黒と白の神話-7

 マリアは裸足で波打ち際を歩いていた。こうすると、足に生ぬるい海水が触れて心地良い。

 基本的には住居の周辺にいることの多いマリアだが、フランツが訪れるようになってから、浜辺に来ることが多くなった。彼がいつも、浜辺に現れるからだ。

 今日は来るかもしれない。来ないかもしれない。期待を胸に、彼の顔を思い出す。


「フ」「ラ」「ン」「ツ」


 吐息を漏らすように、音に出さずに彼の名前を唇だけでかたどる。それだけで、自然と顔がにやけるのがわかった。

 フランツ。この名を与えたのは、自分だ。彼はきっと適当につけたと思っているだろう。実際、それほど深く考えたわけではないのだけれど。

 フランツ。自由な人。彼の何にも囚われない奔放な姿は、マリアにとって憧れだった。




 マリア。その名は、初めから生贄になるために与えられた名だった。

 隣人を愛せ。村人を愛せ。島を愛せ。神を愛せ。この世の全てを愛せ。

 我が子のように慈しみ、運命さえも愛し、受け入れよ。

 そのように育てられたマリアは、その通りに育った。外の価値観など、知らなかったからだ。マリアにとっては、村が全てだった。出自すらも定かではないが、村人たちは自分を愛してくれた。だから愛を返した。それはマリアにとって当然の行いだった。

 それでも、自由への憧れが無かったわけではない。

 マリアには、望まれていた姿があった。望まれている役割があった。そこから逸脱することはできなかったし、その方法も知らなかった。けれど、時折思うのだ。この村の外には、何があるのだろうと。自分が愛すべき世界とは、どのような形をしているのだろうと。

 それでも、自由を追い求めることは、村人たちから貰った愛に反する行為だ。マリアは村人たちを愛していたから、裏切るような真似はしたくなかった。


 歳を重ねて、いざ海神に捧げられるとなった時。村人たちは、笑顔でマリアを送り出した。神の花嫁になるのだと。肉体という器を捨てて、永遠の楽園で幸せになるのだと、祝ってくれた。マリアも笑顔で、海へ出た。


 岩場に一人取り残されて。マリアは初めて、不安というものを覚えた。誰もいない。何も無い。波の音しか聞こえない広い空の下、ただ一人。

 それでも、海神様が迎えに来るのだと信じて、マリアは孤独に耐えた。

 時間が経つにつれ、潮が満ちていき、岩場が海に沈んでいく。足の先が冷たい海に浸って、マリアは思わず体を引いた。そのことに、マリア自身が驚いた。

 この身は、これからこの海に沈むのに。自分はそれを受け入れているはずなのに。

 役目から、逃げようとしたのか。

 恐ろしかった。体が震えた。それは寒さに対してなのか、死への恐怖からなのか、自分自身に対してなのか。わからなかった。どうして、今更。

 何も怖いことなど無い。この身は十分愛された。それを今、返すだけ。


 体が海に浸っていく。震えが止まらない。頭の先まで海水に浸かってしまえば、当然のように呼吸もままならず、肺に水が入っていく。

 後悔など何も無い。幸福に満ちた人生だった。最後に愛する人たちへ、恩返しもできた。

 それでも、もしも。一つ、願えるのだとしたら。


 恋というものを、してみたかった。


 万人を愛すマリアには許されなかったもの。ただ一人を特別扱いする行為。

 村の娘たちが時折頬を染めて話すそれが、マリアにとっては微笑ましく、また僅かな憧れを抱かせた。

 村の娘たちのようになりたいと思ったことは無い。マリアの人生は、マリアだけのものだ。それを手放したいとは思わない。

 ただ、もしも。別の人生があったのなら、と空想することくらいは。

 心の内だけは、マリアが唯一自由にできるものだった。


 もしも、恋をするのなら。その人は、どんな人かしら。

 優しい人かしら。逞しい人かしら。頭のいい人かしら。美しい人かしら。

 背は高い? 歳はわたしより上? どんな声をしているの?

 でもきっと、どんな人だったとしても。

 わたしはその人を、うんと特別扱いして。世界一幸せにしてみせるのよ。




 当時を思い返して、マリアはくすりと微笑んだ。

 結局マリアが恋した相手は、思い描いていたような素敵な人とは全然違った。

 身勝手で、適当で、口が悪く、暴力的。

 けれど、自由で、他人におもねることが無く、堂々としたところが清々しい。

 これが本当に恋かどうかはわからない。他に誰もいないから、寂しさから温もりを求めてのことかもしれない。

 理由など何でもいい。例えこれが思い込みだったとしても。今、マリアは、弾むような心のときめきを感じている。

 自分は一度死んだのだ。なら今生は、好きに生きてもいいだろう。

 村にいた時とは違う。マリアの命はマリアのもので、マリアの体もマリアのものだ。マリアの好きに使っていい。ならば。


 ――彼に全てを捧げたいと思うのも、わたしの自由でしょう。


「君が、マリアか」


 突如背後からかけられた声に、マリアは体を硬直させた。浮かれていた気持ちが急激に冷えていく。声でわかる。フランツではない。

 しかしマリアの警戒心の理由はそれだけではない。

 この人物は。音も無く、気配も無く、突然現れて。色も温度も無いような声をしている。いや、そもそも、人なのか。

 怖い。心臓が痛いくらいに胸を打つ。何故これほどに恐怖を感じるのか、マリア自身にも説明がつかなかった。

 振り返りたくない。けれど確認しないわけにはいかない。マリアは意志の力で、固まった首を無理やりに動かした。


 そこには、白銀の髪と金の瞳を持つが立っていた。

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