黒と白の神話-8
「なるほど。君の性質は、無垢に近い。
マリアは眉を寄せた。突然、なんだと言うのか。一方的に話すだけで、会話をする気が見えない。
聞きたいことは山ほどあるのに、口が開けない。喉が張りついて、声が出ない。
男の姿をした何かが、虚空に手を翳す。光が寄り集まって、真白な剣の形となる。宙に浮くそれを、マリアは緊張しながら見つめた。
「取りなさい」
体が勝手に言葉に従うように動き、マリアはその剣の下に両手を差し出した。
ふっと光が消えて、重力に従って剣がマリアの手に収まる。
全長五〇センチほどのそれは、確かな重みがありながらも、女性でも扱えるようなサイズだった。
一点の染みも無い純白に、繊細すぎる金の装飾は、儀式用の剣を彷彿させる。
何故こんなものを。
うろたえていると、マリアはじわりと手が熱を帯びていくのを感じた。
何かが、この剣から流れ込んできている。
まずいと思うのに、手が放せない。自分の体が得体の知れないものに浸食されていく恐怖に、マリアは怯えた。抗いたいのに、指の一本も動かすことができない。
嫌だ。怖い。助けて。誰か。
――フランツ!
「これは神器だ。君は人を捨てて、神の眷属となる」
その言葉は、もうマリアには届いていなかった。正確には、マリアの心には。
「悪魔を殺しなさい、マリア」
鞘から引き抜かれた白刃に、
*~*~*
浜辺に現れたフランツは、人の気配に視線を向けた。この島に人間は一人しかいない。また浜辺にいたのか。
「マリア」
慣れたように声をかける。こちらに背を向けた彼女は、きっといつものようにぱっと顔を輝かせて、犬のように走ってくることだろう。
しかし、その日はいつもと違った。
振り返った彼女は、いつもの無邪気な笑顔とは違う、妖艶な笑みを湛えていた。
違和感にフランツが顔を顰めると、彼女が駆け寄ってきて、フランツの胸元に飛び込む。気のせいか、と思っていると、すいと顔を上げた彼女の唇がフランツの唇を奪う。
至近距離で目が合って、気づいた。マリアの瞳が、
「――――!」
咄嗟に突き飛ばそうと肩を掴む。しかしその手に力は篭らず、フランツの体は崩れ落ちた。
「て、めェ……!」
フランツの胸には、煌めく白刃が深々と突き刺さっていた。
膝をつくフランツを、冷たい金色が見下ろす。
「神に、下ったのか……」
金の瞳は神の眷属の証だ。突き刺さる剣は神器。人間の剣ごときではフランツは殺せないが、神の剣はフランツの核を破壊する。マリアの気配に隠されて、気づくのが遅れた。
何故。いつから。最初から? いや、出会った時から通じていたのなら、今まで生かしておいたことに筋が通らない。どこかしらのタイミングで、寝返ったのだろう。
「裏切ったのか、マリア……!」
憎悪に燃える赤で、フランツがマリアを睨み上げる。マリアは一言も発さない。言い訳の一つも無いのか。
裏切った。そう思った自分に、フランツは乾いた笑いを零した。
裏切り、などと。それでは、まるで今までは信頼関係があったかのようだ。
所詮は人間。悪魔など、愛するはずがなかった。奴らの大半は神に従って、口を開けて与えられる幸福を待っているだけの生物だ。
信じた自分が、愚かだった。あの笑顔を。眩しく思ったことが、間違いだったのだ。
砂浜に、フランツの血が染みていく。濡れた赤い砂の上に、フランツの体が倒れ込んだ。意識が保てずに、視界が閉じていく。
もう二度と。人間など。誰かを、愛そうなどと。
――マ リ ア。
フランツの唇が、マリアの名前をかたどった。マリアの瞳から、一筋の水が流れ出す。
それを見ることなく、フランツの体は生命活動を止めた。
「終わったか」
海の上に、突如として六角形の窓が出現した。
その枠の内側から、神と天使たちが次々と姿を現す。
神が一度島へ道を繋いだことで、天使たちも道を通れるようになっていた。後片付けに来たのだ。
「まだ肉体が形を残しているとは」
フランツの死体に目を向け、手を翳そうとした神に対し、マリアが金切声を上げた。
「触らないで!」
役目を終えたことで呪縛の解けたマリアは、フランツに駆け寄った。
「フランツ、フランツ!」
動かないその体を揺するも、応答は無い。目の前の事態が信じられず、マリアは悲鳴を上げた。
「いやああああああ!!」
