シャノアン家の求婚試験
レライエ
第1話マクシミリアン家の場合
「…………は?」
私ことシャノアン公爵夫人に仕えるメイド、ミズ・グレイにとってその瞬間の青年の顔は、茫然自失という言葉を教えるのに最適な教材だった。
見ただけで溜飲が下がるような、ここ一週間ほどの苦労が洗い流されるような、心地の良さを彼女は感じていた。少なくとも三日間はこの表情で笑えるだろう、間抜けな顔だった――そして実際、彼は全く間抜けだった。
「言った通りよ。貴方と私の娘との婚姻は、その一切が取り止めになった。貴方はここにもう来なくて良いし、今後娘に会うこともないわ。まあ、まだ会わせて無いからそれは変わらないけれど」
「どういうことですかっ?!」
「その滑稽さに免じて、私の言葉を聞き返す無礼は大目に見てあげるわ、マクシミリアン卿」
シャノアン公爵夫人はそこで、わざとらしく扇子を口に当てた。「失礼、こう呼ぶべきだったわね……ヘンリケ卿?」
「それは、どういう……」
「貴方は名前で呼ばれるのがお似合いだということよ」
青年の頬がさっと赤く染まる。
すかさず身構えた私を公爵夫人が制する。随分と怒っているように見えるけれど、問題ないということなのだろうか。
確かに、青年は未だ公爵夫人の前にひざまずいたままだ。彼女の言葉はかなり青年の気分を逆撫でしたようだけれど、流石は見栄と体面の貴族家業、彼の膝は絨毯から離れていない。
まあ、と私は眉根を寄せた。それも時間の問題でしょうけれど。
「状況の説明を惜しむつもりは無くてよ、貴方の程度は理解しているわヘンリケ卿」
「いくら何でも無礼でしょう、シャノアン公爵夫人! あ、貴女の位と我がマクシミリアン家との差は解っていますが、名前で呼ばれるほどとは思えない!」
「そうね、マクシミリアン伯爵の家柄は悪くない。私の『青』に劣るとはいえ『色付き』でもあるし、本家のライム家からも近しい。そもそもそうでなくては、貴方に今回の話が行くわけも無い」
「……ならばそれなりの礼というものがある筈だ」
「解っていないのね、ヘンリケ卿。私が敬意を払うべきなのはマクシミリアン家であって、最早貴方では無いのよ」
「俺こそがマクシミリアン家だっ!」
とうとう青年は立ち上がった。「ジュノス・マクシミリアン伯爵が長男、正当なる後継者だ!」
「黙りなさいっ!」
夫の死後きっちりと家を守ってきた公爵夫人の一喝は、二十歳そこそこの若者には強烈に効いた──貴族の、親の庇護のもとでなに不自由無く育ってきた若者の、浅い誇りなど相手にもならないというように。
「……ヘンリケ卿。貴方は私に何か、隠していることがあるのではなくて?」
「まさか」
出鼻を挫かれたとはいえ、青年はそれなりに貴族らしさを発揮して見せた。「お……私は栄光あるマクシミリアンの名に恥じぬよう、常に考えております」
私は唇を引き締めた。
少しでも緩めば唇は歪み、嘲笑の凱旋を許してしまいそうだったからだ。主人が客人と話しているというのに使用人が笑い出しては様にならないし、折角整えた状況に難癖をつけられても困る。
既に獲物は罠にかかったのだ──締めは手早く行わなくては。
「口先だけは御立派だわ、ヘンリケ卿」
勿論女主人は主人らしく、気ままに青年を嘲笑った。「お父様の御苦労が偲ばれるわ、愚か者にきちんと言葉を覚え込ませたのですもの」
「っ、どれだけ馬鹿に……」
「ミズ・グレイ」
ようやくの出番に、私は一層唇を引き結ぶと、銀トレーを捧げ持ちながら青年の前に進み出た。
「ミズ・グレイ……?」
青年はそこで初めて私の方を見た。布を掛けられたトレーの膨らみを見て、訝しげに顔をしかめている。「使用人が何だ、茶なら今は……」
サッ、と私はトレーから布を剥ぎ取った。
青年の反応は、駆け出し奇術師を充分に満足させるものだった。
こぼれ落ちそうな程大きく見開いた目、血の気が失せて青ざめた肌、言うべき言葉どころか空気さえ見付けられないみたいにパクパクと開閉を繰り返す口。それらが合わさった顔は全く見事な見世物だった。
とはいえこれは、私に奇術師の才能が大いにあるという訳ではない。というか、誰がやってもこのくらいの反応を引き出すことは出来るだろう──これを見せたなら。
露になったトレーの上には、借用書の束が載せられていた。額は少額なものから私の給金一ヶ月分まで様々で、宛名は勿論全て、ヘンリケ・マクシミリアンだ。
「貴方が思うマクシミリアンの名に恥じない行為というのは、随分と幅広いようね、ヘンリケ卿」
公爵夫人は一通を手に取り、大袈裟に驚いて見せた。「それに勇敢だわ、これだけ負けが込んだカードに何度も挑むだなんて」
それに、と夫人の目が鋭さを増す。『社交界の妖精』と讃えられた頃から十二年、歳月は彼女から美を奪うことなく磨き上げた──不機嫌さを少し視線に込めるだけで、相手が震え上がるほどに。
「何よりも勇敢なのは……嘘をついたこと。私に、この私に、隠し事をして隠し通せると思ったことよ」
「あ、当てはあるのです!」
悲鳴よりはマシ、という程度の声を上げながら青年は公爵夫人にすがりついた。「数は多くとも、額面は大したことはありません! 御息女との婚姻の前までには全て、精算してみせます!」
「その必要はないわ、ヘンリケ卿。それらの借金は全て、精算済みだから」
「は……?」
公爵夫人は何も言わなかった。何も言わず、跪く青年のことをじっと見下ろしている。
家名を象徴するかのように透き通る碧眼に、自分への情けなど欠片も存在しないことに気付いて、青年は息を呑んだ。
気付いたのだ。
目の前の女性は自分への慈しみなど持ち合わせておらず、破滅を避けてやるつもりもないということに。
ということは彼女がこの借金を肩代わりしてくれる筈もない。
だが彼女は『精算済み』だと言う。では、誰が借金を払ったというのか?
