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Ito Masafumi

第1話

 東京都郊外にある精神科病院。その薄暗い独房のような個室に、ひとりの女が入院している。パイプベッドの上に白いスウェット姿でうずくまる細い体躯をしたその女は、ゆっくり袖をまくって両腕についた無数の自傷跡を眺めた。白い肌に背中まで伸びた黒髪のロングヘア、すっと通った鼻筋、透き通った唇、二重のくっきりした形のよい目をしており、十分に美貌を具えているが、瞳は生気が感じられず濁っていた。女は袖を下ろして膝を抱えると、格子窓を見た。一面の空を黒い雲が覆っていた。


 同じ頃、病院内の診察室でふたりの男が対面して座っていた。眼鏡をかけて、白衣を着た精神科の医師と向かい合うように、黒のスリーピーススーツに身を固め、オールバックにした銀に近い白髪に、鋭い目を黒いライトカラーのサングラスで隠した男がいる。警視庁刑事部捜査一課管理官の綿矢宗臣わたやむねおみだった。

「退院は許可できません」

眼鏡を押し上げた医師がひと言告げた。

僭越せんえつながら、こちらとしては無理にでも退院させる所存です。事件捜査のために彼女の力が必要なのです」

眉間に皺ができている綿矢が静かに反抗した。

「入院してから二年、やっと落ち着いてきたところなんです。もし過度な刺激を与えたら、また自殺しかねない」

危惧する医師に綿矢が返した。

「そうならないよう万全の注意を払います。ですから、どうか」

綿矢は深く頭を下げた。

「どうなっても私は知りませんよ。なにかあったら、あなた方の責任です」

医師は椅子を半回転させて背中を見せた。

「ご了承いただき感謝します」

綿矢は首を垂れたまま礼を述べた。


 空から雫が一滴落ちてくる。その数が次第に増えていき、外は激しい雨に打たれていた。その雨音をベッドの上でうつむいたまま聞き流していた女は、ふと気づいて顔を上げた。部屋の隅にもうひとり女が微笑を浮かべて立っている。ショートヘアに白いワンピースを身にまとった、二十代前後の小柄で可愛らしい若い女だった。だが、その姿は透けており、はっきりしなかった。ベッドにいた女がそれを見て口を開いた。

梨恵りえ・・・」

女はベッドから降りると、片手を差し出して、そのもうひとりに触れようとしたが、相手は煙のように消えてしまった。女は出した片手をだらんと下げて、そのまま床に倒れ込んだ。虚ろな目で横たわる女は低い声で呟いた。

「梨恵、私もう人間じゃないから・・・」

女は、緋波千里ひなみちさと。警視庁刑事部捜査一課の刑事である。


 病院の廊下を歩いていた綿矢はスマートフォンを耳に当て、伝言を残していた。

「彼女が退院する。明日だ。きみが迎えに行きなさい」


 翌日の朝、昨日の雨とは一転、空は晴天に恵まれていた。警視庁本庁舎の会議室では、綿矢が椅子に腰掛け、机に肘をついて指を組んでいた。正面には、下ろした前髪をやや七三分けにした、一見おとなしそうなスーツ姿の若い男が緊張した面持ちで直立していた。警視庁刑事部捜査一課の諸星学もろぼしまなぶである。昨日、綿矢がダイヤルしたのもこの刑事だった。

「事件の概要は伝えてある。きみはサポート兼、監視役だ」

綿矢が口火を切って続けた。

「彼女に武器は持たせるな。特に拳銃や刃物は。まあ、警棒は良しとしとこうか」

「なぜです?」

諸星が訳を訊いた。

「捜査する前に彼女が自殺を図る恐れがあるからだよ」

綿矢が落ち着いた声で言った。

「捜査が行き詰ってるとはいえ、そんな危険な状態の人をどうして参加させるんですか?」

諸星がさらなる疑問を投げかけると、綿矢が腰を上げた。

「彼女の頭脳だよ」

綿矢は自分の頭の側頭部を人差し指で軽く叩いた。

「二年前の事件以来、彼女の人間性は豹変してしまった。だが、卓越した捜査能力は今も変わっていない。あの驚異的な観察力や記憶力、そして洞察力。私はそれに賭けているんだよ」

後ろで手を組んだ綿矢は、諸星に問いかけた。

「きみ、ポーカーはやるかね?」

「いえ、トランプのゲームなのは知ってますが、ルールは知りません」

突然振られた意図不明の質問に、諸星は戸惑いながらも答えた。

「ace in the hole」

綿矢が呟いた。

「はい?」

諸星が聞き返す。

「ポーカーの一種にスタッドポーカーというのがあるんだがね。負けるかもしれない窮地に立たされたときに、逆転の好機として使えるカードがあるんだよ。彼女がまさにそのカード、最後の切り札なんだよ」

