第8話

「今日は随分と早歩きだな」

 研究室から追い出されてから、高岩と帰路に着いていた。二人で並んで歩くような間柄でもないし、今日は特にそういう空気を作れそうにない。

「呼吸が乱れている。無理はしない方がいい」

 高岩は僕の前に回ると、呼吸一つ乱さずに僕を気遣った。その余裕ぶりが、自分の至らなさと彼の適性を強調するようで、余計に腹が立つ。今は、高岩の顔なんて見たくない。僕は購買の前で道を曲がり、わざと遠回りになる道を選んだ。何も告げなかったのに、高岩はなぜか僕の後をついてくる。

「さっきのことなら、気にするな。オレはテスターしかやらん。ヤマブキは、お前が引き継げ」

 高岩は階段の上で立ち止まり、僕の上から言った。僕は、下から上がってくる他の学生に道を開けながら、高岩を見上げる。その顔はいつものように無表情で、特別な感情はこもっていない。

「へぇ。博文、テスターになったんだ」

 高岩の背後に、購買の袋を提げた岡元さんが立っていた。

「ヤマブキのテスター、ねぇ……。実践形式をお望みなら、いつでも相手になるぜ?」

「いや、結構だ。戦いたいなら、試合まで待つんだな」

「試合じゃ、お前をぶちのめせないだろ?」

 岡元さんは、急に低い声で言うと、高岩を睨みつけた。二人の間に、不穏な空気が漂い始める。普段は穏やかで飄々としている岡元さんにしては、妙に喧嘩腰の物言いだ。高岩も高岩で、いつもは掴みどころのない性格をしているのに、目の前の先輩に向けている敵意はヒシヒシと伝わってくる。

 上位ランカーである岡元さんが、ルールも知らずに戦い始めるとは思えないが、このまま放っておくと、本気のぶつかり合いになりかねない。どうすべきか独りでオロオロしていると、高岩が上から僕に「おい」と声をかけた。

「これを、預かっておいてくれ」

 高岩はそう言うと、さっき先輩方から渡された二枚のディスクを、僕に向かって放り投げた。これだけ渡されても、僕には活かしようがないと言うのに。そんな文句を彼にぶつける余裕などなく、僕は宙に舞ったディスクを地面に落として割らないよう、足元にも気をつけながら受け取った。何とか、ディスクもケースも傷つけることなく手中に収まり、階段も踏み外さずに済んだ。ホッとして、高岩に何か言ってやろうと顔を上げると、視線の先に、高岩の姿はなかった。彼と睨み合っていた岡元さんの姿もない。

 僕は慌てて階段を駆け上がった。購買の前まで行って周りを見渡しても、二人の姿はどこにもない。この前を真っ直ぐ降りていけばバス乗り場に、道なりに左手へ曲がれば上り坂になっているが、見通しの良いどちらにもそれらしい人は見当たらなかった。

 購買の裏手、人目につきにくそうな草っ原の方から、草や砂利を踏み締めるような音が聞こえた気がする。僕が「高岩?」と声を出しながらそちらを覗くと、そこには誰もいなかった。草っ原の向こうは、草が生い茂って足元が全く見えない上に、傾斜が強い崖のようになっている。猫や鳥ならまだしも、まともな装備や訓練もなしに人が踏み入るのは危険な場所だ。

 境界に建てられている柵を越えて、向こう側へ行ったとは思えない。隣に立つ体育館の方を見ても、人の姿は見当たらない。目ぼしいところは一通り見たが、どこにも彼らの姿は見つからなかった。

 一瞬で、人が姿を消す。高岩は、以前も似たようなことをやってのけたが、岡元さんまで、そんな芸当ができるとは。ジャケットを着用して、無理なく動ける人たちは身体能力が異常に高いとでも言うのだろうか。

 僕は首を傾げ、崖の向こうに広がる大阪平野をボーッと眺めた。北河内の街並みが向こうの方まで見渡せる。遠くの方で、二つの小さな影が宙を舞ったように見えた。白と黒の点と点が空中で交差して、ぶつかり合う。遠すぎてよく見えないが、鳥にしては形や動きがそれっぽくはない。

 以前、月夜の晩に自分の部屋から似たような光景を見た気もする。あの時も、遠さと小ささで何が起きているのか、全く分からなかった。この辺りの地域なら良くあることなのだろうか。

