第16話
馬車は既に、峠に差し掛かっていた。速度が落ちている馬車に追いついたアレンは、息を切らしながら、中のネウロに「どういうつもりだ」と怒鳴った。ネウロはニヤニヤ気味の悪い笑みを浮かべながら、「ほぅ、ほぼ無傷とはやるじゃないか」と言った。
「いい腹ごなしになっただろう?」
彼は、アレンの隣でヒーヒー言っているドルトンにも、笑顔で言った。ドルトンは、「おお、丁度良かった」と肩で息を切らしながら、胸を張って見せた。
「物足りなければ、いつでも言ってくれ」
彼は荷物の中から、小さな筒を取り出して振った。薄い桃色っぽい粉末が、空中で光を受けながらパラパラと舞う。それを見たアレンが、「止せ」と振るのを止めさせた。どうやら、その筒が例の「フェロモン」らしい。必ずしも鏑矢とセットで使う必要はないらしく、そのまま手で投擲して使ったり、その場で叩きつけてばら撒くことも出来るらしい。その分、近くの魔物を惹きつけることになる。
「流石にもう大丈夫だろう。総隊長は前に回ってやれ」
ネウロは上から僕に声を掛け、グレイシアと入れ替われと顎で示した。僕は追撃に備えて抜き身のままにしていた剣を鞘へ戻し、馬車の前へ回った。グレイシアには何も伝えていないのに、彼女はスーッと僕が空けた場所を塞ぐように立ち位置を変更した。僕とは決して擦れ違うことなく、狭い峠の林道でも十分な距離を取って無理なく守りの薄い場所を占めた。
見通しのいい開けた田園風景が、いつの間にか日中でもやや薄暗い、見通しが良いとは言えない林道になっていた。道幅も先ほどよりかなり狭く、馬車も一頭立てだからなんとか通れているようだ。もし向こうから馬車が来てしまったら、その場での行き違いは不可能だろう。
もっとも、足元の路面を見るに、しばらく馬車が通った形跡はない。せいぜい徒歩か牛馬といったところだろう。地面に生い茂る草を踏み、不意の落石や野生動物との遭遇も警戒しながら前に進む。
隊列を整え直してしばらく経つのに、アレンはまだぶつくさ文句を言っている。
「確かに予期せぬ効果も生むが、それほど悪いものでもなかろう?」
人里離れた空間で、耳を澄ませば鳥の囀る音や梢枝が触れ合う音、どこかを流れる川や沢と言った清流の音も聞こえるのに、近くでいつまでも呪詛を唱えられれば、ネウロでなくても気が滅入る。溜まりかねたネウロの言葉も、アレンはキッと睨みつけた。
「貴君らにも非常に効果的なトレーニングとなったし、貴君らの頑張りのおかげで、あの辺りの小さな魔物は相当数を打ち倒すことができた」
「つまり、その分平和になったし、犠牲者も減る」
ドルトンはネウロの話を自分で補足しながら、自分で「おお、なるほど」と手を打った。ドルトンはアレンに、「良いことじゃないか」と背中を叩いた。
「よくねぇよ。物事には程度ってものがーー」
アレンがドルトンに反論しかけたところで、馬車はゆっくり動きを止めた。急に静かになったために、アレンは「ーーあってだな」と最後は消え入るような声でモゴモゴと言いながら、周りの様子を確かめる。彼の視線は、馬車から降りてきたネウロを追いかけた。
彼の視線の先で、ネウロは門の前に立つ兵士とやりとりしていた。
「関所に着いたなら、そう言えよ」
アレンは後ろから僕の足を蹴り上げ、小声で耳打ちする。関所の奥へ通じる門の前に立っているもう一人の兵士が、僕とアレンの様子を横目で眺めている。直立不動のまま、黙ってこちらの様子を伺っている様は、なぜか非常に滑稽だった。
兵士とやり取りを終えて戻ってきたネウロは、隊列の先頭に立って馬車を門の奥へ進める。僕らはその後ろについて、「ご苦労様です」と警備の兵士に頭を下げ、先へ進んだ。関所を少しすぎると、ネウロはそそくさと馬車に乗り込んだ。もう登りは通り過ぎていて、緩やかな下り坂になっているというのに、相も変わらずセバスチャンの後ろで怠惰に過ごしている。
「オレらより、アイツを扱いた方が良いんじゃないか?」
