黒と白の神話-5

 島を出たフランツは、地上のありさまに顔を顰めた。

 大地が、砕けている。

 かつて果てが見えぬほどに広がっていた地面は、分断され、時間の経過によって移動し、大量の水に浮かぶ島となっていた。

 それぞれの島はある程度の広さがあり、散らばった人間は小さなコミュニティを形成しているようだった。

 フランツは舌打ちした。翼を持たない悪魔は、空を飛んで移動することができない。だが、この大量の水は、底が見えない。歩いて渡ることは不可能だろう。沈んでも溺れ死ぬことはないが、上がってこられなくなる。何らかの手段を講じなければ、別の島へ移動することはできない。


 ――寒いな。


 吐いた息が白い。この場所は、どうやらとても寒いようだ。

 寒さで凍ることは無いが、温度はわかる。だが、それだけではない。

 今まであった温度が無いから、寒いのだ。

 そのことに気づいて、フランツは苛立たしげに眉を寄せた。

 大量の水を睨みつければ、遠目に何かが浮かんでいるのが見えた。目を凝らすと、何やら木の皮を丸めたものに、人間が乗っている。

 目視できる距離ならば。

 フランツは指先から黒い弦を伸ばし、見えた物体に引っかけた。そしてそのまま引き寄せる。


「よォ」


 にぃと口の端を吊り上げると、それに乗っていた男は青ざめた顔をした。


「いいモン持ってんな。なんだこれ」

「ふ、ふね、です」

「フネ?」

「う、海を渡るための、乗り物です。島と島を、行き来するには、これが、必要で」

「へェー……」


 海。そうだ、海だ。マリアも言っていた。

 あの島は、それだけで独立した空間だった。どこへも繋がっていないから、あの水の先へ行こうなどとは露ほども思わなかった。

 しかし、ここでは、この水を渡るための移動手段が要る。


「これ貰うぜ」


 一方的に告げて、フランツは男を船の外へ放り出した。


「えっ!? こ、困ります! わ、私も、船がないと、自分の島へ帰れません……!」

「知るかよ。海に突き落とさねェだけマシだと思え」


 積んであった櫂を手に取って、しげしげとそれを眺める。


「これで動かすのか?」

「か、返して、ください」


 縋る男を冷たい目で見下ろして、フランツは男を踏みつけた。


「使い方を、訊いてんだよ。訊かれたことだけ答えろ」

「う……っ、そ、そうで、す。それで、水を、かいて……っ」

「はァ、なるほどな」


 なんとなく、どういう装置かは把握した。

 フランツは船に乗り込むと、一匹の小さな魔物を生み出した。それは猿に似た形で、全身毛むくじゃらだったが、手だけは人間のようにつるりとした五本の指を持っていた。

 ぎょろりとした目でフランツを見上げたそれに、櫂を持たせる。


「じゃァな」


 軽い声で告げて、フランツは男を置き去りに、船を出した。毛むくじゃらの魔物は、器用に小さな手で櫂を動かしている。

 島に残された男は、恨めしげな目で、離れていくフランツを見送った。


 恨め。憎め。それが、悪魔の力となる。


 あの男の悪意程度では、こんな小さな魔物にしかならないが。人の集まる場所へ行けば、いくらでも生み出せる。

 人間はいつでも悪意に満ちている。できるなら、血の臭いのする場所へ行きたい。

 気分が高揚する。ようやく調子を取り戻せたと、フランツは楽しげな笑みを浮かべた。


 ひとまず人の気配がする島へ船を寄せると、フランツは慣れた臭いを嗅ぎ取った。

 

「――ははっ」


 乾いた笑いが零れる。ああ、やはり、人間は変わらない。土地が変わっても。悪魔の自分が姿を消しても。争いを、やめない。

 心地良い悪意の気配を感じ取りながら、フランツは魔力を放出する。

 地面に黒い油のような液体が滲みだし、どろりどろりと形を変えながら、獣の姿になっていく。


「さァ。狩りの時間だ」


 魔物たちが一斉に駆け出す。血と肉の焼ける臭いを目指して。




 悪魔の再臨に、人間は再び恐怖に震えることとなった。

 極寒の地へ取り残されたかと思われた悪魔だったが、人間の生み出した海を渡る技術を用い、近くの島々へ移動していた。まだ長距離航海できるような船が存在しないため、神の住まう地へ来るまでには相当な時間がかかるだろう。しかし、放置していればそれも時間の問題だ。天使たちはざわついた。


「あれは奈落へ落ちたのではなかったか」

「いったいどうやって戻った」

「力を失って弱っていたはず」


 大鏡に映る悪魔の姿を、神は無感情な目で見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る