2.チェンジリング

 王妃教育は王宮の一室で行われることになった。


 講師のグラナート夫人は初老の女性で、未来の王子妃を導くには年齢が行き過ぎていると思ったが、先代の妖精姫――アルベルトの曾祖母にメイドとして仕えていたらしい。


「ジゼル様。妖精姫である貴女様にはまず、この王家と妖精界の歴史から学んでいただかなければなりません」


 分厚い歴史書を前にジゼルは背筋を正す。何事もまずは情報収集からだ。特に妖精姫としての授業はジゼルしか受けられないのだから、できるだけ多くの手がかりを集めて兄に伝えたい。


「その前にまず注意事項として――ジゼル様は妖精界に行かれたことはありますか?」


「ええ、何回も。物心ついたときから頻繁に行き来しています」


 仕える家の令嬢といえど、当主が疎んじる娘に肩入れするわけにはいかない。メイドや使用人は最低限の接触しかして来ず、寂しさを持て余したジゼルは気まぐれに現れる妖精のあとを付いて、彼らの世界に足を踏み入れた。


 陽炎のように空間がたゆたう場所が入り口だ。そこを抜けると広大な大地や満天の星、オーロラの広がる雪原――くぐり抜ける度に違う場所に出るのか、爪先から頭のてっぺんまで震えが駆け上るほどの雄大な景色が広がっている。


 この入り口は普通の人間には見つけられないらしく、ふっと姿を消しては別の場所から現れるジゼルに、屋敷の者はますます寄りつかなくなってしまった。


「美しいでしょう、妖精の世界は」


「ええ、それはもう。グラナート夫人、行ったことがあるのですか?」


 彼女は遠くを見るように眼鏡の奥の目を細めた。


「ええ。アンネリーエ様……先代の妖精姫に手を引かれて。湖に虹のような光が広がって、信じられないほど綺麗だった……」


 この人はきっと、アンネリーエを姉のように慕っていたのだろう。だから彼女は心許したいたいけな少女に宝物を見せたのだ。


「人間も妖精界にいけるのですね。入り口が見えないようでしたけど」


「妖精の血を引く者に手を引かれれば人間にも門をくぐれると仰っていました。ですがジゼル様、妖精界と人間の世界には時空の歪みがございます。こちらの世界での一秒があちらでの一年、あちらの五日がこちらの五十年……法則性はありません。この歪みの影響を受けないのは妖精の血を引く者のみ。つまり人間界ではジゼル様だけとなります」


 慌てて手元のノートにメモを取る。


「ジゼル様と手なり何なりで触れあっている間は人間も歪みの影響を受けませんが、貴女様との繋がりが途絶えた瞬間、時空の波に攫われてしまいます。ですので人間、特にアルベルト様を妖精界の入り口に近づけてはなりませんよ」


 気軽に行き来していた境界線では思っていたより恐ろしいことが起きているらしい。「妖精界 浦島太郎」と書いて、枠線でぐりぐりと強調した。


「肝に銘じます、夫人。……また、妖精界に行きたいですか?」


 ジゼルが手を引けば、夫人はまた思い出の景色を見られるかもしれない。そう思って提案したが、微笑みと共に首を横に振られてしまった。


「いいえ。あの景色はアンネリーエ様の思い出と共に閉まっておきましょう」


 夫人の宝箱が閉まる音が聞こえた気がした。誰にも触れさせず、錆び付いた鍵を愛でることで永遠になるものがあるのかもしれない。


「では、本の一ページ目を開いて下さい。この国の始まりについて」


 前世の物語に出てきた魔法書のような見た目をしていることもあって、そこに綴られている内容はおとぎ話のように感じられた。


 ――その昔、デルバール王国は妖精が愛でる秘境でした。そこで宝石が採れると聞きつけた周辺国は侵略しようと試みますが、妖精たちの魔力に跳ね返されます。しかし争いは絶えることがなく、兵士の数が膨れ上がりいよいよ乗り込まれそうになったところに旅人の青年が現れ、たった一人で一網打尽にしたのでした。