半狂乱になって叫ぶマリアに、神も天使も無感情な目を向ける。
「あなたは役目を遂げました」
「あなたは神の眷属です」
「我らの国へ迎え入れましょう」
天使たちが口々に告げる。これはマリアを憐れんでのことではない。ただの事務的な連絡に過ぎなかった。
マリアは神の眷属となった。神の力を持つ者を、人の世に置いてはおけない。神の手元に置いておかなくては。
「寄らないで!!」
フランツから引き離そうとする天使たちを振り切って、マリアはフランツの体から剣を引き抜いた。
抵抗するかと身構える天使たちに目もくれず、マリアは剣を自分の胸に深く突き立てる。
マリアの血が体から流れ出し、フランツのものと混ざって、砂に染みていく。
色を失っていく体で、フランツの体を抱きしめるように覆いかぶさった。
「ごめん……ごめん、ね。せめて、フランツと、同じ場所に……」
――フランツと一緒なら。地獄の底だって、怖くない。
「もし、生まれ、変わった……ら。今度こそ、愛……して、るって」
――愛してるって、言って。愛してるって、言うから。普通の、恋人みたいに。
――幸せにしてとは、言わないの。だって、できないって言うでしょう。だから、わたしが。
事切れたマリアを見下ろして、天使が口を開く。
「これはどのように処理しますか」
「共に在りたいというのなら、共に葬ってやろう」
神は浄化の炎を灯した。二人の肉体が瞬時に炎に包まれる。肉は燃えて灰になり、骨すら残らない。そのまま、何もかもが焼き尽くされるかに思われたが。
「…………」
神が、ごく僅かに眉を動かした。それは神が初めて見せた、感情らしいものだった。
「いかがなさいましたか」
「……驚いたな。これは、異界の者の力なのか」
浄化の炎は全てを焼き尽くす。肉も、骨も、魂すらも。
しかしどうしたことか。二人の肉体は燃え尽きても、その魂が壊せない。
マリアの力が、フランツを守っている。
ただの人間であるマリアに、元々そんな力は無い。しかし、神の眷属となったことで、マリアは神の力を取り込んだ。
本来、普通の人間を眷属にした場合、神の意志に反するような使い方はできない。神の力に抗うほどの強さも無い。
これは、マリアという特異な存在が起こした、奇跡とも言える現象だった。
「……悪魔の魂は、果ての地に封じる」
「眷属の方は」
「この島に放っておけ。元はただの人間だ。長くはもつまい」
悪魔を殺せるのは神だけ。ここで完全に消滅させるつもりだったが、それが叶わぬのなら仕方ない。力の核は破壊している。復活したところで、今までと同じように力を振るうことはできないだろう。ここまで弱っていれば、復活まで数百年はかかる。暫くの間は、神の領域を脅かすものは何も無い。その間に、世界の形をなるべく固定させておかなければ。
そこまで考えて、神は砂浜に光る物を見た。悪魔の魔力を感じる。魔具の類か、とそれを拾い上げる。
「……これは」
神が手にしたものは、フランツの用意したコンパスだった。じっと見ていると、それは二人の血が染みた場所に反応しているようだ。
壊すのは容易い。だが。
「これは後の世に任せよう」
「良いのですか」
「元より、この島は私の
神はコンパスを天使に手渡すと、厳重に管理するように伝えた。
そして、人の世が安定し、神たちが姿を消した後。道が完全に閉ざされてしまわぬように、自分たちの領域に入口を一つ、固定した。
悪魔の魂は世界の果ての地、後に黒の海域と呼ばれる区域に封印された。
マリアの魂は、次元の狭間にある島――はぐれものの島に置き去りにされた。
かくして、神と悪魔の対立は、神の勝利として終結した。悪魔の存在は、まるで完全に消失したかのように語られた。
悪魔の恐怖から解放された人類に、神は心の拠り所を示した。
信仰だ。世界を統治するには、統一された思想が要る。
人々が信じやすく、都合の良い物語が要る。それでいて、真実を含むものを。
人の罪悪感を刺激する物語が良い。英雄となる象徴がいるのが良い。
そうして作られたのが、セントラルに伝わる創世神話である。
以降数百年の間、平穏は保たれた。
人々は神を信仰し、神の住まう国は世界の頂点に君臨し続ける。
悪魔が復活する、その日までは。
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