第19話 天地二律背反

初めて宙を飛んだ。もう何年前だろうか、春の陽気を感じる涼しい風だった。内陸だったから海は見る事が出来なかったけれど、艦上機と言う名そのままに、海に出られる日が酷く待ち遠しかった。


あれは冬の日だったか。目指す先は南国とは言え、自らが切る風は冬らしく冷え切っていた。だけど心は熱く昂っている。ちら、と後ろを盗み見ると、母艦は朝日を浴びて鈍く温い光を纏っていた。艦首の紋章が黄金に輝いている。其の姿に、微かに残っていた不安は全て霧散した。自分達こそが最強の機動部隊だと、きっと背後の艦達だって信じて疑わなかった。


画面が黒く、否、赤く切り替わる。先程発艦したばかりの母艦から噴き上がる炎風が、身体を熱く撫ぜていった。行ってこい、と背を叩いてくれたからの熱風が。たった一艦だけ残っていた空母に無理矢理着艦する。茫然としている自分達に向けて、少年が口を開いた。彼の大きな山吹色の眼には大粒の涙が溜まっていたが、其れでも。

「――ワレ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル、帝国ノ栄光ノ為戦イヲ続ケルノハ一ニ飛龍ニカカッテイル!」

(……ああ、其のままだ。この真っ直ぐな正義感も、諦めの悪さもあのこそっくりだ)

「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス!」彼の涙交じりの怒声に合わせて、もう一度、仇を討たんとして飛び立つ。成功した時は、艦内だけで無く空中の機体すらも雄叫びを上げる程だった。だけど、所詮は一艦のみ、そんな反撃が続く訳も無い。……また、視界が熱く赤く染まり、かちりと変化した。


また別の『自分』が、基地を出発する。黒煙を上げ停止している戦艦を捉えた。だけど、彼は未だ生きている。まだ走れる筈だ。甲板上の青年は、まだ其の足で立っている。二度と動く事の無い艦はで幾度となく見てきた。だから、彼は大丈夫。そう自分に言い聞かせた時だった。

「比叡ノ処分待テ!」

遥か下、海面に浮く一隻の駆逐艦がそう声を荒げた。と同時に、海中を切り裂きながら滑る音が耳に届く。待て、と、駆逐艦上の少年は確かに叫んだ。なのに、どうして。此れからあの戦艦に起こる事がまざまざと想像出来てしまい、身の毛がよ立つ。見たくもなくて、思わず目を逸らした。


次に目を開けると、そこはまた航空母艦の上だった。発艦始メ、という少年の声に合わせて艦首から飛び立つ。ぶわ、と体が浮いた瞬間、今しがた離れたばかりの母艦が大きく揺れた。まさか、魚雷か。自分達どころか周りの護衛達すら全く気付いて居なかった。しかし、母艦は其れでも速度を落とさずに走行を続ける。左にも前にも傾いているのに。何処からか響く破壊音が、其のまま彼の命が剥がれ始めているのを伝えるカウントダウンの様だった。

「翔鶴ハ止マラナクテハ駄目ダ!」

側に付いていた軽巡洋艦からそんな声がした。でも、聞こえているのかいないのか、彼は止まる気配が無い。……違うな、彼の性格上、自分だけ安全地帯に退こうだなんて考えていないだろう。ましてや、直ぐ近くにが居るとなれば。また少し艦がふらつく。と思った瞬間、艦は巨大な爆発音と共に急激に前のめりに傾き始めた。否、傾くなんて物じゃ無い。ほぼ直角に物凄い勢いで呑み込まれていく。其の側、沈みゆく彼と瓜二つの艦から、まるで悲鳴の様な叫び声が聞こえた。


気が付くと、また風景が変化していた。此処は南国の島国近くだろうか、頬を撫ぜる風が生温い。でも、そんな悠長に辺りを眺めている暇なんか無かった。朝の日光に混じって敵機が百数十機以上向かってくる。直衛機は自分達で二十機も居ない。旗艦の、一際大きい母艦上の少年が口を開いた。

「敵艦上機約八十機来襲我ト交戦中。地点ヘンニ13」

彼は友軍に対してそう通信を始めた。届くと良いのだが。其れが合図とでも言う様に、爽やかだった秋空で火花が散り始める。前方に居た空母達に其々魚雷が命中したのか、数度水柱が立った。一度彼等がふらついたと思った瞬間、次は左前方を走っていた駆逐艦が突如爆発して一瞬で姿を消した。

息付く間もない暴行の嵐に、空母達はおろか駆逐艦や軽巡洋艦、挙げ句の果てには戦艦迄も皆満身創痍だった。なのに、自分達はもう飛べない。数も半分にまで減ってしまった。断腸の思いで海面に脚を付け、乗員だけ駆逐艦に救助してもらった。其のまま、波間から艦隊の様子を伺う。彼等を助けられない事へのもどかしさが、ずっと胸に燻っていた。