「漫画みたいな人ですね」


「マンガ?」


「……いえ、何でもありません」


 ――青年に深く感謝した妖精は彼と契約を交わし、魔力を持った子孫が生まれる血と、デルバール王国を青年に託したのでした。こうしてクライノート王家は代々授かった魔力で国を守り、発展させていったのです。


「えっ、ということはおにい――アルベルト様も魔法が使えるということですか?」


「ええ、アルベルト様は風の魔力を持っておいでですよ。王族の中でも特に強い魔法が使えると、陛下が喜んでおられました」


 ――お兄ちゃん、風魔法が使えるのか。なんかゲームキャラみたいでかっこいいな。


「ジゼル様こそ、魔法が使えますでしょう?」


「私の場合は使えると言っていいのかどうか……」


 人間界の空気に晒されすぎたからだろうか、ジゼルの使える魔法はだいぶ弱い。瞬間移動といえば凄いものに聞こえるのだが、せいぜい五メートル先に移動するのが精一杯だ。それも一回二回の移動だけで疲労困憊してしまう。


 前世でも「お兄ちゃんは優秀ね」などと兄ばかり褒められていたが、こっちでもそれは変わらないらしい。


「あ、そういえば初代王の血を引いた人間は魔力が使えるんでしたよね。私はてっきり、取り替え子を王妃にするのは王族に妖精の血を混ぜて魔力を保ちたいからなのだと思っていたのですが、これを読む限りその必要はありませんよね……?」


 妖精の取り替え子――チェンジリングとも呼ばれるそれは、人間の赤子を攫った妖精が身代わりに置いていく妖精の赤子のことを指す。頻度は気まぐれで、人間が目を離した隙に取り替えは完了しているから予防する手立てもないという。


 女児ばかりなのは連れてきた人間に自分たちの子供を産ませたいからだとか、魂の似た赤子を交換しているだけだとか言われているが、それも理由は定かではない。


 モントシュタイン伯爵家の悲劇は、待望の我が子を迎えて半年のある日にジゼルと取り替えられてしまったことから始まった。


 午後の微睡みから覚めた頃かと揺りかごを覗き込んだ伯爵夫人は屋敷中に悲鳴を響かせたらしい。小麦色だった髪は青と紫が混ざり合うようなグラデーションに、ゆっくりと開いた瞳には三日月型の白い光が浮かび、それはおよそ人間のものではなかったという。


「父も母も自分の子供ではない私を受け入れることができず、母は塞ぎがちになってしまい……最近弟が生まれて、やっと少し落ち着きを取り戻したようなのですが、やはり本物のジゼルを諦められないようです」


 記憶が戻るまでは周囲の人間からの冷遇に毎日泣き暮らしていたジゼルだが、今では彼等に同情している。我が子を突然奪われ、代わりに押し付けられた奇妙な子供に愛情を注げと言われても無理な話だ。


「私が王妃になり、モントシュタイン家から王族が出るなら父も母も少しは報われるのではと思っていたのですが、王妃が取り替え子である必要が無いのでしたら……」


 前半は前世の記憶を思い出す前に思っていたことだが、いま重要なのは後半部分だ。妖精姫を王妃に置くことが形骸化したただの伝統なら、婚約破棄も問題視されないかもしれない。


「ジゼル様はまだ七つでしたか。とても賢くていらっしゃる」


 そういえば、七歳らしい喋り方を意識するのを途中から忘れてしまっていた。妖精だから賢いと誤魔化すことはできるだろうが、成長して凡人になってしまったとがっかりさせては申し訳ない。


「このような話はあまりお聞かせするものではないかもしれませんが、歴史を学ぶ上で、妖精姫が王妃になる由来となった出来事については避けて通れませんからね」

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