


「わ、笑うな!」

「っふ、いや、わる……ははっ」


 やっぱりギャグだった。あのメイズが声を上げて笑っている。


 メイズはしゃがみこんだ奏澄を抱き上げて、ベッドに座らせた。自身も横に座り、宥めるように緩く抱き締めて、頭を撫でた。


「よしよし」

「何で機嫌いいんだコノヤロウ」


 不貞腐れた奏澄とは対照的に、メイズはすっかり機嫌を直していた。


「なぁ、お前がルールを作ったのって、何のためだ?」

「何のため……って、船で共同生活するにあたって、必要なことを」

「聞き方を変える。誰のためだ?」

「……仲間の、ため?」


 仲間たちに、気をつかわせなくていいように。変な空気にならないように。

 隣人の性事情は、アパートでのトラブルに発展することもあるくらいポピュラーな問題だ。だから奏澄の認識では、これは『注意すべき問題』なのだ。


「そうだな。で、俺はあいつらと合流してから、割と目立ってお前にべたべたしていたわけだが」

「えっあれわざとだったんだ」

「まぁな」


 仲間の目がある時に限って、スキンシップが過多な気がしていた。奏澄としてはあれは恥ずかしいからやめてほしかったのだが、何か牽制でもしたいのかと思っていた。


「俺がどれだけお前に触れても、あいつらが嫌な顔をしたことは一度もなかった」

「うん、まぁ、そうだろうね」

「だろ? つまり、俺とお前が仲良くしている分には、誰も文句はないってことだ。むしろ喧嘩した方が心配をかける」


 奏澄は目を瞬かせた。まさかメイズがそんなところに気を配っていたとは。一応、メイズも気にして試してくれたのだ。仲間たちが、果たしてメイズと奏澄の関係性をどう見ているのかを。祝福に偽りがなかったとしても、他人がべたべたしているのを好まないタイプもいるだろう。

 何にせよ、言いたいことはわかった。仲間たちは、奏澄とメイズが船で行為に及ぼうが何をしようが、仲が良い分には見守ってくれるだろうと。それよりも、原因が何であれ、ぎくしゃくされた方が気になるし支障が出るだろうと。だから今、こうしてすれ違いが起きていることの方が問題だろうと。


「ルールは、俺とお前で決めたもので、他の連中は知らない。だから、お前さえ納得すれば、いつでも撤回できる」

「一度決めたことを、そう簡単に覆すのは」

「頭固いよな……。まぁ、俺の方から何かすることはない。約束したからな。してほしければ、いつでも言え」


 にやりと笑ったメイズに、奏澄は口を開閉させた。主導権を握っているのは、奏澄だ。ルールの決定権も奏澄にある。しかしそれ故に、誘う時は奏澄からしかあり得ない。


「原因はわかったし、今後は触るのに遠慮はしない。セックス以外は、禁止されてないもんな?」


 この状況を作り出したのは奏澄だ。しかし恨みがましい目をしてしまうのは、仕方のないことだろう。


 そして近い内に、この『ルール』は撤廃されることになる。

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