一時過ぎでの空襲で、自分の飛び立った母艦に攻撃が集中する。自分達にはもう彼を護る事が出来ない。雷跡を認めても、口が無いから叫ぶ事すら出来ない。そして、猛火が上がった。乗員が続々と甲板上に集まってくる。大きく傾き最早水を切る飛行甲板の上で、残った船員達は敬礼、万歳を繰り返した。瑞鶴万歳、の声が此処迄聞こえて来る。全てが終わった後で、血塗れでへたり込む少年が薄く微笑んだ、気がした。全てをやり切った後の達成感なのか、終わりを悟った諦めなのか。其の笑顔を認めたと思った瞬間、艦がゆっくりと直立を始める。艦首の菊花が、夕陽に照らされて眩く輝いていた。美しい、と、そう思ってしまった。暮れ泥んでいた永い一日が終わる。此れは宛ら、帝国海軍の落日か。ああ、日が沈む――




「――れい、総司令! 大丈夫ですか⁉︎」

鳳翔さんのそんな声と肩を揺すられる感覚と共に、の意識が戻ってくる。

机に膝を付いて俯いたまま固まっていたのか、肘と肩が痛い。ぼんやりと目を開けても、先程迄の海や煙、炎、そして艦達が見える訳もなく、薄暗い図書館の風景が目に入るだけだった。


「……僕、は」

「御免なさい。まさか思い出させてしまうとは……不覚でした。やはり話すべきでは無かったでしょうか。本当に申し訳有りません……どの様な処分でも受ける所存でございます」

心底済まなさそうに鳳翔さんは眉を下げる。まだ頭は痛むけれど返事が出来ない程ではないので、「大丈夫だよ」と僕は無理矢理笑顔を作った。


「良いんだ。良いんだよ。寧ろお礼を言いたい位だ。ありがとう、鳳翔さん。……僕、」

思い掛けず口が開く。声を発する事が、ひとと兵器の違いだろうか。そうしないと、また輪郭がぶれてしまいそうで不安だった。ぽつぽつと言葉が洩れていく。


「昔……そう、丁度十二年前位、かな。あれ、誰に言ったんだっけ。飛龍くんだったかな。其れより前は僕孤児院に居て……其処から、あの人、大将に手を引かれ、て……そっか、気が付いたら、此の組織に居たんだ。小さい頃から船好きだったけど、ふふ、此れでかな?」

脳の奥に蟠っていた記憶を吐き出すと、少しすっきりした。彼には悪いと思うけれど、もう少しだけ話させて欲しい。


「……この間三笠くんに言われたんだよね。良い感じに狂ってる、って。こう言う事だったのかな。今から考えたら、変な事ばっかりだった。戦闘機なんて乗った事無かったのに、操縦方法を知っていたのも。初見で乗りこなせたのも。……ああ、すっきりしたなぁ!」


無理に言い出した事だったが、声にしてみると案外的を突く感情なのかも知れない。事実、此の言葉に嘘偽りは無いから。

だが、鳳翔さんは相変わらず苦々しい顔で此方を見詰めるだけだった。其の口は固く結ばれ、少し震えている。


「や、本当なんだよ? 鳳翔さん? 本当に僕は大丈夫だから。あれ、でも、僕が機乗りなら、僕提督に向いて無いんじゃ……使役される側じゃない……?」

「……そんな事は有りませんよ」

何とか雰囲気を明るくしようと軽い事を言ってみた。その甲斐有ってか、鳳翔さんは久しぶりに声を発してくれる。


「何が在ろうとも、貴方は僕達の提督です。其れが揺らぐ事など有りません。きっと、誰も、そんな事思いませんよ……だからこそ、僕は今、貴方に此の事を伝えたのですから……」

「……鳳翔さん? どうか、した? 僕の事は気にしなくて良いから、何か有ったら言ってね? そもそもどうせ僕は加賀くん達に言われて鳳翔さんに会いに来たんだから。って、明石さん? もそう言ってたらしいし」


ぐ、と彼が息を一つ呑んだのが分かった。しかし其れも束の間、何かを決意したかの様に口を開く。

「そう、ですか。あのこ達が。……あのこ達も明石も、総司令まで、皆優しすぎて困ります」

彼はふっと表情の力を抜く。すわ何か話してくれるのではないかと期待したが、鳳翔さんは柔らかな笑みを湛えたまま緩く首を振るだけだった。


「でも、僕は大丈夫です。大丈夫。まだ、あのこ達にはそう言っておいてくださいね」

にこ、と優しく微笑み掛けられる。だけど、有無を言わせない彼の笑顔は、なぜか嘘に見えてしまった。微かに滲む覚悟か、何かに気圧されて少し頷くしか出来ない。加賀くん達には黙っておくべきか。


「いえ、その、僕の事は気にしないで下さいね。寧ろ僕達艦乗りにとって心配なのは貴方ですよ」

「え、僕?」

とは言え、僕は本当に気にしていないのだ。って言うか、まぁこんなものか、位の気持ちしか浮かんでこない。生まれてこの方此の鈍さなのは変わらないし……

否、兵器を纏うことが、『零戦』が此の感情に拍車を掛けているのだろうか? うーん……やっぱり考えても埒が明かない。


「戻られますか、総司令?」

相変わらず首を捻っていると、鳳翔さんが遠慮がちに問い掛けてきた。それもそうだなと思いつつ「うん、そうするよ」と答えると、彼は少し目を伏せた。

日が傾き薄暗くなってきた図書館内と相まって、其の表情が読み取れなくなる。立ち上がろうとした僕の背中に言葉が投げ掛けられた。


「――僕達兵器の命は、人間よりもずっと軽い」

「? 鳳翔さん、何を……」

「何が起ころうとも、決して御自分を責めないで下さいね、総司令」

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