ドルトンもドルトンで、相変わらず空気や場所を弁えないボリュームで、軽口を叩く。馬車の中にいるとは言え、聞こえないとは思えないが、彼方は無視を決め込んでいる。
「アイツはただの神輿だからなぁ」
「それでも、いざって時は自分の身ぐらい護ってもらわないと」
「お付きの護衛、忠臣がいるから大丈夫だろ?」
アレンとドルトンは、山道を下る間、延々と適当なことをしゃべり続けた。本人らがいる前で飽きもせず、絶妙な嫌味を間断なく繰り広げる。
アレンはフューリィのことを忠臣と称したが、本当のところは微妙な気がする。職務を離れれば、水面下で反目していてもおかしくは無い。だからこそ、側に置いて連れ回しているのかも知れないが……。
折角の気持ち良い森林浴とハイキングが、峠道の後半も騒がしいまま終わってしまった。林道の両サイドは見通しが悪く、狭い場所で野生動物や魔物、盗賊にでも襲撃されたらどうしようかと気を張っていたが、何事もなく麓まで降りることが出来た。
クネクネと葛折りになった道を最後まで抜けると、開けた場所に出た。関所からここへ至るまでに、山中に設けられた元宿場や茶店の痕跡も見られたが、今はすっかり廃れていた。この先には多少の集落があるようだが、峠や関所を使う巡礼者は、途絶えて久しいのかも知れない。
僕は道の脇にあった小さな祠に手を合わせると、先に進んでいた馬車を早歩きで追いかけた。長閑な田園風景に、西の方へ沈んでいく太陽がまた美しい。とは言え、景色に感動してボサっとしていると、まともな宿や食事に在り付けない。辺りが暗くなる前に、次の集落へ辿り着かねば。
山を背にして真っ直ぐ進んでいると、目の前に新たな山が見えてきた。今度は迂回しようの無い山脈というよりは、小さな山々が集まっているようだ。これなら、隙間を縫う道もありそうだ。気持ちを楽にして、まばらに立つ民家の間を縫うように、道なりに進む。だんだん山の形がクッキリし始めると、手前に川が見えてきた。幸い、馬車も問題なく通れそうな橋が掛かっている。この橋を渡れば、向こう側に大きめの宿場町があるようだ。
一歩ずつ近付くにつれ、街の明かりや夕暮れ時の喧騒が鮮明になって来る。
大都会だったカレフとは異なり、こちらは色んなものがギュッと集められている。集落の規模こそ大きいとは言えないが、密度が高い分、小ささを感じさせない。巡礼者や旅のものもよく訪れるのか、余所者に対してもどんどん話しかけてくる積極性、親しみやすさがあった。
セバスチャンは馬車から降りて、馬の横で手綱を引いていた。ズッと馬車に乗っていたネウロやフューリィも、いつの間にか自分の足で歩いている。
「で、どうする?」
ドルトンはデカい図体を捻り、向かいから来た人とすれ違いながら言った。
「先を急ぐか、今日はここまでにするか」
僕はネウロへ視線を送るが、彼は首を振った。
「宿があるなら、留まろう。このまま進んでも、野宿は避けられまい」
この辺りの土地鑑は全くないが、彼がそう言うなら、次の宿や街まではしばらくあるのだろう。街中で灯りがあるお陰で多少は明るいが、陽はとっくに暮れている。旅に出た初日から、魔物を警戒しながらの野宿を選ぶ必要もない。
「じゃあ、まずは宿だな。コイツも休ませてやらないと」
ドルトンは、背後の馬を指した。馬の休息もさることながら、いつまでも馬車を引き連れて街中を練り歩くのが、難しくなってきた。ほぼ丸一日手綱を引いていたセバスチャンの休息も必要だろう。
ネウロは街角で警備に当たっていた兵士に声を掛け、厩や馬宿のある宿屋を尋ねていた。街の中心部を少し外れたところに、大きめの車庫もある宿屋があるそうだ。それだけ設備が整っていれば、ネウロのお眼鏡にも敵うことだろう。
我々はまずその宿を目的地に定め、人混みを掻き分けながら先を急いだ。
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