当たり前の疑問には当たり前の答えがあるものだ――その答えがようやく、公爵夫人が彼を名前で呼び続けた理由と重なった。
……貴族の礼儀として、後継者たる長男を名前で呼ぶことは無い。呼ぶのはよほど親しい相手との私的な場か、或いはそんな礼儀など吹き飛ぶくらいに互いの格が離れているか、それとも喧嘩を売っているかのいずれかだ。
後継者ならば。
「マクシミリアン伯爵は、分家の子を一人、養子に迎えたわ。近々御披露目があるでしょうね……『後継者として』」
そういうことだ。
この愚かな若者が拵えた借金の山を、公爵夫人は勿論彼の父親に伝えた。
常々の振る舞いに伯爵自身、思うところはあったのだろう。こちらの提示した証拠を前に彼は深くため息を吐くと、その場で求婚の申し込みを辞退したのだった。
トドメを刺された青年はそのまま床にへたり込んだ。
何もかもを失った若者を公爵夫人は退屈そうに見やり、短く、「お帰りのようだわ、ミズ・グレイ」とだけ言って立ち上がった。
「外までご案内を。それからお茶と食事を運ばせて。あぁ、伯爵に御祝いの手紙を書くからその準備もして頂戴」
「かしこまりました、奥様」
「……よ」
「? いかがいたしましたか、ヘンリケ卿?」
「図に乗るんじゃあねぇよ!!」
青年は叫びながら跳ね起きた。拳を強く握り締めて、振りかぶりながら数歩先の公爵夫人へと突進しようとする。自業自得で降り注いだ我が身の苦難を、少しでも与えようとするように。
公爵夫人は動かなかった――青年を見ることもしなかった。その必要がまるで無かったからだ。
「「「動くな」」」
声は三重、衝撃もまた三度、青年を打ちのめした。私が正面から、他二人のメイドが左右から、青年を殴り床に戻したのだ。
全く当然、シャノアン家の中で公爵夫人を傷付けることなど誰にも出来ないというわけだ。
「外までお見送り致します、無礼な方」
唯一動かなかったメイド長が、眼鏡を光らせながら言った。「その後の道行きは、最早私どもの知ったことではありません」
私たちに引きずり起こされながら、青年はガックリと肩を落とした。それを憐れに思うことはもう、父親さえしないだろう。
「お食事をお持ちしました、奥様」
「ありがとう、ミズ・グレイ」
それから程無く、私はカートを押して公爵夫人の書斎を訪ねた。
青い絨毯と青いデスクチェア、それに青いドレス。【青】の一族筆頭としての装束を嫌みなく着こなす主人の姿には、未だ来客を迎える力強さが漲っている。
「……マクシミリアン伯は条件を呑んだわ」
ドライフルーツたっぷりのケーキを切り分ける私に、公爵夫人はボソリと囁いた。「求婚時の持参金はそのままこちらへ、それと、彼が保有する古文書の譲渡」
「では、仕分けなくてはいけませんね。ミス・ドルナツに準備をさせます」
「お願い。こちらに届くのは明後日になると思うから、直前に声をかけるように。あの気分屋にやる気を維持させるのは、出させるよりも難しいから」
「かしこまりました、奥様」
「それと、今回も良くやってくれたわミズ・グレイ。見事な仕事だったわ、あの馬鹿貴族のアラを見付け出してくれて」
「それが、私が生きる理由ですから」
私は心から、そう言った。
生きる理由、生かされる理由。
「私はこれからも、御嬢様への求婚全てを無効にしてみせます」
私は礼をする。メイド服の裾を持ち上げ、膝を曲げて、完璧な角度で礼をする。
教えられた通りに、公爵夫人が望む通りに。
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