綿矢は腕時計を見た。

「そろそろ退院の時間だ。行ってくれ」

「はい」

諸星が会議室を出ようと踵を返すが、すぐに振り返り綿矢に訊いた。

「警視はなぜ、僕を指名したんですか?」

「きみはキャリアだろう。キャリア同士息が合うと思った。それだけだ」

綿矢は簡潔に答えると、会議室の窓に映る景色を見やった。


 精神科病院の広く静寂な待合室で諸星は落ち着かない様子でソファに座っていた。何度も腕時計や壁掛け時計を見て時間を確かめている。

「もう来るはずなんだけどなあ」

そのとき、奥の廊下から靴音が響いてくる。窓から射す陽の光を浴びながら、ナチュラルブラウンに染めた長い髪をなびかせて、千里が歩いてきた。紺の長袖のカットソーに黒いスリムなデニムパンツを身に着け、黒革のテーラードジャケットを片手に持ち、同じく黒革のショートブーツを履いた千里は待合室まで来ると立ち止まり、辺りを見回している。諸星は小走りで千里の前に駆け寄った。

「緋波警部ですね」

諸星は腰を折って敬礼した。

「刑事部捜査一課警部補、諸星学と申します。よろしくお願いします」

「よろしく」

千里は素っ気なく返事をした。

「早速ですが、事件の詳細を・・・」

諸星が説明を始めようとすると、千里が遮った。

「どうやって来たの?」

「えっ、あっ、車で。覆面です」

千里は、持っていた革の上着を羽織った。

「話は車の中で聞く。どのみち捜査本部行くんでしょ。案内して」

「あっ、はい」

病院を出ていこうとする千里の雰囲気に押されながらも諸星は追いかけた。


「これを」

 諸星は覆面パトカーのダッシュボードから千里の警察手帳と手錠が入ったケース、そして、警視庁捜査一課の証である赤い丸バッジを取り出して、本人に手渡した。千里は警察手帳と赤バッジを上着の内ポケットに入れ、ケースをベルトに取り付けると、車の助手席に乗り込んだ。諸星も運転席に乗り、エンジンのスタートボタンを押した。


 車中で諸星は事件の詳細を千里に話した。現場は、七節町ななふしちょうにある遊歩道の上に架かった短い陸橋。一週間前の深夜一時頃、帰宅途中の会社員が橋から白いシーツに巻かれた男の遺体が両足首と欄干を麻のロープで結びつけられた状態で逆さ吊りになっているのを発見、警察に通報した。遺体は全裸で、右手の人差し指が切断されていた。被害者の名は須永典之すながのりゆき。身元は歯の治療痕から判明している。司法解剖の結果、死因は手で首を絞められたことによる頸椎けいつい骨折。抵抗した痕跡はなく、犯人は被害者の意識を失わせてから扼殺やくさつしたものと思われる。指は死後、切断されたものとわかり、死斑がなかったことと死後硬直の具合から、死後六時間以内に遺棄されたものと推測された。鑑識が現場や遺留品を調べたが指紋は検出されず、切断された指も見つからなかった。シーツやロープも安物の量産品でそこから犯人を特定することは難しく、怨恨の線も含めて捜査をしているが、手がかりは摑めていないとのことだった。現場に防犯カメラはなく、現在、目撃者探しに努めているという。


「二年前にも七節町で、同様の事件が三件あったんですよね?」

 ハンドルを握る諸星が千里に訊いたが、千里は黙ったまま、タブレットに表示された捜査資料を読んでいた。

「マスコミは発見された遺体の状態からミノムシ殺人だのコウモリ殺人だの書き立ててますけどね。今回の事件も同一犯でしょうか?」

千里は応答しない。

「ここまで手間かけるなんて、犯人はどんな奴なんですかね?」

答えを返さない千里に、まるで自分がぶつぶつひとり言を喋っている変人みたいだと感じた諸星は口調を強めた。

「緋波警部、聞いてますか?」

そこで、やっと千里が言葉を返した。

「二年前の、三件目の事件データは?」

「三件目の事件?」

「あんたの言ったとおり、二年前にも七節町で同じ事件が三件あった。私はその捜査本部にいた。でも、三件目の事件のことはよく知らないの」

千里はヘッドレストに頭を寄せて目を閉じた。

「三件目の事件って、妹さんの・・・」

口ごもる諸星に、千里は気が立っているのか突然、怒鳴り声を上げた。

「どこにあんの!」

「はいっ。データなら本庁にありますし、七節署にも捜査資料が保管されてると思います」

諸星は怖気ついて答えた。

「なら、捜査本部行く前に資料見せて」

「わかりました」

その後、ふたりは沈黙したままだった。殺伐とした空気のなか、覆面パトカーは走り続けた。

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