 僕は、高岩に投げ渡されたディスクを片手に、それをどう扱ったものか悩みながら、ひとまず自分のカバンに押し込んだ。これの保管、受け渡し方法は後で本人に訊くしかないと思ったところで、僕は「あっ」と声を漏らした。

「しまった。連絡先ーー」

 同じチームへ出入りすることになったタイミングで、高岩と連絡先を交換しておくべきだった。ただ、彼がケータイを触っている瞬間を見た覚えはない。入学時に、学校指定のパソコンは買わされただろうから、一旦メールでも送ってみよう。ただ、彼の学籍番号に紐づく学内のアドレスも、僕には分からなかった。竹内や押川へ尋ねたところで、彼らも高岩の学籍番号など把握していない気がする。

 結局、彼と連絡したければ、彼に直接会うしかない。週明けの必修講義、その教室で彼を見つけて手渡すしかないのか。動作チェックに欠かせない先輩のデータ、この土日に見ておかないと、困るのは先輩やチームなんだけどなぁ……。

 僕は、いつの間にか足元に擦り寄ってきた猫に、「どうしようかね」と撫でながら語りかけた。購買の近くで餌をもらっている地域猫らしく、何か持っていそうな学生には撫でさせてくれるらしい。

 僕は猫の横でしゃがんで、「先輩のデータどうするんだって、君から高岩に伝えてくれる?」と言った。猫は聞いているのかいないのか、気の抜けた声で一声鳴くと、僕が何も出さないことを悟ったらしく、体勢を変えてのそのそと去っていった。


 その日の晩、夕飯も入浴も済ませ、高岩から預かった二枚のディスクをどうするか、机の前で悩んでいると、外から窓に小さな小石がぶつけられた。一回だけなら偶然だと無視するが、二度、三度と繰り返されると確かめざるを得ない。カーテンを少し開け、窓から外を見た。窓のすぐ下に、高岩が立っていた。

 僕は薄手の上着を一枚羽織り、まだリビングにいた親に「ちょっと出てくる」と声をかけ、サンダルを突っ掛けて外に出た。高岩は申し訳なさそうに「夜分遅くに、すまない」と謝った。

 僕は、「別に良いんだけど」と思ってもないことを口にした。本当はどうやってウチや僕の部屋を特定したのかを訊ねたかったけど、それは棚に上げ、「コレだろ?」と預かっていたものを差し出した。

 高岩は、「ありがとう。助かった」とそれを受け取ると、流れるように自分のカバンへしまった。用は済んだと立ち去ろうとする高岩に、僕は「あの後、どこ行ってたんだよ」と訊ねた。彼は、「ちょっとな」とだけ答えた。そんな答えでは、納得できない。

「岡元さんと、何もないんだろうな?」

 僕が一緒に姿を消した先輩の名前を出すと、彼は一瞬眉を動かした。やはり彼と岡元さんとの間には、何らかの因縁があるらしい。彼は僕の質問には答えず、「奴には気をつけろ」と言った。

「気を付ける? 何を?」

「良いから、奴には近付くな」

 高岩は一瞬顔を歪め、苦しそうな声で言うと、改めて立ち去ろうとした。僕は「あ、連絡先」と声に出して言ったが、高岩は足を止めず、少しずつ遠ざかっていく。僕は彼の背中を見送りながらポケットを探ったが、ケータイもメモも部屋に置いて来てしまった。彼が立ち去る方向を確かめ、ダメ元で部屋に上がって必要なものを取って戻ってきた。高岩の行動を推測して探してみるが、見つけられない。

 またダメだったかと、高岩が立っていた場所まで戻ってみると、地面に小さく体液の垂れた跡が残っていた。全く気が付かなかったが、出血を伴う怪我を追っていたようだ。地面に、点々と茶褐色に錆びついた染みが続いている。コレを追えば高岩を追いかけられそうだが、街灯の無いところは全く見分けられず、僕は追跡を早々に断念した。

 翌朝気が向いたら挑戦してみようと床に就いたものの、次の日には痕跡が綺麗になくなっていた。幻を見たのかと思うぐらい、彼がいたという痕跡は微塵も見つけられなかった。

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