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 迷子通りとでも言うべき、あの迷子の張り紙の迷宮の近くには、楽園公園という美しい風景がある。陳腐な表現にはなってしまうけれど、一言で済ますのであれば、この風景はまさに、「天国」という語彙から連想される風景そのものである。


 雲の上にいるのではないかと錯覚させる、白い霧が常に園内には掛かっている。太陽は靄によって見えないけれど、しかしある種神々しさすらある光が満ちている。


 園内は四季に分けられている。源氏物語を想像すれば早いかもしれない。中央の花の回廊を介して、それぞれへと自由に行き来できる。簡単な話、田んぼの「田」の構造だ。


 関数で言うところの、第二象限は春の園である。千本桜とでも言うべきか、桜の樹がアーチ状に連なって、花のトンネルを作っている。白と桃色の花弁が雨のように舞い散る様は、圧巻の一言に尽きる。夜ともなれば、きっと尚更綺麗だろうが、しかし、実はこの公園に夜はない。常にこの明るさが保たれているのである。


 第一象限は夏の園だ。海と見紛うほどの大きな池を中心として、砂浜のような砂場、向日葵を始めとする夏の花々の順で取り囲まれている。海の中心には、屋根のある円卓状の休憩所がぽつんとある。一見泳ぐことを除いては、辿り着けなさそうな位置にあるけれど、驚くなかれ、実はこの水面、凍っているので、ウユニ塩湖のように歩くことができる。最早天空の鏡としか思えない、水の揺らめきすら見える透明度には、感嘆せざるを得ない。

 そして異質なのは、砂浜に所々埋まったラムネ瓶であろう。中身は空っぽだったり、しっかり入っていたり、或いは手紙だったりする。自然ではあり得ない風景——この奇妙さ、訳の解らなさ、不自然さこそ、怪異のつくる風景の大きな特徴である。


 第三象限は秋の園だ。ここの葉っぱたちは、綺麗に紅葉している。大きな楓の落葉が道を覆い尽くす。心地の良い風が吹いているのも特徴的で、落葉たちを螺旋状に運ぶ。銀杏の匂いは臭くもあるけれど、同時に心の懐かしき情景を想起させる——気がする。気がするだけかもしれない。

 

 残す第四象限は当然、冬の園だ。しんしんとした雪催。濃い緑の針葉樹が、白色を葉っぱに被る。凍えるような肌寒さと、積雪で歩きにくい足場。命が枯れたことを意味するその色は、淋しくも、感慨深い気持ちにさせられる。肺に入る空気は冷たくも美味しくて、己に蟠る汚れを浄化してくれることだろう。


 その四つのうち、僕らがいるのは春の園である。


 四季ちゃんは、その白い頭に桃色の花弁を乗せたままに、「相も変わらず、不気味な綺麗さだね-」と、楽園公園を的確に評した。


「綺麗な自然の風景なのに、生態系が全く存在しないのが不気味だよねぇ。鳥の一匹飛んでいないんだから」


 この静寂は恐怖感すら憶える。思っているよりも、獣たちの出す音というのは、自然風景に多大な影響があることを知る。


 天国に命は赦されない。ここでは死こそが自然だ。


「さっきまで、あんなに鴉が鳴いてたのにこれだからねぇ」

「あー、そういえば、外界の音も全くしませんね」


 まるで隔離されているみたいだ。


「『隔離ってより、幽世かくりよだけれど』でしょ」

「驚きました、読心術ですか?」

「それくらいわかるよー。デュパンじゃなくてもねー。ボクは普段、もっとたくさんの人間の心情を空想しているんだから」


 式織四季という名前を聞けば、僕なんかは、目が濁っている白髪の無邪気な女の子を思い浮かべるけれど、世間一般的には、とある一人の天才少女作家を連想するに違いない。「歩く図書館」とまで形容される、彼女を。


「全然、そうは見えませんけれどね」

「む。ひどいよー、ボクも頑張ってるのに」

「褒めてるんですよ」

「んぇ? どゆこと?」

「かわいいってことです」

「おー、なるほど」


 得心したのか、何度か頷く。僕としては、少しは照れてほしかったのだけれど。いやまあ、四季ちゃんは自分がかわいいことを自覚している節があるので、望みが薄いことは解っていた。それがまた、魅力といえば魅力なのかもしれない。


 そんな具合に、花のトンネルを雑談を交えながら進んでいくと、開けた場所に出た。


 そこは花畑であった。中央の道を境として、二種類の花が咲き乱れている。少し奥にはくるくる廻り続ける風車があった。


 一つは薄い青。僕の曖昧な知識で申し訳ないけれど、これはおそらく、勿忘草である。可憐な見た目と、儚い名前が印象的だ。中には白やピンクのものも混じっている。そんな彼らが囲むのは、中央の透き通った池である。涼しい風で、水面が仄かに揺らいでいる。


 一方、反対側は紫色の花。これは誰もが知っている——そう、紫陽花だ。美しい反面、花をのそのそと伝うカタツムリがいないことが、酷く寂しい。こいつが花を咲かせるのは、一般的には初夏である。少々場違いに思われたけれど、直ぐに気がついた。紫陽花のある方角には、夏の園があるのだ。つまりこれは、春から夏への移ろぎを表現している——ということなのかもしれない。ともすれば、中々乙なことをするものだ。


 しかし、そんな考察なんて、はっきり言ってどうでもいいのだ。正解だろうと不正解だろうと同じことである。何せ、この景色は怪異のつくったものだ——多少の矛盾はあるし、地球の摂理さえ無視してしまう。


 現に、紫陽花の方にだけ、ずっと雨が降り注いでいるのだから。


「綺麗ですね」

「うん。不自然な自然だね」


 どう言うべきか、やはりこういった奇妙な景色は、人間には描けない、人外特有のそれである。AIの描く絵に通ずるものがある。


 不気味で美しい。


 四季ちゃんと同じだ。


「君と同じだねー。矛盾故の美しさ」

「そうですね……。あれ――」


 瞬間的に、空気が、変わった。


 肌にべったりと纏わり付く厭な気配。


 気持ち悪い。気味が悪い。


 頭を巡る感情群。例えば楽しいとか、例えば怖いとか。しかしそこに、一つのどす黒い感情が顕れる。その闇は瞬く間に、何もかもを呑み込んで、あっという間に支配する。僕の心に残ったのは、至極単純である反面、生命として失格した、あるいは、生命の欠如と言わざるをない、救えない衝動であった。


 水彩画のように美しいこの風景キャンバスが、墨で汚されていく感覚……。


 死んでしまいたい。


「……四季ちゃん」

「うん、わかってる」


 いつもの腑抜けた口調が、真剣になる。


 楽園公園の入り口は、どこも警告色のテープで封鎖されている。何故なら、ここは逍遙するには、余りにも危険だから。どれだけ美しかろうと、その本質は怪異である。その奥にあるのは、人に害を為す毒々しい棘だけだ。


 天使の怪異は死んだ。


 しかし、影響は当然残る。エジソンの発明した豆電球が、今も街を明るく照らしているように。アインシュタインの相対性理論が、物理学に革命をもたらしたように。


「その希死念慮に従ったら、絶対にダメだよ」


 夕立雲があっという間に空を支配してしまうように、頭の中が「死にたい」という衝動で一杯になる。


 死にたい。


 楽園公園に立ち入っては行けない理由はこれである。四季ちゃんが黒猫を外に置いて行ったのも、これが理由だ。ここは天国と同質だ。生命が赦されない。ここに踏み入れた生命は、どうしようもなく死にたくなる。


 死にたい死にたい死にたい。


 桜の木に、ぶらんとぶら下がるものがあった。その黒い物体はまるでノミのようにゆらゆらと揺れている。いや、あれは間違いない――首吊りの死体である。この希死念慮に潰された、人間だった何かである。


 しかもそれは一つじゃない。よく見れば、至る所にぶら下がっているではないか。あぁ、何と気味の悪い光景だろうか。腐って腐って、首と胴体が皮一枚で繋がっているものもあるではないか。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。


 あぁでも、なんかちょっと、たのしそう……。


「澱くん!」


 四季ちゃんの言葉で我に返った。危うく呑み込まれるところだった。ダメだ、あの死体に目を向けてはダメだ。あれは冥界へと誘う、妖しき蛍の光に相違ない。


「……ありがとうございます」


 そう礼をしかけた瞬間、酷い耳鳴りがした。頭の中で火花が散るような激しさに、思わず目を瞑る。暫くすると、嘘みたいに鳴り止んだ。デクレッシェンドのような緩やかさはない。凄腕のオーケストラみたいだななんて、呑気なことを考えつつ瞼を開いたが、しかし僕は直ぐにそれが、場違いであると知った。

 

 


 天使のような見た目――いや、それは正しく、天使と表現するべきだろう。頭の上に浮かぶ輪っか。背中から生えた大きな両翼。美しい少女の顔をしていて、体付きは酷く華奢である。


 けれど、片方の目が空洞だ。深淵のような眼窩。翼は化石のような骨組みだ。黒く燻んだ輪っかは、まるで腸のようにグロテスクに脈打っている。身体中生傷だらけ。そこから、どろっとした泥のような鮮血が垂れている。青痣も目立つ。特に首の周りは紫色に変色している。


 天使の惨死体とでも表現すべき有様であった。


 そいつは蜃気楼のように、曖昧に揺らいでいる。ちかちかと点滅する街灯に合わせて、黒い人影が見え隠れするように。夜空に瞬く、飛行機の光のように。


 動いたのは四季ちゃんだった。


 普段からは想像できない程の機敏な動きで、彼女は懐から得物を取り出した。それは侍が持つような刀だろうか。あるいは死神の持つような鎌だろうか。いや、違う。彼女が取り出したのは、小説家の扱うような真っ白い万年筆だった。


 それをまるでナイフを扱うように逆手で持って、天使に向かって思いっきり薙いだ。


 横一閃の一撃。傷だらけの天使の肢体に、再び大きな傷穴が開く。次に滲み出るは、赤黒い鮮血であろうか。否、不正解。


 紙だった。原稿用紙である。


 天使の傷口から、血ではなく、原稿用紙が吹き出した。それは宙へと舞い、重力に従って、宛ら戦火に焼かれた鳥のように、ひらひらと降りてくる。それらは不思議と、四季ちゃんの元へと収束していく。


 そのうちの一枚を手に取った彼女は、万年筆を本来そうあるべきように使った。筆先から滲むインクは赤黒い。そう、この万年筆は天使の血を吸い取っていたのである。その血液で、原稿用紙の上に次々と文字が紡がれる。


 文字は言葉になり、言葉は文になり、文は文章になり、やがてそれは小説の体を成した。


 そして驚くべきことに、あのグロテスクな天使は、まるで嘘のように消えて失くなっていて、更に瞬きを挟むと、あの原稿の束すら消え失せて、四季ちゃんの手元に一冊の本だけが残っていた。表題には血文字で「天使のからくり」とある。


 ぺたんとその場に座り込む四季ちゃん。


「うぅ、足挫いたかも……」

「運動不足ですよ」


 これこそが、式織四季の怪異への対抗手段である。


 目には目を。歯には歯を。怪異には怪異を。


 魔女の怪異の遺失物――自動筆記万年筆「桃源郷」。





 

 


 


 


 


 



 


 



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